広隆寺

■広隆寺の歴史と信仰

清滝英弘

▶広隆寺の草創

▶仏教伝来と聖徳太子

 仏教が正式に日本へ伝わったのは、欽明天皇の十三年(五五二)十月百済の国の聖明王が仏像経論等を我が天皇に献上した時からである。時あたかも、氏族の跋扈(ばっこ・思うままにのさばること)する時代で、神ながらの道の神道一辺倒で、当時の世界的文化を孕(はら)む仏教の採否について、両者の問に異見を見るのは瞭(あきら)かで、たちまちにして政争の具と化し、保守的な神別神代の神より分れ出たもの)は排仏を主張し、進歩的な皇別は崇仏を高調するとの二つの意見が対立した。このようにして神別の代表たる物部氏と、皇別の代表たる蘇我氏との間に争いが起こり、物部守屋が討滅されるにおよんで、永年の争いも落着した時は崇峻天皇二年(五八九)、先の仏教公伝より三十七年の後である。これより先、用明天皇は神道を学ぶと同時に仏法も信じられ、仏教は歩一歩とその伝播の基礎が築かれ、用明天皇の御正嫡厩(うまや)戸豊聡耳(どとよとみみ)皇子すなわち聖徳太子の御出生におよんで、にわかに仏法興隆に向かうこととなった

 

 太子が三十三代推古天皇(女帝上図左の摂政宮の大任を負われた時は二十歳の若さであった。爾来推古天皇三十年(六二二)二月に薨(し・みかまる)じ給うまで内外の政に当たられ、我が国の地位を高め、内治の方面においてほ十七ケ條憲法を制定し、皇室中心の大義を明らかにし、官民の則(のっと)るべき道を示された。

 また漢土の新文明を輸入してほこれを我が国情に調和せしめ、隣強のに便を派しては国光を輝し、芸術を奨励しては国民文化を向上せしめられた。ことに仏教に帰依して三経義疏(さんぎょうぎしょ・それぞれ『法華経』・『勝鬘経』・『維摩経』の三経の注釈書(義疏・注疏)である)を製し、民心の統一を計られた御功業は、後世太子を我が国仏教の創祖にあがめられ和国の教主と讃仰されるに至った。太子が三宝興隆のために日本に建立された寺は、四天王寺、法隆寺、中宮寺、橘寺、蜂岡寺広隆寺)、池後寺、葛木寺をもって太子建立の七大寺となすと『法王帝説』に記されている。

▶広隆寺の起こり・梶野別官

 

 広隆寺のおこりは、『日本書紀』の巻二十二条に、

推古天皇十一年十一月己亥朔、皇太子謂二諸大夫一曰、我有三等俳像『誰得二是俊一以恭拝。時秦造河勝進曰 臣拝之。便受二俳像 国造二蜂岡寺

とあり、時に西紀六〇三年秦河勝公の本拠地山城国葛野郡太秦の地にを建立したのである。そして本尊は現存する弥勒菩薩半跡思惟像(下図)であることがほとんど間違いないといわれている。すなわち広隆寺交替実録帳の寛平二年(八九〇)に、「金色弥勒菩薩像壱驅、所謂太子本願御形」とあるのが本尊だと称されている。

 一方、延喜十七年(九一七)藤原兼輔撰の聖徳太子伝の集大成である『聖徳太子伝暦』によると、

 推古天皇十二年の秋八月に太子、大和国いかるがの宮にて艮臣秦河勝に語られるに、吾前夜不思議なる夢 を見た。この地から北五六里余りの一つの美邑に遊んだ。楓林がおいしげり、その香が茶々として、その林 中に大きな桂の朽木があり、五首の羅漢が集まり般若理趣分を読斎すると、虚空より天人が飛来して妙香妙華をもってその羅漢に供養した、その朽木から光明を劫って穆封乃声竜杜し裁召竜召し折秀土地である。この林の中に汝(河勝)等の親族達が懸勲にもてなしてくれた。秦河勝稽首していうのに、臣の住む葛野とお夢は同じです。太子この地を見んと駕を命じ、その夜泉河のほとりに宿り給う。太子侍臣達に謂われるに「吾死後二首五十年竺聖僧出て書建て道を弘の大に仏法を興す。この僧ほ他人に非ず吾後身なり」と語られた。

