丹下健三

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■時代を刻み、芸術を給合する

 1945年(昭和20)の敗戦から1970年(昭和45)までの四半世紀は、そのまま丹下健三の建築家としての前半期ということができる。この25年間は、新たな時代や社会の要求に応えて、それぞれの建築家が新しい建築の可能性に果敢に取り組み、日本でモダニズムの建築が幅広く展開した時代である。丹下は東京大学の研究室を拠点に活動を始め、多くの芸術家たちや優秀なスタッフとともに、時代を大きくリードした。

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 丹下の建築は、そこに集う人々・・・民衆・・・が空間を埋めた時に、最もドラマティックで生き生きとした表情を見せる。初の実作である広島ピースセンターも、まさに民衆のための建築として実現した。周辺にまだ木造のバラックが建ち並ぶなか、1955年(昭和30)の8月6日には、原爆で亡くなった人々を慰霊するため、6万人が広軌こつめかけた

▶ヒロシマから万博まで

 丹下の代表作である、広島ピースセンター、香川県庁舎、東京計画1960、国立屋内総合競技場、日本万国博覧会基幹施設。これらは、平和記念(祈念)→戦後民主主義→国土計画→オリンピック→万博という日本の歩みを象徴する建築である。戦後復興から講和独立(1951年)を経て、高度経済成長する日本の時代性がそこには込められている。20世紀の日本で、これほど時代と分かちがたい作品を多作した建築家は、ほかにはいない。

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 夕景に映える香川県庁舎。室内の照明によって、木造建築を思わせる柱と梁の構成が美しく浮かび上がる。戦後民主主義の象徴となることが目指されたこの庁舎では、同時に鉄筋コンクリート造(RC造)による日本の伝統表現が追求された。低層棟のピロティは庁舎を街に開放し、人々を大らかに招き入れる。

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 高度経済成長期の只中、「東京計画1960−その構造改革の提案は、東京湾に海上都市を建設するという仮想的な計画案として発表された皇居から千葉の袖ヶ浦まで、高速道路とモノレールによる2本の軸線を通し、住宅やオフィスを収容するメガ・ストラクチャーを集めた新都心。丹下はそのイメージを航空写真の上に重ね、壮大な都市スケールの未来を描いた。

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 東京オリンピックのために建てられた国立屋内総合競技場は、丹下の代表作であると同時に、現代の日本を代表する建築となった。空高く伸びる支柱から吊されたワイヤーが大屋根を形づくり、上昇性をもった荘厳な内部空間を生み出す。建築家の想像力とそれを支えた構造解析、さらに当時の施工技術が結集した記念碑的傑作。

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 「人類の進歩と調和」をテーマにした日本万国博覧会(大阪万博)では、丹下と弟子たちが多くの施設・建築を手がけた。中心施設である「お祭り広場」の大屋根は、地上からの高さが30m、暗が108m×291.6mにも及ぶ最先端のスペースフレーム構造であり、岡本太郎に“ベラボーな”太陽の塔のイメージを喚起させずにはいられなかった。

■芸術家とともに

 天才というイメージが強い丹下だが、その創作は時として多くの芸術家・・・岡本太郎、イサム・ノダチ、猪熊弦一郎、シャルロットペリアン、剣持勇、勅使河原蒼風らとの協働に基づいていた。人々が集うオープン・スペースを中心に、壁画・彫刻・家具などの優れた現代作品を積極的に建築に取り入れ、より豊かな建築空間を生み出している。

 さらに完成した建築は、石元泰博や村井修といった新進気鋭の写真家によって撮影され、写真が与える建築のイメージも十分意識しながら世に送り出された。いわば“合芸術としての建築”という建築の古典的なあり方を、現代に則したかたちで実践したのである。

■岡本太郎(1911-1996)

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 旧東京都庁舎(1957年、現存せず)の壁画の石膏模型を制作中の岡本太郎。「私は建築に従属する装飾としてではない、もっと本質的な壁画を提唱したい」(岡本太郎「純粋芸術と建築の結合」(新建築1958年6月号)。岡本は、妥協のない自律的な芸術作品を建築にぶつけ、せめぎ合わせることで、そこに新たな空間が生み出されることをめぎした。

