■中宮寺門跡所蔵国宝半伽思惟像
丸山士郎
半伽思惟像と呼ばれる美しい姿をした仏像があります。左足を踏み下げて右足を左膝の上に組んで坐り、右手は肘を右膝につき、中指を右頬にあて思惟(思案)します。
この姿は、仏教や仏像と同様にインドで生まれて、中国、朝鮮半島、日本に伝わりました。中国では、半跏思惟像はおもに出家前の釈迦をあらわすことが多かったようです。朝鮮半島では、6、7世紀頃に盛んであった弥勒信仰と結びついて弥勒菩薩としてつくられたと考えられますが、半伽思惟像は大いに流行し、国宝78号像や国宝83号像のほか、高さが3mあったと推定される石造の下半身も残っています。
日本の半伽思惟像は朝鮮半島の影響を受けてつくられ、作品に記された銘や資料から多くは弥勤菩薩と考えられます。中宮寺の半伽思惟像も、いま如意輪観音像としてまつられていますが、弥勒菩薩としてつくられた可能性があります。半伽思惟像は決して多くはありませんが、京都の広隆寺にも、国宝に指定される2体があります。半伽思惟像に日本の彫刻を代表する名品があるのは、指を頼にあてる魅力的な仕草や、肘をついて片足を踏み下げ、ゆったりとする姿勢をあらわすために、高い技術と表現力をもった仏師が選ばれたためではないでしょうか。また、半助口思惟像が流行したのが、仏像の表現を人々が真剣に求めた時代であったということも理由の一つであったはずです。
日本に仏教が伝わったのは欽明天皇13年(552)で、金銅の釈迦仏像や経典などが朝鮮半島の百済よりもたらされたと『日本書紀』に書かれています。その時、欽明天皇は、仏の姿はいままでに見たことがないほど厳(おごそ)かであると語っています。いま、その像は伝わりませんが、奈良・法隆寺伝来の四十八体仏(東京国立博物館所蔵)中にある、同時代に朝鮮半島でつくられた作品などが参考になります。また、この頃の日本における人物表現がどのようなものであったかも詳しくわかりませんが、こちらは飛鳥から出土した石造の男女像(7世紀、東京国立博物館所蔵、奈良・飛鳥資料館で展示中)や、6世紀まで続く古墳時代の人物埴輪が参考になるでしょう。両者を比較すると、仏像は写実的で細かなところまでつくられているうえ、鍍金(金メッキ)されて光り輝き、初めて見た人は厳かで神々しいと感じたはずです。
日本で仏像が本格的につくり始められるのは推古天皇13年(605)で、止利という仏師が鋼製の仏像をつくりました。
その像はいまも奈良の安居院(飛鳥寺)に伝わりますが、火災による損傷を負っています。推古天皇31年(623)につくられた法隆寺金堂の釈迦三尊像(国宝)も止利の作品で、こちらは製作時の姿をよく伝えます。左右相称を基本にして、二等辺三角形の構図におさまる安定した表現です。頭部は楕円形で、目は杏仁形と呼ばれるように杏(あんず)の種のような形で正面に視線を向け、口元には明快な笑みを浮かべています。抑揚を抑えた肉身は柔らかさが感じられません。衣の襞(ひだ)はかたくなに左右相称にこだわり、その線が強調されて図式的です。仏の尊厳を直裁的に訴える、厳かでやや硬い表現といえます。
中宮寺の半伽思惟像は、それから半世紀はどたった頃の作品です。法隆寺の釈迦像と比較すると、その表現を踏まえながら新しい表現を追求していることがわかります。法隆寺の釈迦像のように面長ですが、頭頂部はまるい曲線を描き、頬には柔らかなふくらみがあります。口元には微笑みをまぶた浮かべますがそれほど強調されず、目は伏して瞼(まぶた)の輪郭線を入れません。その顔は威厳ではなく慈悲深い優しさをあらわしています。上半身は起伏を抑えながらも肉身の柔らかさが感じられます。半伽思惟像のなかには前傾姿勢のものもありますが、中宮寺の像は背筋を伸ばしています。背中をみると背筋にそってわずかな窪みがあり、作者の身体への関心の強さがうかがえます。丸椅子状の坐具に掛けられた布には左右相称の表現が残りますが、衣の襞はそれから解き放たれ自由に変化します。しかし、それらの襞は法隆寺の釈迦像と同様に線が強調されるので、自然で写実的な表現とはいえません。このように、中宮寺の半伽思惟像は、柔らかさを求める新しい表現と、法隆寺の釈迦像のように起伏を抑えたり、線を単純化したりして形を強調する旧来の表現が重なり合い、それが清楚で上品な雰囲気を醸しているように思えます。