 二百五十年後とは当寺中興の道昌僧都が出られた時に当たる。その弟子達は法相を伝承して仏教は繁興するなり。

 翌日楓野大堰(カドノ オオイ)の郷に至り見給うに、お夢と同じく楓林の中に大桂樹あり、異香券寮としてその樹うつろにして小宝閣あり、光明燦爛とす。衆人これを見しも蜂群れ集まって奇声を発し、その邑の童子追い払うとも去らず、諸々の人はこれを異とす。太子これを覧給う時は千二首阿羅漢集って法華、勝掌、維摩の諸大乗経の演説と聞こえた。凡夫はこれを見て衆蜂と見、太子これを見玉いて賢聖と見え、ここにおいて太子は仮に宮殿を造って楓野別官となされた。

 太子いわれるのに、この処(即ち山城国)は非常に地形に勝れて、南は秘らひらけて広く涯(はて)しなく、北は峰が峨々とそびえ、東に河あり、西の路は通じ、四神(天の四方の星、東西南北の神)相応して宮城を擁護し、実に扶桑無二の境地である。吾れ入滅して二百年後には聖皇再び都をここに遷して釈典を興隆し、苗裔(びょうえい・子孫)綿々としてつづくと。このことを皇帝に奏文して太子は秦河勝に命じて蜂岡寺(広隆寺)を建立せしめられた。

 また楓野別宮を新たに梵官桂宮院され と号し、寺前水田三十町と寺の後山六十町を賜い、また新羅王が献上した仏像等を賜わったのである。

 まことにこれ当寺は北の京最初の伽藍首伝仏法の霊区である。

 右のように書紀と太子伝暦とに寺の起こりに一年の相違があり、かつまた書紀にほ太子の蜂岡行啓の御事跡を伝えていない。あるいほ秦河勝に仏像を賜わった翌年に、太子自ら行啓されたものかと推測する。

 仁明天皇の東和三年(八三六)三月の『朝野群載』には『日本書紀』の記事を載せ、「九條河原里、荒見社里合わせて拾四町あった。しかし彼の地が狭隘(きょうあい・せまいこと)のため五條荒蒔里に遷され、施入の水陸田地四十四町四段萱首九十二坪となり、また延暦年中別普法師春風が縁起資財帳等を窃取して逃亡し、また弘仁九年(八一八)非常の火災に逢って堂塔、歩廊、縁起、雑公文等ことごとく焼亡せり」とある。

 寛平二年(八九〇)の広隆寺資財交替実録帳の初頭に、

右寺縁起、推古天皇治天下升歳次特大重出秦造河勝率為 上官太子所建立也、彼願文乃至財帳等、弘仁九年 遠火究、皆悉焼亡、困玄更立件帳如之

と広隆寺の建立は推古天皇三十年とあり、これほおそらく推古天皇十一年より建立に着手し、三十年に完成されたものである。

 

 太子伝暦の推古天皇二十四年の条に、「新羅より金仏像高二尺を献上し、これを蜂岡寺に安置す」とあり、また推古天皇二十七年の条には「至二蜂岡垂−塔心柱「定二常住僧一十口」ことあり、三十年完成が至当と考えられる。いずれにしても広隆寺は山城国最古の寺院であり、平安文化の発祥の地である。

▶寺号の由来と秦氏(はたし) 

 

 寺号は創建当時は蜂岡寺と号し、また秦公寺(はたのきみでら)ともいわれた時代もある。資財帳の冠頭には広隆寺とあり、秦公寺の印が捺されてある広隆は秦河勝の実名で、当寺を建立した功勲から実名をもって寺号としたと来由記に記されている。

 日本に秦氏族が大挙して帰化して来たのは、正史によれば十五代応神天皇の十四年(二八三)である。書紀に

十四年是歳、自二弓月君首済衰蹄。困以奏之日、臣領二園之人夫育廿願高節化。

とある。

 その帰化人の数がはたしていくばくなのかは明瞭ではないが、当時の状況から判断してだいたい十万人内外だと学者ほ推定している。今から千七百年も前の人口稀薄な当時において、十万の帰化人が加わったということほ、決して小さな事件ではない。秦氏のいちばん最初に日本に帰化したといわれるのほ、の徐福である。これは西暦三、四百年も前のことである。彼は秦始皇帝の命により、日本に不老不死の神薬を求めるために数百人を連れて来朝し、ついに帰化して紀州で没したと伝えられる。弓月王(融通王ともいう)よりも先、仲哀天皇八年己卯に功満王が来朝し、書紀に百済人来朝と記しているものである。