■イサム・ノグチ(1904-1988)

 彫刻家のイサム・ノブチは、建築家との数多くの協働の際、自らの作品を、建築と呼応して空間を豊かにするものと捉えていた。丹下との協働は、広島平和記念公園に始まり、大阪万博や2代目の草月会席(1977年)などがある。写真は、脊口舌郎と協働した慶應義塾大学の萬来舎(1951年)の庭園に設置する彫刻の制作の様子。

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■猪熊弦一郎(1902-1993)

 一般市民に親しみやすい空間をめざした香川県庁舎の一階ロビーにおいて、画家・猪熊弦一郎による壁画が果たした役割は大きい。そもそも丹下を香川に導いたのが香川出身の猪熊であり、猪熊による金子正則香川県知事への推薦によって、丹下は県庁舎の設計を任されることになった。猪熊と丹下の交友は晩年まで続いていく。

■伝統を創造する1946-58

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▶広島から香川へ

 戦後すぐの丹下の実作は、ほとんどが東京周辺と瀬戸内に集中している。特に瀬戸内での二つの大作、広島ピースセンターと香川県庁舎によって、丹下は日本を代表する建築家として世界に知られるようになった。戦後復興から講和・独立へと日本がアイデンティティを回復していくなかで、建築界では新たな時代の伝統表現が模索された。この課題に、丹下はモダニズムの建築として、独自の解答を出していく。

■都市の復興に向けて

 敗戦とともに各地で戦災復興が始まり、丹下もいくつかの都市(広島・呉・前橋・福島・稚内等)の復興計画に関わった。また、公共建築や商業施設の設計も手がけるようになる。1946年(昭和21)、東京帝国大学(翌年、東京大学)工学部建築学科助教授になった丹下の周囲に、次第に若い才能が集まり、丹下研究室(通称「丹研」)の活動が始まる。

▶丹下研究室

 丹下研は、東大工学部1号館長上階の彫塑室に製図薇を載せた机を並べて部屋を「占拠」し、スタッフたちは自由な雰囲気の中、スタディや製図に打ち込んだ。その後、1961年(昭和36)、都市・建築設計研究所(URTEC)が設立された。現在の丹下都市建築設計につながる組織である。これにより、研究は東大丹下研究室、実務はURTECという役割分担が始まり、URTECの運営は神谷宏治に任された(〜1971年)。

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  初期丹下研のメンバー 1955年(昭和30)、伊豆・土肥温泉への研究室旅行の一コマ。しばしば行われた研究室旅行では、全国各地で進みつつあった復興や開発の成果を見聞しつつ、スタッフの親睦が深められた。写真は、左から杉重彦・西原清之・田長島昭・磯崎新・長島正充・小槻貫一・浅田孝光吉健次・吉川健・茂木計一郎・神谷宏治・岡村幸一郎。最年長の浅田は、この時34歳。

■復興に奔走する

 敗戦後の1946年(昭和21)、丹下は戦災復興院の依頼で多くの都市復興計画を手がけ、原爆症で恐れられていた広島市内にも率先して足を踏み入れた。そして1949年(昭和24)5月、広島ピースセンターのコンペ開催が決定平和記念公園のランドスケープデザインと平和会館が審査の対象となり、132の応募案のなかで、丹下案が1等に選ばれた。この頃、丹下は猪熊弦一郎の紹介でイサム・ノグチと出会っており、ピースセンターで様々に協働していくことになる。

▶広島都市計画図

 丹下や浅田らが広島に入った1946年(昭和21)の夏から秋には、既に広島市が道路や緑地の計画の大枠を決定していた。この計画に加わった丹下らの都市計画案は、1947年(昭和22)、広島市復興計画書議会にかけられ、1949年(昭和24)に決定された。このうち商業・工業地域の区分計画は、ほぼ丹下案のまま実現の方向に踏み出した。しかし、丹下らが主張していた旧中島町(現在の平和記念公園周辺)への官公庁の集中案は否決され、公園化が決定された。大幅な修正・変更が加えられたものの、丹下案は大枠としては広島の復興計画の中に活かされていくことになる

