南禅寺(中世)

229■ 南禅寺の歴史(中世)

羽田 聡

 (京都国立博物館美術室・日本中世史)

 京都市左京区には、福地という地名がある。平治の乱で敗れた藤原信頼の子が奥州への配流から許されて帰京したのち、かの地に邸宅を構え、所持していた金を埋めたという伝承に因むという。

 いまから七五五年前の建長元年(一二四九)、のちこの地に広大な伽藍をほこる禅剃、南禅寺(臨済宗南禅寺派)を創建する人物が誕生した。それが、後嵯峨天皇(一二二〇〜七二)の皇子として大宮院(西園寺実氏女、嬉子)との間に生まれた亀山法皇(一二四九〜一三〇五、)である。20

■離宮禅林寺殿・・・亀山法皇の禅への帰依

亀山天皇離宮禅林寺殿

 南禅寺の前身は、文永元年(一二六四)に法皇が母のために建てた禅林寺殿」とよばれる離宮であった。『勘仲記』、あるいは『実窮卿記』(下図)など同時期の記録類をみると、そこでは仏事も行われていたが、寺院というよりあくまで法皇自身が行幸する場所という役割の大きかったことがわかる。

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 離宮たる禅林寺殿を法皇が禅寺としたのは、『文応皇帝外記』(上図)によると、同所でおきた怪異を東福寺に任していた無閑普門(一二一二〜一二九一、下図左)が鎮めたことかの徳に感じいったためとしている。確かに、無閑の病が重いことを聞いた法皇は、禅林寺殿から東福寺に赴き自ら薬湯を勧めるなど、両者は浅からぬ関係にあったしかし、法皇はそれ以前に円爾弁円(一二〇二〜八〇、下図右)に帰依していたことを考えると、禅に帰依(きえ・仏教徒になるという意味で最も多く使われる。)した契機は別にあったのではないか。

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 後嵯峨には法皇のほか後深草天皇というもう一人皇位についた子がいる。鎌倉時代末期には、この二人の孫が交互に皇位を継承するという事態(両統迭立・りょうとうてつりつ)となり、前者の皇統は大覚寺統、後者のそれは持明院統とよばれた(略系図・上図)後嵯峨は文永五年(一二六八)に出家(下図)する直前、法皇の子世仁親王(のちの後宇多天皇)をその跡継ぎとするよう決定した。両統迭立の原則に反するこの決定は、後採草の不満を招き、持明院統と大覚寺統の対立するきっかけとなり、法皇自身もその渦中に巻き込まれた。

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  この事態とほぼ時を同じくして法皇はもう一つの危機に直面している元老である元は高麗を服属させると、文永五年以降たびたび日本にも服属を迫ったしかし、幕府や朝廷はそれを拒否したため、元は文永十一年と弘安四年(一二八一)の二度にわたり北九州に来攻した。文永十一年正月に皇位を実子である後宇多に譲り院政を行っていた法皇は、この事態を憂慮して諸国の寺社に敵国降伏の祈祷を命じた(下図)。

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 皇統の危機につづき元老という国難に襲われた法皇は、国家の安泰を願ったものと思われ、これこそが禅に帰依する契機となったのではなかろうか。

■禅林禅寺から南禅寺へ

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 こうして禅に帰依した法皇は、禅林寺殿を禅林禅寺という禅寺となし、初代住持に無関普門(上図左)を迎えたのである。正応四年(一二九一)十二月に無関が遷化すると、法皇は規庵祖円一二六一〜一三一三、上図右)はっと、つを第二世として迎え、仏殿・法堂・三門・僧堂など伽藍の創建に着手した。

 その建立に際しては、聖武天皇が東大寺の建立に際し自ら土を盛った例に倣い法皇自身も仏殿の基礎に土を盛ったという逸話『康富記抄出(やすとみきしょうしゅつ)』(下図)や『文応皇帝外記』には記されている。国家的大事業であった東大寺建立に先例を求めるあたりに法皇が抱いていた理想=国家の安泰が現れており、禅に帰依した契機を具現化させたものがこの建立であったといえる。