 

 仁徳天皇の御宇、普洞王が朝廷に綿織物を献上し、天皇がこれを着して肌触りが柔軟だったところから姓を波陀(はだ)と賜わり、その子秦酒公雄略天皇の御宇、秦氏一万八千余人を集めて養蚕細を織って山のごとく積み蓄え、天皇に献上したので天皇よりう禹都(豆)満佐(うづまさ)の号を賜わった。書紀によれば禹豆母利麻佐(うずもりまさ)といい、これは盈積(えいせき)の貌であるといわれている。

 要するに、雄略天皇の御世に至って帰化の後に畿内(きない・京都に近い、山城・大和(やまと)・河内(かわち)・和泉(いずみ)・摂津の五か国)を中心として散在している秦氏の間に統一連絡を行ない、自ら伴造(とものみやつこ・連(むらじ)とも重なり、また連の下でヤマト王権の各部司を分掌した豪族である)となって統率に当たったのであるそして後に秦酒公(はたの さけのきみ・渡来系氏族秦氏の伝説上の人物。「日本書紀」によれば,雄略天皇につかえ,天皇が無実の木工闘鶏御田(つげの-みた)を処刑しようとしたとき,琴をひいてうたい,誤りをさとらせた。また庸,調の絹や絹織物を献上してうずたかくつんだので禹豆麻佐(うつまさ)の姓をあたえられたという)が伴造とした秦氏は、葛野川(桂川)の流れる葛野平野に定住して、自らの技術を生かして開拓と殖産(生産物をふやすこと)に力をそそいだ。当時秦氏ほ葛野地方のみならず巨椋池以北の山城北部一帯の地に繁栄し、代々海外文化の扶殖(ふしょく・勢力や思想を植えつけること)に従っていた。

 欽明天皇(第29代天皇・539年12月30日? – 571年4月15日)時代秦大津父(はたのおおつち・6世紀の官吏。山背(やましろ)(京都府)の人。はじめ商いにたずさわっていたが,欽明天皇元年(540)大蔵の官吏に任命された)は山城の深草に居住し、その子孫の秦公伊呂具(はたのきみいろぐ・もとは稲荷山上に下中上の三社があったが,のち山麓に神殿を造って移され,相殿の神とともに五座をまつることとなった)が元明帝の和銅年中(奈良時代、元明天皇の時の年号。708年1月11日~715年9月2日)に稲荷神社を建て、秦忌寸都理は松尾神社を建て、代々神官として神に仕えた。また秦氏が葛野川に大堰を作り、港漑の便に力を尽したことは『朝野群載』中で明らかである。ともかくこの山城中央および南西部の桂川流域に、大きな地歩(ちほ・自分がいる地位・立場)を占めていたことは否定出来ない。

 

 応神、雄略、欽明と十八代を経て推古朝に至る間数百年、帰化秦氏の繁栄していた太秦の地に秦河勝が広隆寺を建設して、いっそう繁栄したことはいうまでもないことである。

 秦河勝は酒公(さけのきみ)の六代目に当たる人で、河勝に関係のある記事は『日本書紀』の中で、

一、推古天皇十一年十一月の保に蜂岡寺を建立したこと。  

二、推古天皇十八年十月の條に新羅、任那の使人の外客の来朝に際し接待役となったこと。  

三、推古天皇三十一年七月の保に新羅、任那使が来朝し仏像、金の塔、舎利その他を責上したうちの仏像を   広隆寺に安置したこと。

四、皇極三年七月の條に東国富士川の畔の大生部多という老が、蚕に似た虫を常世神と称し、これを祭ると致富延寿すると勧め世人を妖哀したので、彼は多を打ち懲らしてその証惑をとどめた。時人は歌をなして河勝の勇を称讃した。「太秦は神とも神と聞えくる、常世の神を打ち懲ますも」 

五、補閑記に、用明天皇二年(五八七)七月守屋討伐戦に際し、厩戸皇子すなわち太子側近の要人として関与し、殊勲第一人老となり大仁の位に叙せらる。

とある。

 その他彼が太子の事業に種々翼賛し奉ったことほ容易に考えられるが、その結合はいかなる契機においてなされたか明らかではない。しかしそれは単なる信仰関係に基づくよりも、むしろ財政的な問題による結合ではなかったかと思われる。太子が諸種の方面に華やかな活動をされたことの経済的な根拠ほもちろん、河勝を中心とする秦氏が参与したことは必ずしも不可能な推察ではない。