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▶広島平和平和総合公園計画(1950年)配置図

 丹下が広島平和記念公園コンペに一等当選した翌年の1950年(昭和25)2月にまとめられた、平和記念公園を含む都市中心部の総合的な計画案。広島城跡から100m道路に至る太田川沿いのエリアに、既に決定した和記念公園に加え、図書館・美術館をもつ児童センター、体育館・テニスコート・陸上鹿技壕・フットボール場・野外劇場などを配置し、広島城本丸跡には化学博物館・美術館・図書館を置く。広島子供の家(1953年)を除いて実現しなかったものの、結果的には現在の市街地再開発に一定の影響を与えているように見える。

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■丹下健三とイサム・ノグチの交流

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▶新しい風

 丸亀高校の先輩、猪熊弦一郎先生に私は広い意味での芸術を教わりましたと、金子知事は感謝し、尊敬して居られた。猪熊先生の粋な計らいによって、建築家の丹下健三先生と金子知事は瀬戸内海を渡る船中で出逢い、香川の地に新しい風が吹き込むことになりました。

 当時、丹下先生は40代前半、東京都庁舎を設計され、日本におけるモダン建築を香川にもと訪れていました。田園都市香川を目指す金子構想が実現に大きく近付く一歩でもありました。新しく建設された香川県庁舎は伝統美と現代性が融合して素晴らしく、猪熊先生の壁画は広い空問で見事に生かされ、剣持勇、亀倉雄策民らも加わり、更に充実。金子知事は随所に地元の素材を使用し、ロビーと庭は多くの人達によって完成しました。

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 池の中には、採石場で今、掘り出されたばかりの大きい石が配され、自然石の一部を加工した受付カウンター、高島から出た黒い玉石と小豆島産の牧石による清楚な床面。従来の庭石、墓石、灯籠を見て育った私は、県庁舎で初めて新鮮な石の生かし方に触れ、石に対する新たな希望が湧いてきたのです。

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 その頃、彫刻家イサム・ノグチ先生は、東京、慶應義塾大学の新萬来舎(1950年)、リーダーズ・ダイジェスト社の庭を創られ(1951年)、続いて、パリのユネスコ本部の庭園(1958年)構想を描き、丹下研究室で模型を作っておられました。その後、横浜の「こどもの国」で、最初に遊園地の設計が実現され(1966年)、イタリアのボローニヤでは、丹下先生の建築の前に石の彫刻新萬来舎(1979年)を設置されています。

▶広 島 

 ノグチ先生は、戦後焼け野原と化し混沌とした日本・東京に、ニューヨークから諷爽とモダンアートを携えて来たと言われます。丹下健三先生と共に、復興の為に広島に向かわれ、その慈しみと勇気は、平和大橋の欄干「つくる」と「ゆく」となり、戦争で恐怖に懐(いだ)いた多くの人々に元気を与えました。丹下先生は、平和記念公園、原爆記念陳列館、原爆慰霊碑等の設計に着手され、ノグチ先生もそれに協力し、素晴らしい空間と建築、慰霊碑は世界の人々が平和を願って集まる場を生みました。ノグチ先生は、晩年まで原爆慰霊碑に思いを寄せ、その意を汲んだ石の作品も生まれ、人類が仲良くするために彫刻を創ることを使命としておられたのです。1951年に広島から東京へ帰る途中、岐阜市長の要請で提灯の産地に立寄られ〈あかり〉を発案、被災者の心を灯すあかりだったのでしょう。広島に多くの想いを残されましたが、ノグチ先生自身、いろいろと体験し学ばれた時間だったと思われます。

▶出会い

 1956年、ノグチ先生は、ユネスコ本部の庭づくりの為、重森三玲氏らと徳島県、鮎喰川で青石を選ばれた後、猪熊先生から、私の郷里にも良い石がありますから金子知事を訪ねて下さいとの紹介を受け、香川県庁に金子知事を訪問。お二人は意気投合し、知事の案内で、牟礼、庵治の石材産地、小豆島の石堀場を見て廻り、小豆島の石もパリの庭に生かされています。1964年、ノグチ先生は再び香川を訪れ、金子知事は完成した県庁舎を案内、県内を再度まわられて、石のアトリエで私はお目にかかることができました。