飛鳥時代の仏像の多くは金鋼製ですが、木製のものもあり、それらの多くはクスノキでつくられます。『日本書紀』には、欽明天皇14年(553)に、海に浮かぶ光り輝くクスノキで仏像をつくったという記述があります。クスノキは仏をつくるのにふさわしい神聖なものと考えられていたのでしょう。
中宮寺の半伽思惟像もクスノキでつくられますが、複雑に木を組み合わせるのは他の像にはない特徴です。頭部は前は後に二材を矧ぎ合わせており、体部を一材で、両腕は各一材。両脚は全体を一材、台座は円筒状部分を一材、下部の広い部分を前後二材でつくります。台座のみ内部を中空にします。いまは全身が黒く、面部は黒光りしていますが、身体には肌色、衣には緑や青の絵の具と、金箔を細く切ったきりかね裁金という技法による文様の痕跡が残っています。光背は中心部分が蓮華をもとにした文様、その周りは火焔を背景に7体の小さな仏があらわされています。丸椅子状の座具は、踏み下げた左足が地につかないほど高さがあり、それによって全体にすらりとした印象を与えています。
この像が伝わる中宮寺門跡は、法隆寺や大阪の四天王寺とならぶ聖徳太子が創建した七か寺の一つとされ、半伽思惟像のほか天寿国曼荼羅繍帳(てんじゅこくまんだらしゅうちょう)(国宝)と呼ばれる飛鳥時代の刺繍が伝わります。そこには、聖徳太子が往生した天寿国は目に見えないので、せめて形にして往生の様子を見たいという、妃の橘大郎女の願いが記されています。
■国宝半伽思惟像
左足を踏み下げ、右足をその膝の上に組んで丸椅子状の座具に坐り、右手を頼に添えて思惟(思案)しています。厳密には片足をもう一方の足の上に組んで坐ることを半伽といいますが、半伽思惟像という場合には、このように片足を踏み下げる姿をいうのが普通です。
頭頂の二つの球形は結った髪で、両肩から腕に垂れているのも髪です。やや面長ですが頬はふっくらとし、伏し目で微笑みを浮かべる優しい表情をしています。あらわにした上半身の肌からも柔らかさが伝わり、背筋にそってあらわされたわずかな窪みは写実的で、作者の身体表現へのこだわりを物語っています。いま、像の表面は黒光りしていますが、肉身部の一部に肌色が残っていて、本来はより肌の柔らかさが強調された表現であったことがわかります。
飛鳥時代の木彫仏に一般的なクスノキでつくられていますが、材を複雑に組み合わせるのはこの像の特徴です。右腕は指先も含め一材から彫り出していますが、肩の接合部に小材を挟み、頼に添える指の微妙な角度を調整しています。 (丸山士郎)
(MaruyamaShiro/東京国立博物館)
■韓国国宝78号金銅半伽思惟像
閔 丙賛
半伽思惟像は、半伽坐という特異な姿勢のために、顔と腕、足、腰などの身体の各部分が、互いに有機的に調和をつくりださなければならず、裳(も・十二単を構成する着物の一つ)の処理も非常に複雑で難しいものです。このような点において、半伽思惟像の登場は、真の意味で韓国彫刻史の出発点であるといえます。そのうち、国宝78号に指定される半伽思惟像は、豊かな造形性と、優れた鋳造技術ゆえに東洋彫刻史上の傑作と評される作品です。
▶半伽思惟像とは
片方の足をもう片方の膝の上にのせ、指を頼にあてたまま思索にふける半伽思惟と呼ばれる姿勢は、出家前に人間の生老病死を悩んで瞑想にふける釈迦の姿から始まりました。韓国では、三国時代の6〜7世紀に大変流行し、独尊像としても多くつくられました。代表的な作品としては、国宝78号半伽思惟像(以下、国宝78号像)と国宝83号半伽思惟像(以下、国宝83号像)がありますが、両像は半伽思惟形式の仏像としてだけではなく、韓国の仏教彫刻のなかでも最高傑作といえます。三国時代の半跏思惟像の尊名や制作を取り巻く信仰的背景は、銘文のある仏像や文献記録がまったくないため正確にはわかりません。ただし、半伽思惟像が初めて伝来したときの中国仏教の状況と三国時代の政治・宗教的背景や、現存する作品の完成度とスケールなどからすれば、その多くは弥勒菩薩としてつくられたものと考えられます。以後、韓国の半伽思惟像は、日本の飛鳥・白鳳時代の半伽思惟像の制作にも影響を及ぼしました。
▶国宝78号半伽思惟像の造形的な美しさ