 聖徳太子の薨後(こうご・みかまる)、大臣蘇我氏がとみに専権を極め、皇極二年(六四三)十一月太子の遺子である山背大兄王(やましろおひねのみこ)でさえも、蘇我入鹿のために滅ぼされたのである。終始、聖徳太子の寵臣(ちょうしん・寵愛(ちょうあい)を受けている家来)であり、太子によって起用を得たであろう河勝も、京畿(けいき・漢字文化圏で京師(みやこ)および京師周辺の地域のこと)においては蘇我氏の難が己におよぶであろうことを危倶し、皇極三年秋難波(なんば)の港より播州(ばんしゅう・播磨)赤穂郡坂越(さこし)へ逃避し、孝徳天皇大化三年(六四七)丁未九月十二日、八十三歳をもってこの地に卒したとある。

 山城の国にほまだ平安遷都も行なわれておらず、まったく帰化秦氏(東漢氏などと並び有力な渡来系氏族である。)の独占地であった当時、秦酒公(さけのきみ)や大津父、秦河勝等の日本を左右した政治家が出ており、彼等のもたらした養蚕、機織、管絃、舞楽、酒造、工芸美術等は日本文化を指導したといえる。このような秦氏はついに日本における仏教が次第に国教化し、盛んになるとともに自分の在地に私寺を建立し、広隆寺は秦氏の祈願寺として出発することになった。このような帰化人系の寺院ほ聖徳太子の仏教振興政策とも結びつき、古代弥勒信仰とも関連して奈良時代に入っていった。

 広隆寺は奈良時代では主として、三論宗の寺院として発展し、代々の別営も元興寺を中心とする人々によって指導されていた。けれどもその経済的な立場は、平安京の九候河原里、九候荒見里、五候荒蒔里の水田四十四丁四段育九十二歩を中心に経営されていて、これは後の広隆寺資財帳につながるものである。奈良朝時代すなわちくに聖武天皇の天平十三年(七四一)に秦忌寸(はたのいみき)島麻呂という人が、恭仁(くに)京大官の垣を築いてそれを寄進し奉った功によし上り、従四位下にしょうじよせられ、その上太秦の姓までも賜わった。そして後に説くところの、平安京造官長官藤原小黒麻呂の妻がこの島麻呂の女であった。

 奈良の都を長岡京に遷された理由は、唐などよりの外客に見せても、かの長安に見劣りのしない国都の建設ということにあり、そうするにほ巨大な費用が必要である。桓武天皇の延暦三年ごろは、奈良仏教尊崇余弊(よへい・後に残っている弊害)を受けて、国庫はむしろ空乏をつげており、何びとかの援助が必要であった。長岡京造官職長官となった藤原種継が、外祖秦朝元に長岡新京の敷地と建築費用とを献上させる交渉をし、造営は着々と進んでいたが、不幸にして種継は延暦四年(七八五)九月に暗殺され、造営に一項挫を来たした。朝廷では内々別に尊都の議が上り、同十一年正月、天皇は親しく葛野郡に行幸され、新都候補地を御覧になって、翌十二年正月長岡京を廃し、平安京を尊(さだ)めようと決定された

 ここで平安京造官長官に藤原小黒麻呂(ふじわら の おぐろまろ・天平5年(733年) – 延暦13年7月1日(794年7月31日)は、奈良時代の貴族。藤原北家、従五位下・藤原鳥養の次男。)が任ぜられ、秦氏の財政により立派に造営されたのである。村上天皇の御日記『天暦御記』に、「平安京の大内裏は秦河勝の邸址で、その殿(ししんでん)の橘樹は河勝の邸に在ったまま遺されたのが追々植えつがれたのである」とある。

 

 平安京の卜定(ぼくじょう・吉凶を占い定める)と造営とは、この秦氏の豪富と文化とを利用して、和気清麻呂・上図右(わけのきよまろ・奈良時代末期から平安時代初期の貴族。磐梨別乎麻呂または平麻呂の子)等の奏言に基づいて企画されたことで、もし太秦を除外するならば、新都の大境域も手に入らず、宮殿垣聴の建築費も支えられず、ついに平安京を見出すことは出来なかったかもしれない。