 それ以後、金子知事は山本忠司氏(県建築課)と共に、イサム・ノグチ先生との長いお付き合いが始まりました。

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 アメリカに帰国後、ニューヨークのノグチ先生から小作品の石膏模型が6個届けられます。それをカンカン石等、珍しい石で仕上げた頃、再びアトリエに見えられました。その時がシアトル美術館前に置かれる大きい石の彫刻≪ブラック・サン》(1969年)の始まりでした。

▶イサム家・アトリエ・庭園

 1960年代末、アトリエの建設に関して、候補地を県でも選んで下さいましたが、「景色は心の中にあるもの、一番仕事のしやすい所にして下さい」といぅノグチ先生の言葉が、世界を旅した芸術家の牟礼におけるアトリエ造りの第一歩でした。採石場を望む田んぼの中に、円型の石壁を造り、丸亀の塩飽町から入江邸を移築。入江邸は、昔、船大工さんが陸に上がって建てた住宅で、機能美、シンプルさを兼ね備えており、次第にノグチ先生も熱意を示され、食事もそこそこに山本さんと、空間、風通し、生活の仕方などを打合せされ、随分時間をかけて大工さん、左官さん、石のアトリエの若人、地元の人達で完成(イサム家、1970年)。ノグチ先生は木造家屋の中に、スウェーデン、アフリカ産の黒い花崗岩による割れた肌、磨かれた彫刻を置かれ、縁側を通した庭には、地面に横たわるように、《地表の風≫を並べ、部屋の中から畳を通してながめる庭の空間は、イサム芸術の神髄ともいえます。

 イサム家の裏山に、石の作品づくりは疲れるから昼寝の場を造ったらと、庭づくりが始まりました。毎日が試練の連続でしたが、仕上がってくるほどにノグチ先生も熱が入り、自然に立ち向かった日々だったと思います。屋島と五剣山の間に自然を生かした心の休まる空間が生まれ、アトリエの中では、新たな石の生命を求めて、彫刻づくりに没頭されていました。

▶大阪万博

 1970年、丹下先生は大阪万国博覧会会場基幹施設の設計と総指揮を行われました。お祭り広場の大屋根が1日1日ジャッキでせり上がって雄姿を現し、岡本太郎氏の《太陽の塔》が輝き、ノグチ先生は会場内で7つの噴水を創作、丹下先生の期待に応えるべく、イサム家の2階で夜も噴水の出口ノズル等を考案し、模型を作られました。初めて上空から勢いよく流下する水は生命を宿しているように見え、イサム・ノグチは満面の笑み浮かべ、関係者全員で喜びを分かち合いました。カラフルでモダンな噴水は、猛暑の会場内に潤いと涼しさを与え続けたのです。

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▶香川の建築

 1964年、高於市内の福岡町に丹下先生設計による舟形の美しい香川県立体育館が現れました。香川での建築に関して山本忠司氏への信頼は高く、体育館の両サイドの広い池の中には、庵治石による大屋根の水受けを兼ねた石庭が、山本氏によって完成しています。

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 その頃、瀬戸内海を見渡す五色台にスカイラインの建設計画が始まり、丹下研究室の建築家浅田孝氏ら大勢が香川を訪れ、近代香川の幕開けのようでもあり、素晴らしい道路が完成(1964年)。五色台山の家、科学館等も落成、中学生らの屋外教育として現在も活用されています。

 その後、瀬戸内海歴史民俗資料館建設の企画が持ち上がり、山本忠司氏ほか県建築課の人達によって設計されました。整地と基礎掘りのため岩盤を掘削し、掘り出されたたくさんの石を地上に高く積み重ね、空と海と自然に融け合う素晴らしい建築となり、生活用具、大きい木造船も保管され、日本建築学会賞を受賞。後年独立した山本氏は、瀬戸大橋記念館を設計し、完成させました(1988年)。

▶草月会館

 丹下先生は1958年、東京青山に、いけばな草月流の草月会館を建てられ、1977年には新しい草月会館が完成し、私は町の中にそっと真珠箱のような建築 を置きたかったと語っておられます。ノグチ先生は ロビーの設計を依頼され、花と石と水を用いた《天国》と名付ける石庭を造りました。