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 伽藍の整備が着々と進むなか、永仁七年(一二九九)三月五日、法皇は起願文(上図左)を奉納し、所領の寄進を行うとともに住持選定の基準を示した。法流を問わず器量卓抜で仏法を重んじる人物を住持に選という規定(十方住持制)は、円爾の法嗣である無閑の遷化後、無学祖元(一二二六〜八六)の法嗣である規庵を住持に迎えたことからもわかるように、法皇が当初より持ち続けた理念であった。住持の相続が師匠と弟子(師資)の間でなされるのが一般的であった日本の寺院にあって、独特な住持登用制度を採ることで広く人材を求めたのである。

 起願文の奉納から三年後の乾元元年(一三〇二)、亀山法皇の意を受けて発給された院宣(上図右)には「南禅寺」の語がみえる。寺名が禅林禅寺から我々もよく知る南禅寺へと改められた時期を確定するのは難しいが、およそこの頃と考えてよかろう。起願文に法皇自身が「禅聞南宗(禅は南宗にきく)」と記すことから明らかなように、南宗と北宗に分裂した禅宗のうち後世に栄えた南宗禅に由来する寺名であった。

 延慶年間(一三〇八〜一〇)にいたり、南禅寺の伽藍は完成をみる。嘉元三年(一三〇五)九月十五日、法皇は伽藍の完成を待たずして崩御したが、草創期(物事の始まりの時期、初期)の南禅寺は法皇の保護のもとに築かれたことは紛れもない事実で、忘れてはならない。

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 以後、南禅寺は大覚寺統の天皇のみならず持明院統の天皇の保護も受けることになった。また、第三世に一山派の一山一寧(いっさんいちねい・一二四七〜一三一七、上図左)、第五世に大党派の約翁徳倹(やくおうとくけん・一二四五〜一三二〇、上図右)、第いせつしょうち上う十四世に大鑑派の清拙正澄(せいせいしょうちょう・一二七四〜一三三九、下図)など、法皇の遺志を継いで臨済宗各流派の代表的な僧を住持として迎え、発展を遂げたのである。

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■伽藍の大改築と応安の嗷訴

嗷訴(ごうそ・平安中期以後、僧兵・神人 (じにん) らが仏神の権威を誇示し、集団で朝廷・幕府に対して訴えや要求をすること)

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 規庵祖圓(きあんそえん)による伽藍の創建からおよそ六十年、南禅寺では堂舎の老朽化が目立ちはじめたため改築に乗りだした。平田慈均(へいでんじさん・?〜一三六四、上図左)は第二十五世として人寺するとまず法堂の修理を行い、その示寂後は、天龍寺に任していた春屋妙葩(しゅんおくみょうは・一三一一〜八八、上図右)が貞治五年(一三六六)に後光厳天皇の命をうけて本格的な伽藍の改築に着手した。

 残された改築関係の文書(下図)によれば、

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①この大改築は朝廷・武家を動かす国家的な事業として認識されていたこと、

②材木は西国のものを用い、その運送には関所の通行を容易にし関銭の徴収を免除される措置がとられたこと、

③諸国に賦課された棟別銭を主たる財源としたこと、が知られる。

 貞治六年(一三六七)六月、にわかに改築に暗雲がたちこめた。南禅寺の関所を通過しょうとした三井寺の稚児が関銭を出すことを拒否したため、身に着けていた鎧を奪ったところ、報復として関所の僧が殺害される事件がおきたのである。

 この一件は、朝廷と武家の介入で一応の決着をみた。しかし、三井寺の報復に憤慨して寺を去った天境霊致(てんきょうれいち・一二九一〜一三八一)のあと、第三十三世として人寺した定山祖禅(ていざんそぜん・?〜一三七四)が「続正法論」(下図)を著したことで問題は再燃した。同書は禅の正当性を説くとともに天台を罵倒する内容だったので、対立の構図は南禅寺と三井寺にとどまらず、禅宗と天台宗にまで発展してしまったのだ。