 そうして平安京内に秦氏所有の地が編入されただけでなく、広隆寺領にも影響を与えたことを看過してはならない。すなわち資財帳、実録帳の水陸田章にはいずれも「入京武町捌段武倍玖拾染歩(七條牛糞里)」と記されている。このように広隆寺と平安京とは密接な関係があり、さらに精神的教化、宗教的薫育の方面にも両者が甚深の関係を有することは論をまたないのである。


■弥勒菩薩

 仏像は単なる美術品では決してない。その仏を造る人達が信仰と精魂を込め、あるいは一体の仏像を造るのに一生をかけた人もいる。ただ仏を拝して時代がどうの、作がどうのと考えるより、まず信仰の本体であることを忘れてはならない

 経典の中には仏祖釈迦の在世中に仏像が造られたと説いてあるが、実際は釈迦入滅後二百年も後の時代といわれている。西暦一世紀ごろまでほ釈迦の遺骨、いわゆる仏舎利を納めた塔、宝座、宝輪等で仏像の無い時代である。釈迦の姿が人間的な形で現われたのは一世紀のころである。

 釈迦像が生まれてから経典にはすでに人間と異なる特色を具備していたと説かれ、仏の姿に関する三十二相、八十種好(随好形)という名称が述べられている。三十二相ほ二目でわかる相であり、八十種好は細かい特色である。如来形の仏はすべて三十二相、八十種好を備えているから、仏の顔だけでは何の仏かわからない。印相((いんそう、いんぞう・ヒンドゥー教及び仏教の用語で、両手で示すジェスチャーによって、ある意味を象徴的に表現するものである)、印契(いんげい)でその仏を見分けるのである。

 釈迦如来は仏教の教主であるから、他の如来像も釈迦像が基準となり、これによって後世の仏像の基本的な形が決っている。

 釈迦像が出来るころ、過去七仏(かこしちぶつ・毘婆尸仏・尸棄仏・毘舎浮仏・倶留孫仏・倶那含牟尼仏・迦葉仏・釈迦仏の7仏。いわゆる過去仏信仰の代表的な例)、それに対して未来に出現する未来仏(弥勒菩薩)としての弥勒如来、それにつづいて西方橿楽浄土に住んで、命を終えた人間を迎えて極楽往生させる阿弥陀如来、また人間の病苦を救う仏として薬師如来が信仰されるようになって来た。如来はすでに悟りを得た真の仏であり、菩薩はこれから仏になる修行中であり、明王は如来か菩薩を守る守護神であり、天部、星宿、垂迹(すいじゃく)、羅漢高僧ともそれぞれ教義信仰を持っている。仏教では教法や修行の変遷を説いて正法、像法、末法の三法があるといい、そこには時代が下るにつれて世相は悪化し、順次仏の教えを信ずるものが少なくなり、解脱は容易に出来ない時代が来ると説いている。

 釈迦滅後五百年の間を正法といい、仏の教えは厳然と存在し修行も悟りも開けるものと説いている。つぎの像法時代は千年もつづくが、次第に悪くなり、その時代が過ぎると最後の末法時代が永久につづき、ただ教えのみが残るだけで、この時代に生まれ合わせた人間は自力では立てず、ただ他力にすがるより法はないと説くのである。他力とは阿弥陀如来の信仰であり、弥勒菩薩の信仰である。

 弥勒菩薩は今兜率天(とそつてん・欲界における六欲天の第4の天部である)にあって、いかにして衆生を救済しょうかと修行されていて、釈迦についで成道する仏であるから、弥勒仏となって五十六億七千万年の将来にこの世に下生して、衆生を済度せんとの誓を立てて、修行をしておられるのである。

 

 高麗の僧恵慈法師(飛鳥時代に高句麗から渡来した僧)自ら経を説いて誓願を発していうには、

日本の国に聖人有り。上宮豊聡耳皇子(かみのみやのとよとみみのみこ)と曰(い)う。固より天の縦(ゆる)す倣(ところ)なり。玄聖(げんせい)の徳を以て、日本の国に生れ、三統を苞(か)ね貫いて、先聖の宏(こうゆう・大なるはかりごと)を纂(つ)ぎ、三宝を恭敬して、黎元(れいげん・もろもろの民)の厄を救う。これ実に大聖なり。

