1958年(昭和33)5月26日、竣工となった香川県庁舎がその全貌を人々の前に現した。神谷宏治は、感慨とともに記した。「いろいろな社会的な事件、さまざまのドラマがここを舞台として展開され、繰り返されながら、ここに庁舎と民衆の生活的な交流の歴史として刻まれ積み重ねられて行かねばならない。そこに民衆の横軸な主体性が生かされ創られて行く時にのみ、初めてこの庁舎の全体像が明確な共通のイメージを伴ったものとして意識され、定着ていくだろう。公共建築としての本来の社会的意義がこの時初めて生れうるといってよい。今それは萌芽としてそこにある」(神谷宏治「香順庁舎についてのメモ「建築文化」1959和月号)
▶人々、街とともに
1958年(昭和5)5月2日に香川県庁舎竣工を祝う竣工式が開かれ、金子知事が式辞を、丹下は設計者として挨拶をした。丹下が「式辞の広場が県民のための広場であると考えたいし、またそうあることを希望して設計してまいりました」と述べたとおり、県庁舎が公開されると多くの人々が訪れ、新しい時代の建物を見て回った。
県庁舎の周辺に限らず、当時の高松では木造が中心で、3階建て以上の建物はまだ珍しかった。市街地の各所から仰ぎ見る存在としての香川県庁舎。
■オリンピックの双生児
10年以上にわたる大空間への挑戦の中で、1964年(昭和39)、国立屋内総合競技場が生み出される。東京オリンピックのためのその建築は、単に大空間であるだけでなく、軸線を用いて大観衆を誘導する配置計画や、斬新でありながら日本的なものを感じさせる造形など、それまでの丹下の歩みの集大成といえるものだった。そしてこの建築とほぼ同時に、瀬戸内には香川県立体育館(1964年)が完成する。並行して設計されたはずの二つの建築は、外観の印象こそ大きく異なるが、当時のスタディの過程をたどることで、興味深い思考の連動が見えてくる。