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 これをうけて延暦寺は、南禅寺三門の破却、伽藍の改築にあたっていた春屋と同書を著した山の流罪を求めて敗訴という手段にでた嗷訴とは寺社の衆徒たちが神威を楯に訴えを主張した集団行動である。特に、延暦寺の敗訴は神輿をかついで入洛し、それを振り捨てることで主張の貫徹を強要するというもので、後白河法皇(一一二七〜九二)が鴨川の水・双六の賽とともに三不如意の一つとしたことはよく知られる。

 応安元年(一三六人)八月、神輿をかついで入洛した延暦寺は、同年十一月に定山が遠江国に流罪となったことで一旦は鉾を収めたが、三門の破却という要求を貫徹するため、翌二年四月、ふたたび嚇訴にでた。対応に苦慮した朝廷は最終的に門の破却を決定、武家もそれを黙認し、同年八月に三門は跡形もなく破壊されてしまったのである。

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 しかし、南禅寺はこの脅威に屈することなく、第三十五世として入寺した龍湫周沢(りゅうしゅうしゅうたく・一三〇八〜八八、上図)がふたたび三門の造営を進め永徳年間(一三八一〜八三)には僧堂や仏殿など主要な伽藍が一新されるに至った。十五年ちかくにわたる大改築は、発展を遂げる南禅寺の活気を示すのみならず、起願文にみえる「当寺繁昌者、産図永固、玉葉久茂、若背吾所思、廃亡旋踵(当寺繁昌せば、蘿図永く固まり、玉葉久しく茂らん、若しわが思う所に背かば、廃亡踵(はいもうくびす)を旋(めぐ)らさん)」という法皇の遺志をも遵守したことを示している。

■五山の上

 中国では南宋時代になると、万寿寺・広利寺・景徳寺・霊隠寺・浄慈寺の五大寺を五山と称していた。臨済宗が日本に伝えられると、五山の名ももたらされ、後醍醐天皇は南禅寺をその第一としたのである。

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 ついで、足利尊氏(一三〇五〜五八)は後醍醐の建武政権からの離反を表明し室町幕府樹立すると、さまざ政策を打ち打す(上図)とともに、臨済宗寺院の保護・統制に乗り出し、暦応五年(一三四二)にこれを組織化(五山の制)した。その中でも、南禅寺は五山の第一とされた。

 さて、伽藍の改築が完成して間もない至徳三年(一三八六)七月、南禅寺は一つの画期を迎える。足利義満(一三五八〜一四〇八)は相国寺を建立すると、同寺を五山の列に加えようと第四十四世として入寺する義堂周信ぎどうしゅうしん・一三二五〜八八)に相談した。義堂は中国の例に倣い、南禅寺を京都と鎌倉の五山の上位に置くよう提言し、結果、相国寺は第二とされた。義堂の日記『空華日用工夫略集(くうげにちようくふうりゃくしゅう)』(42)には、つぎのような文書が写しとられている。

南禅寺座位事、可為天下第一五山之上之状如件、至徳三年七月十日 左大臣判  義堂和尚

 義満が南禅寺を「五山之上」となすことを命じた御判御教書(ごはんみぎょうしょ)であり、ここに南禅寺は禅寺として最高の寺格である五山の上という地位を確立した。

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 これにともない、南禅寺の住持は五山に任した僧から選ばれるようになったので、十方住持制の理念と相まつて臨済宗急派の代表的な僧が歴代住持となり、禅僧にとって羨望の的となった。このため、住持の任命は公帖(こうじょう・上図)という幕府の発給する辞令によってなされたが、実際に入寺しない者までが多額の礼金を支払うことで公帖を受けとる(坐公文・いなりのくもんということも行われた。『住持簿』をみると、五山の上となって以降、南禅寺は急激に坐公文による住持が増えており、この事態が如実に反映されている。

■度重なる兵火

 伽藍が表され、また五山の上として繁栄を極めた南禅寺であったが、明徳四年(一三九三)八月二十二日創建以来はじめての火災に遭う『良質真人記・よしかたまひとき』には、つぎのように記されている。

 今夜寅刻、南禅寺回禄、仏殿・法華金剛殿以下寺内悉焼失、其外塔頭六・七ケ所焼失、大雲庵法皇御所也、同為灰燼、聖廟被遊銘鐘同焼破畢、(後略)

