北斎漫画(人物集)

■北斎の人物表現

 近世の両界にあって、もっとも多くの人物画を制作したのは、風俗画を主な題材とした浮世絵師たちであった。だがその中でも、北斎ほど多彩な人物表現をみせた絵師は、他にほとんど例がないといっていいだろう。 通常、浮世絵師は、役者や美人をはじめとする市井の名だたる人物を描いて世評を得てい−たので、生涯にものした人物画の多さはもちろん、他派の絵師たちが粉本などから採って描いた類型的な表現と比べると、その生彩さは群を抜いたものであった。しかし北斎の人物表現は、役者や美人にとどまらず、老若男女、ありとあらゆる層の人びとに及んで、古くから高い評価を獲得し続けているのである。たとえば、『北斎港南』をはじめとした絵手本類の中に、人物が多くの比重をもって収載されていることのみをみても、当時の一般的な北斎人物画への評価を端的に窺うことができるが、それにもまして、のちにドガやマネなど印象派の画家たちや、挿絵画家のビアズリーといった多彩な人びとにまで絶大な影響を与えたのであった。

 ここでは、そうした北斎の描く人物画が、どのような経緯を経て完成され、また北斎自身が、その表現上でどのような考え方を持っていたのかを、瞥見してみることも、本書収載の各図様を鑑賞するうえで、あながち不要なことではないだろう。

 北斎の最も初期の画風は、勝川春草(1726〜92)の門から両界へ登場した春朗時代の約15年間にみられるものである。この間の春朗の画様式は、勝川派のそれを踏襲しながらも、

 20歳代後半頃からは独自の表現も看取されるようになってくる。特に今回の主題である人物画に限ってみると、勝川派の絵師として役者絵を中心に、若干の美人画や子供絵などがみられ、中でも役者は春草が確立した“似顔”に重点を置いて描かれているが、それだけに他の題材に比べると全体的に春朗自身の個性があまり発揮されているとはいえない。だが、役者が見得を切る一瞬のしぐさをリアルに捉えるという描法は、後年の読本挿絵などにも見出せる共通した描法であり、北斎人物画の主要な特徴の一つがこの年代にすでに培われていたことが窺われるものである。また美人画では、春草にならった優美で穏やかな表現を採り入れながらも、この年代に絶大な人気を得ていた鳥居清長(1752〜1815)の健康的な様式をも加味した、ふくよかな女性像が完成されている。

 30歳代半ばの春朗時代末期から、勝川派を離脱して宗理を号しはじめた頃になると、人物表現は大きく変化をみせる。それは“宗理様式”と呼称されるもので、抒情的な画風であったが、特に美人画においては、楚々とした瓜実顔の可憐な女性像に変貌している。

 およそこうした画風は、40歳代半ば頃まで続き、当時一大流行をみせた狂歌の摺物や絵本に用いられて、多くのフアンを魅了したのであった。また肉筆作品にも佳作が見出されるが、「夜鷹図」(細見美術館蔵)では、あえて人物の面貌をみせずにその器量を鑑賞者に想像させるという構図を完成させている。この表現法は、後年の「富嶽三十六景」や肉筆画、版本挿絵などに多用されてゆく手法として注目されるものである。

 1804年(文化1)、45歳に入ると、再び画風は変化をみせはじめる。それまでの宗理様式と呼ばれる繊細な人物描写から、どっしりとした体躯をもつ漢画的描法の強いものとなってくるのである。その変化の要因と考えられるのは、この頃から傾注しはじめた読本挿絵の影響をあげなければならないだろう。

 読本は長編の稗史(小説)で、和漢の古典を題材としたことから、物語の筋に沿った登場人物の表情やポーズを、想像の世界でいかに臨場感あるものにするか、絵師の工夫と描写力が問われる分野であった。ここにおいて北斎の人物表現は、美人や役者といった特定の題材や定型化したポーズから一段とその自在さを増し、次期の絵手本時代の土台がほぼ完成されたことを予感させるのである。

 以上のような変遷の末に築かれた自在な人物表現と、それに対する幅広い支持層の要望の中から、必然的に多種多彩な絵手本が、50歳代初頭噴から陸続と出版され続けることとなったのであった。冒頭で触れた印象派の画家をはじめ、西欧の芸術家たちも、この年代の北斎絵手本に散見される自由闊達な表現力や構想、あるいは多彩な図様群に魅了され、自らの芸術中に北斎の構図と精神を採り入れたのである。

 まず、実際に門ヒ斎洩画』から通覧してみよう。初編では、和漢の古典に登場する僧侶や武者、あるいは時様風俗の人々が巻頭から約12丁(24頁)にわたって細ごまと収められており、2編でも多くの器物に混じって古典の人物や当世風俗が描かれている。さらに3編に入ると、収穫時の農家の仕事ぶりを5頁にわたって連続して収め、続いて力士や雀踊りといった特定のテーマによる題材をあらゆるポーズで提えることも試みている。たとえば雀踊りでは、見開き2頁に33もの姿態を描き、自信に満ちた人物デッサンの技量を十分に示したものとなっているのである。

 余談だが、かつて映像でこの雀踊りの各ポーズを連続させて動画に試みたことがあり、見事に各図が破綻なく一つとなって踊り出したことを記憶している。こうした特定の人物の様々な姿態を連続して描くという試みは、さらに一歩進んで、4編の水泳をする人物たち、あるいは8編にみられる幾つもの個性的な面貌描写や、太った人物と痩せた人物との対比といった具合に、あらゆる姿態の表現法を図示しているのである。このような徹底した表現の紹介は、多くの工芸職人や芸術家たちを刺激したようで、よく知られるところでは8縮からドガが多くの感化を受け、作品上にもその影響が認められると、すでに幾人かの研究者によって指摘されているところである。おそらく洋の東西を問わず、『北斎浸画』の人物図様が19世紀から20世紀の美術工芸界に与えた影響は、計り知れないものであると考えていいだろう。

 ところで、この『北斎漫画』以外の絵手本についても、各々の特色ある人物図様について触れておくべきであろうが、とても紙幅が許さないので、晩年の北斎が直接人物表現に言及している例を紹介して筆を置くことにしたい。

 北斎の最晩年期は、75歳以降とみるのが研究者のほぼ一致した見解である。この年代に北斎は和漢の武者を題材とする絵手本を幾種か発表し、その中で人物画を創作する場合の心構えを意外と多く開陳しているのである。たとえば本巻収載の「衿掲羅童子 制咤伽童子」(223頁No.4『和漢絵本魁』)では、「仏師仏画の用する処を省き人倫の骨格によって形を図す」と註記して、仏画と人物画には遠いがあることをあげ、さらに同書の「国姓爺」(222頁No.1の解説参照)では、武者絵を描く際の心構えについて述べるなど、表現上の、殊に精神的な面における注意点について、留意を促している。ここに北斎が到達した人物画が、単に対象の形を写すだけではなく、その題材に即した精神性をも重視していたことが窺えるのである。今もって北斎の人物画が、独特な躍動感をもって光彩を放ち続けているのは、こうした精神面もあってのことと考えられる。それは本書をひもとかれれば、個々の作品がもつ新鮮で力強い筆致から、自ずと誰もが首胃されるところであろう。

1999年3月 永田生慈