 このようにして日本最大の変動期に日本の礎石を築かれた聖徳太子御自らの理念の象徴として、現世に造顕讃せしめられ、いわゆる太子本願の御形として弥勒菩薩が広隆寺に祭祀されたのである。

 広隆寺は日本文化開明の基盤をなし、平安京造営の原動力となった太秦に在って、慈悲の権化聖徳太子の愛民救世の御事蹟を伝える名刹であり、しかも千三百五十年来、万人の心を和め、世の塵(世の中の煩わしい雑事)を治め、宗教と文化の興隆に無限の感化をおよぼした幾多の名宝が、燦然(さんぜん)たる不滅の光彩を広く海外にまで放ちつづけているのである。

 太子の法語 「世間は虚仮(こけ・心の中とうわべとが一致しないこと。偽り)なり、唯仏のみ是れ真(まこと)なり」


■寺宝

▶弥勒菩薩像(宝冠弥勒)国宝 像高 八四・二糎

 「人間存在の最も清浄な、最も円満な、最も永遠な姿のシンボル」と、ドイツの実存主義哲学者ヤスパースが讃辞を呈したとおり、この弥勒菩薩の前に立つと、人は誰でもおのずから心の安らぎを覚える。この弥勒菩薩はかつて如意輪観音とも呼ばれた時代があったが、その如意輪観音について、清少納言は枕草子のなかに、

如意輪(にょいり)は 人の心を思し煩ひて 頬杖をつきておはする 世に知らず あはれに恥かし

 といっている。しかし、頬杖をつく姿は同じでも、この弥勒菩薩の姿からは、「人の心を思し煩う」苦悩のかげりは、少しも認められない。それは人間界の苦悩から全く解脱した姿である。永遠の安息の姿であるといえよう。まずその相好(そうごう・仏の顔)に注目しよう。額や瞼や鼻梁は、風化のあとを修正していろようだが、現状から推測するに、目はわずかに両端の反り上がった三日月形で、開けるともなく閉じるともなく、伏せて冥想しているようである。両眉の線は眉間に寄って、二本の鋭い線となって鼻筋を通し、素朴なうちに明晰な感じを覚えさせる。この素朴さはまたロにもあらわれ、口の両端をやや吊り上げて「アーケイック・スマイル」(古拙の微笑)を浮かべるが、法隆寺の夢殿観音や釈迦三尊のそれに比べると、はるかに抑揚に富んで柔かい。まして目や頬や口元にみられる穏やかな肉付けは、古拙の鋭い線を内包しながら頬杖をつく、えもいわれぬ右指の形と一緒になって、不可思議なやすらぎの感じがにじみでている。まさに造化の神の妙技というペきであろう。頭上には宝冠弥勒の称を得るもとになった四方に張り出しのある宝冠を戴く。

 

 胴は頭に比べて細く、肉付けもわずかで、やや右にかたむけ、頬杖をつく自然な形をとり、榻座(とうざ・腰掛式の台座)に腰を下ろし、左足を踏み下げ、左膝の上に右足首を載せ、右膝で右肘を支える。この形の仏像を一般に半軌思惟像と呼ぷ。右膝下に裳のはみ出たところを彫刻しているが、その表現は不自然で原形から何回か転写するうちにできた写しくずれであろうと思われる。

 

 側面からみると、ほっそりした胴から両足が素直に伸びて、百済観音にみるようなたおやかな感じが出ている。しかし百済観音のように正面観と側面観との間に断絶はなく、斜め側面から見ても、一応まとまった姿になっている。ただ背面から見ると角ばった単調な肉付けで、この頃の金銅仏(金メッキした銅製仏像)、例えば法隆寺が皇室へ献納した四十八体仏中の丙寅(ひのえとら)年銘半伽思惟像のように、素朴な感じが出ているのは、その制作年代の古いことを物語っているのであろう。