 火は仏殿・法堂をはじめとした主要な伽藍や塔頭におよぶ、という広範囲にわたるものであった。火災からの復興を語る史料はほとんどないが、南禅寺に任していた大有有諸(だいゆうゆうしょ)が著した『天下南禅寺記』をみると、永享初年(一四二九~三二)には多くの伽藍が確認できるので、これ以前には往時の状態に復していたことが知られる。

 明徳の火災から五十年ほど経った文安四年(一四四七)四月二日南禅寺はふたたび火災にみまわれた。『康富記』の記すところを引用しておこう

是日中剋、南禅寺焼亡、自龍興院失火出、仏殿井法華僧堂・三門・庫裏・酒城・方丈等同時炎上、風呂一 宇歳相残、塔頭者天授庵・龍輿庵此二炎上也、(中略)開山塔南禅院者免災無為也云々、昔文應皇帝尽叡旨、 東福普門無閑草創之伽藍、五山之上之禅院也、去明徳四年八月廿二日始炎上、今度第二也云々、仏法滅亡  之体、可哀々々、 

 記主である中原康富(なかはらやすとみ)が人づてに聞いた話を書きとめたものである。おりしも規庵祖円の忌日にあたるこの日、塔頭龍輿院からでた火は仏殿・法学方丈二二門・庫裡など主要な伽藍をことごとく焼き尽くすという、明徳の火災をはるかに上回る規模であった。康富は「仏法滅亡之体、可哀々々(仏法滅亡の体、哀れむべし、哀れむべし)」と自身の感想を記しているように、彼の眼には復興は不可能と映ったに違いない。

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 しかし、ほどなくして南禅寺は仏殿の復興から着手したのである。美濃・飛騨の材木が尾張・近江と陸路および水路を経て京都まで運ばれたことが先度の大改築と異なるくらいで、運送の際の措置は同じであった。勧進などで得た資金をもとに仏殿の復興は始まり、寛正二年(一四六一)六月には仏殿へ足利義政(一四三六~九〇)を迎えるに至った。すでに、この頃には焼失した法堂や方丈の再建も確認できるので、伽藍の復興は十五年ちかくの歳月を費やしてようやく完成したことになる。

 それもつかの間、応仁元年(一四六七)正月京都は応仁・文明の乱という未曾有の戦乱に巻き込まれた。同九月中旬に東軍の赤松政則が岩倉山に陣取ると、南禅寺もこの戦乱に無関係ではいられなくなった。下旬にいたり、同地が西軍の攻撃をうけたことで南禅寺は炎上し、寺全体が灰燼に帰してしまったのである

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 文明九年(一四七七)十一月大内政弘や土岐成頼(どきしげより)ら西軍の諸将が帰国したことで戦乱は一応の終結をむかえたが、寺の整備・再興はなかなか進まなかった。平田慈均(へいでんじきん)が開山となつた塔頭雲輿庵では、沢村という酒屋借銭をする際、道具とともに自身の利権を証明するはずの文書(もんじょ)を質草とする(『政所賦銘引付・まんどころくばりめいひきつけ』)など、この時期の南禅寺はかなり困窮していた。99

 そこで足利義政は文明十年三月二十一日、兵糧科所などの名目で武家に押領されていた所領の返付と、寺の再興を命じる御教書(上図)を発給したのである。本来ならば、南禅寺にとって救いの手となるべき文書も、ほとんど実効力を持たなかった。南禅寺領諸国所々紛失御判物帖(下図)に載せる所領に対して、再三にわたり所領の押妨停止を命ずる文書が出されていることからも明らかであろう

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 乱後、記録の上からは、わずかに伽藍の復興がなされたことを知りうるが、保護者である朝廷や室町幕府の凋落もあり、再興にはほど遠い状況であった。法皇の遺志を遵守して二度の火災から復興を遂げた南禅寺も、その道を閉ざされる形となり、本格的な復興は、第二六六世の玄圃霊三(げんぽれいさん・一五三五~一六〇八、下図)豊臣秀吉の知遇を得て中興の道を開くまで待たなければならなかったのである。

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