 ある時、突然にノグチ先生から電話をいただいたのです。「和泉さん、すぐに石と槌とノミを持って草月に来て下さい。その方が早いと思うんですよ」。あまり意味が分からず「はい」と答え、東京に向かいました。ノグチ先生と蒼風家元がいらっしゃる部屋に入るなり、瀬戸内海の石を置いて見て頂きました。「ノミで彫ってみたら」と言われ、美しい部屋で恐る恐るノミで石をはつりましたが、「もっと強く彫ったら?」とノグチ先生に言われ、思い切りノミを叩きました。その一瞬で、草月会館のロビーに石庭を造ることが決定したのです。

 蒼風家元は、完成した空間に大木を生け、随所に花を生けられ、ロビーの空間は、丹下健三、勅使河原蒼風、イサム・ノグチの三者によって世界に通じる広場となり、スウェーデンの黒い御柱を前に家元は「これは日本人の魂だ」と絶賛、ノグチ先生を喜ばせました。

 現在、草月会館の中心のスリットから新宿を望むと丹下先生設計の東京都庁舎が正面に見え、その庁内にイサム・ノグチの彫刻《沈黙の歩み》が設置されたのは、まさに奇遇であり、見えない信念で結ばれるお二方のような気が致します。

▶財団設立へ

 1988年、84歳の誕生日を2日後にひかえたノグチ先生は、新しく移築された蔵の中で、高松空港前に作られる彫刻(後に平井知事によりノグチの手記の言葉を用いて《タイム・アントスペース》と名付けられる)、北海道大通り公園の《ブラック・スライド・マントラ》、そして札幌モエレ沼公園の模型を完成披露され、平井知事ら関係者で祝しました。ノグチ先生は、11月17日、84歳の誕生日には金子元知事、山本忠司、三宅一生両氏、アトリエの若い人たち、大工さんら多くの人に囲まれ心よく過ごされ、高松空港を出発、東京では丹下先生を訪ねられ、歓談されたのです。

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 突然の言卜報は暮れも押し迫った12月30日でした。昭和の終焉も近づいていた頃です。

 丹下先生は突然、只一人イサム家を訪ねて見えました。静かにイサム家に座り、アトリエ内を歩き帰られましたが、ノグチ先生の友人として感慨深いものがあったと思われます。イサム・ノグチの生活したアトリエ空間を、財団法人を設立して後世のために美術館として残しましょうと、設立発起人代表として計画を進めていただき、ニューヨーク財団理事長アイザック・シャピロ氏に、現状のままこの空間を残す重要性を手紙で伝えて下さったのです。

 日米のイサム・ノグチを知る美術関係者、高階秀爾、小倉忠雄、中原佑介、酒井忠康、トーマス・メッサー、アン・ダナンコート、シャーマン・リー、ブルース・アルトシュラー氏らによって将来の美術館としてのあるべき姿が、長い時間をかけてイサム家で話し合われました。

 そして金子先生、山本忠司氏にも見守っていただきながら、イサム・ノグチNY財団、香川県、多くの人達によるご支援の結果、1959年に、日本で珍しく官・民・企が一体となったイサム・ノダチ財団が設立されたのです。名誉顧問には丹下先生に就任いただき、理事長は斎藤裕氏にお願い致しました。

 猪熊先生が生前、ご夫妻でお見えになられ、初めてアトリエの中に入った文子夫人は、ノグチ先生に「イサムさん、あなたは四国にこんなに素晴らしいものを残して下さいましたね」と心から喜ばれました。

 戦後まもない頃の金子正則知事の郷土への想いは、多くの人達の単なる集まり、頼ものでは終わらず、明日の香川へ向かって大事な布石となりました。

 20世紀の初め、飛行機と共に育ったノグチ先生による彫刻.《タイム・アンド・スペース》は、1989年、高松空港開港に合わせ、石組によって空港前の広場に完成し、空港を訪れる人たちを暖かく迎えています。

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 2000年には丹下先生による新庁舎が落成し、ノグチ先生の作品《アーケイック》が、庁舎内の空間に設置されることになりました。