 この弥勒菩薩の構造は、宝冠から仏体・榻座(とうざ・こしかけ)に至るまで一木から彫り出し、後頭部・背面・榻座の底の三方から内刳(うちぐり)し、後頭部・背面には蓋板をあてている。もとは全身に金箔を貼っていたが、現在ほとんど剥落してしまっている。戦後この像の材質がマツと判明したことは、この像の出生地を決めるうえで、決定的な根拠を提供したようである(下図左)ということは、日本にもマツはあるが、他にもっと彫刻に適した良材が豊富なので、彫刻に不向きなマツを使うことはあまりない。少くとも飛鳥・白鳳両時代の遺品でマツを使った彫刻は他には一体もない左手の甲の肉がそげたようになっているのは、マツが彫刻しにくいため、仕損じたのである。そしてわれわれ日本人にとって、すでに万国博覧会と昨年(昭和五十一年)の韓国美術展でおなじみになった韓国国立中央博物館の金銅弥勒菩薩半蜘像(下図右)が、広隆寺弥勒像と瓜二つといってよいほどよく似ているところから、これが朝鮮で制作された仏像であろうと、深く確信されるようになったのである。

 

 さてこの弥勒像が日本に渡ってきた由来はどのようであったか。カラー写真29に掲げる広隆寺資財交替実録帳の巻首に近い部分をみると、金堂のところに「もとより安置し奉るところの仏像」と呼ばれる七体の仏像のうちに、「金色弥勒菩薩像一驅鰭絹忙所謂太子本願御形」と記された弥勤像がある。この弥勒像は、日本書紀推古天皇十一年(六〇三)十一月一日の条に、

皇太子(聖徳太子)諸大夫に謂って日く、「我に尊とき仏像。誰かこの像を待て、以て恭拝せん」と。時に秦造河勝、進んで日く、「臣これを拝せん」と。すなわち、仏像を受けて、よって以て蜂岡寺を造る。

とあるその仏像にあたるのである。この仏像は別の記録によると、百済からの請来と伝え、また寺では新羅からの請来と称しているようである。だが、この仏像こそ、いまわれわれが目前に仰ぐ弥勒像であり、聖徳太子が秦河勝に賜い、河勝によって蜂岡寺、後の広隆寺の当初の本尊とされた弥勒像なのである。その「太子本願の御形」というのは、このような意味を滞っている。東和三年(八三六)の広隆寺縁起と実録帳巻頭(カラー写真28)の記事を参照すると、この弥勒像を本尊として、推古天皇三十年に広隆寺が創立されたものと思われる。

 この弥勒像は、まだ木彫としての本当の味を出すまでに至らず、例えば韓国国立中央博物館の金銅弥勒像のような金銅仏を写したと思われる特色をあらわしている。しかしそれにもかかわらず、その表現には中国の雲崗石窟の仏菩薩に似た明噺な感じが留められ、そのうえに、一抹の静寂感をたたえ、雲崗石窟にみる明朗さよりも、抒情的な感じが強調されている点に、六世紀後半に

 

 

 

■広隆寺その他の彫刻像

                 

■著者略歴

◎清滝英弘(きよたき・ゑいこう)明治39年京都市に生まれる。昭和4年種智院大学卒業。12年大本山広隆寺井主となる。46年大僧正lこ昇補され、定額位に推挙きれる。絵本山仁和寺瀬問。

◎近藤 豊(こんどう・ゆたか)明治墟年京都市に生まれる。昭和15年京都大学卒業。大阪教育大学教授を経て、現在、摂南大学工学部建築学科教授。工学博士。

◎柴田秋介(しばた・あきすけ)昭和8年山口県に生まれる。同27年日本写真印刷株式会社に入社。42年同社退社、以後フリーカメラマンとして括鼠現在、日本写真家協会・京都広告写真家協会会員。著書『カラー京都の棒力・洛東』他。

矢内原伊作(やないばら・いさく)大正7年兼捷県に生まれる。昭和16年京都大学文学部哲学科卒業。同志社大学汝授を経て、現在、法政大学教授。著書rサルトル』『リルケの墓J『人生の手帖J・淡交社よりF京都の庭』『室生寺』。

◎中野玄三(なかの・げんぞう)大正13年福岡県に生まれる。昭和32ヱ1二京都大学文学部卒業。京都府文化財保護課技師、奈良国立博物館資料室長を経て、現在、京都国立博物館美術室長。

■古寺巡礼 京都

広隆寺著 者 矢内原伊作/清滝英弘

昭和五十二年五月二十日 初版発行

定 価 2800円

発行者 納屋嘉治発行所 株式会社淡交社 

本社 京都市北区堀川通鞍馬口上ル  振替京都四五七八 

支社 東京都千代田区麹町四−四

印刷 日本写真印刷株式会社   株式会社同朋舎

製本 大日本製本紙工株式会社 一九七七 矢内原伊作・清滝英弘