国宝83号像とともに韓国を代表する彫刻として広く知られているこの半伽思惟像ほ、まず華麗な宝冠が目に入ります。塔のように見える装飾が施されているこの宝冠は、太陽と三日月を合わせた特異な形で、しばしば日月冠(じつげつかん)といわれます。日月をつけた宝冠装飾は、ササン朝ペルシャの王冠に起源が求められ、シルクロードを通じて東に伝播して菩薩像の宝冠に取り入れられましたが、インドのガンダーラや中国の敦煌石窟、雲崗(うんこう)石窟、龍門石窟など各地でさまざまな例が見られます。正面からこの半伽思惟像を見れば、腰が細くて女性的な印象を受けますが、側面から見れば、上昇するような力にあふれています。全体的に弾力のある身体は曲線が強調され、両肩からかけた天衣は、その端が上にのびて鋭さを増しつつ、流麗な線を描いて身体を包んでいます。台座を覆う布の襞は、楕円とS字形の曲線が絶妙な調和をつくりだし、変化に富んだ流れが見られます。
半伽坐の姿勢もきわめて自然です。それは、腰を少し曲げてうつむきながら腕を長く伸ばした非写実的なバランスを通して、最も理想的な思惟の姿をつくりだした彫刻家の芸術的な創造力から始まります。さらに頼の上にそっとあてた右手の指は、深い内面の法悦を伝えるように各指の動きが優美です。ひと言でいえば、この仏像の実は、非写実的ながらも自然な宗教的美、すなわち理想的な写実美であるということができます。アルカイック・スマイルと呼ばれる微笑と自然な半伽坐の姿勢、身体各部の有機的な調和、天衣と腰帯の律動的な流れと完壁な鋳造技法など、私たちは、この金銅仏によって最も理想的な半伽思惟像の姿に出会うこととなります。
この像は、内部に土が詰められた中空式鋳造技法を使用しています。頭頂から台座までの総高は1m近くあり、金網仏としては比較的大きな像であるにもかかわらず、銅の厚さは5mm前後にすぎません。こうして厚みを一定に維持するために、頭まで貫く垂直の鉄心と肩を横切る水平の鉄心を交差させて、頭部に鉄釘を使用しました。高度な鋳造技術の裏付けがあってこそ、このように美しく生命力のある仏像の制作が可能となりました。
▶国宝83号半伽思惟像との比較
国宝83号像は、国宝78号像と双壁をなす、三国時代に制作された韓国を代表する半伽思惟像ですが、二つの像には、造形的な面で明確な差があります。最も大きな差は、頭に戴く宝冠の形状です。国宝83号像のそれは低く、三つの山型をもつことから三山冠または蓮華冠と呼ばれます。国宝78号像と異なり、上半身にはまったく衣服をまとわず、シンプルな胸飾りのみを着けています。簡潔ながらバランスのとれた身体、立体的で、自然に表現された衣の襞、はっきりとした目鼻立ちから、6世紀後半に制作された。
国宝78号像よりも少し遅れて7世紀前半に制作されたものと考えられています。また、国宝83号像は大きさが93.5cmと、金銅の半跏思惟像のなかで最も大きいばかりでなく、京都にある広隆寺の木造半伽思惟像と非常に似ており、韓国仏像の古代日本への伝来と関連して注目される重要な作品です。
なお、国宝78号像の制作地についてはあきらかになっておらず、百済説と新羅説を中心に議論がかわされてきましたが、近年では身体と天衣の力強い中国の北魂時代風の表現、そして古墳壁画の四神図と似る点から、高句麗の仏像である可能性も提起されています。制作地の特定が困難であるのは、半伽思惟像が特定の地域に限定されず、普遍的な芸術性を有していることに理由が求められるのかもしれません。
(Min Byoungchan/韓国国立中央博物館)
■韓国国宝78号半蜘思惟像
右手の指先を頼に添え、右脚を組んで坐る半伽思惟像について、その名称には諸説ありますが、朝鮮半島では特に信仰が盛んであった弥勒菩薩としてつくられたものが多いとみられます。目元を伏せ、うつむいたその姿は、人々の救済を願いながら瞑想する様子をあらわすものでしょうか。
頭と手足が大きく、なめらかですっきりとした体躯の表現、線刻ひだによる波紋状の衣の襞といった特徴は、三国時代の6世紀後半に流行するスタイルですが、日本では飛鳥時代、7世紀の金銅仏にも継承される特色であり、超越者である仏を気品あふれる姿で表現することに成功しています。
鋼造に鍍金(金メッキ)を施した金銅仏としては大型に属しますが、近年、韓国国立中央博物館が実施した科学分析によって、頭と体、左足の小蓮華と三分割して原型をつくることで、5mm前後という均一な鋼厚を維持できた可能性が指摘されました。
かつての新羅にあたる慶尚北造出土との伝承があるものの、制作地の確定には至っていませんが、洗練された造形や高度な鋳造技術から、王室の関与する造仏であったと推測されます。
(西木政統)