エッシャー

3-58■無限迷宮の世界・エッシャーの世界

▶はじめに

 20世紀オランダが生んだ異才の版画家エッシャー(1898-1972年)が 没して、半世紀が経とうとしている。すれちがう白と黒の鳥がいつの まにか入れ香わっていく奇妙な模様、下に向かって流れるはずの水が 水車の上へ循環していくありえない立体など、誰もが一度はその視覚 的トリックに満ちた絵を見たことがあるだろう。

 エッシャーの人気は、第二次世界大戦後に『クイム』や『ライフ』と いったアメリカの大衆雑誌が掲載したことで、英語圏の若者を中心に 火がついた。日本でも1970年代以降、雑誌やテレビでの紹介に加え 各地でエッシャー展が開かれるようになった。美術の教科書にも掲載 され、3Dゲームのモチーフにもなるなど、わたしたちの生活に広く浸 透し高い知名度を獲得して今に至っている。

 本展では、エッシャーが生涯に制作した400点以上の版画のうち、 オランダと日本の所蔵家から厳選して借用した代表的作品約90点を 展示する。版画を学び始めた初期から、結解しローマに暮らした時代、 ファシズム政権を避け移住したスイスやベルギー、そして晩年まで暮 らすことになる故国オランダで、その時その時に制作した多彩な迷宮 世界が展開する。印刷物の中でいくつか作品を見たことがあるという 人も、実物の版画ならではの柔らかい質感やしっとりとしたインクの 色合いを楽しみつつ、不思議への好奇心と自由な想像力をかきたてる エッシャー世界に深く触れることができるだろう。

 また、ハーグ市立美術館の協力により、版画のもととなった下絵や スケッチなどの貴重な資料、そしてエッシャーの版画の恩師サミュエル・ イエツスルン・ド・メスキーク(1868-1944年)の作品をともに展示する。 一人の芸術家の試行錯誤の軌跡を実感していただければ幸いである。 本稿では、エッシャーの作風の変遷をその生涯とともに概観し、制作 の背景を探るとともに、日本との関わりについても紹介したい。

▶ エッシャーの人生と作風の変遷

■幼少期から修業時代

 マウリッツ・コルネリス・エッシャーは1898年、オランダ北部のレーワールデンに生まれた。父は運輸省に勤める水力工学の技師で、明治政府が招いたお雇い外国人の一人でもあり、大阪などで5年間土木事業に携わったことがある。母は元大蔵大臣の娘で、両親とも富裕な、いわゆる上流階級の家庭に育った

 エッシャーは18歳のとき、中高等学校の授業でリノカット(リノリウムを用いた版画)を習い、初めて版画を制作する。建築家を目指していたため21歳でハールレムの建築装飾美術学校へ入学し、当初は建築科で学んだ。ところが学校で版画家の教師メスキータと出会い、教えを受けその面白さに目覚めたところから阪南科に転じ、師について木版、銅版、石版など様々な版種を習得した。エッシャーは生涯恩師を尊敬し手紙や作品を贈るなど交流を続けた。1944年に仕ユダヤ人であるメスキータはナチスに連行されてしまうが、エッシヤーは友人とともに師の部屋から作品を救出し、アムステルダム市立美術館の安全な場所に移すよう奔走している。

■イタリア・スペイン旅行

1922年の春には、親友ふたりと一緒にイタリア旅行へ出かけた。一度帰国し年後、今度はスペインへ渡る。グラナダで姓イスラム文化の影響が色濃いアルハンブラ宮殿を訪れ、複雑な幾何学模様の装飾に魅了された。宮殿のモチーフには生き物がないことに驚いたが、刺激を受けて同じ年に作られた初期の正則分割−オブジェや動物の合同の形を平面上に隙間なく組み合わせる作品<8つの顔>は、男4人女4人の計8人の人間の横顔で構成され、後のエッシャー作品のモチーフが常に魚や鳥、植物などの有機物に占められてゆく端緒を示している。

 スペインの後は再びイタリアに戻り、シエナを拠点にイタリア各地を旅し、合間に制作に励んだ。1923年ラヴェッロに滞在した際、富裕な実業家の娘で妻となる女性イェッタに出会う。同年シュナの芸術家協会で初の個展を開催、翌年には故国オランダのハーグの画廊で個展を開催した。同年に26歳で結婚、その後10年間ローマに居を構えることになる。

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■ローマ時代

 仕事もプライヴュートも順調に滑り出したが、まだ絵の仕事だけでは食べられず、夫婦は両親から援助を受けての新婚生活だった。エッシャーは生涯金銭的に困窮したことはなく、恵まれた環境で制作活動に打ち込んだといえる。毎年春にはイタリアの地方を旅行し、アマルフィ海岸やシチリア島をはじめ岸壁沿いに広がる街やアップダウンの激しい渓谷など奇景といえるポイントを主題に、不思議な遠近感が漂う構図の作品を多数制作した。現実の風景と画家の記憶、そして想像力が合わさった風景画は、現実世界に対するエッシャーの素朴な驚きを反映し、代表作として知られる後年の“だまし絵”,とはまた別の魅力を持っている。

 オランダでもたびたび展覧会が開かれるようになり、徐々に名前が知られるようになっていった。1931年にはローマの有名な美術史家G・J・ホーへウェルフがエッシャーの作品を好意的に論じ、1933年にはアムステルダム国立美術館がエッシャーの作品26点を購入した。この頃にはふたりの子供に恵まれていたが、次男の肺の病気の治療のため、そしてイタリアで横行しはじめたファシズムを避けるために、1935年一家はイタリアを離れスイスに移住する。移住する直前には、不気味とも神秘的ともいえる〈夜のローマ〉シリーズ

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(上図)、片手で持った透明な球体の中に自身の姿と部屋が映りこんだ代表作《写像球体を持つ手≫(下図)を残している。

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■第二次世界大戦中、スイス・ベルギー時代

 スイスに移住したものの南欧への愛着を捨てきれなかったエッシャーと妻は、地中海の海岸沿いに旅に出る決心をする。船会社に、旅費の代わりに立ち寄る港の絵をすべて版画で制作し提供するとの約束で、1936年夫婦はクルーズへ出発した。フランスからスペインへ回り、再びグラナダのアルハンブラを訪れ、コルドバやセビリアのモスクなども写生し充実した時間を過ごし帰国した。その後、エッシャーは南欧の風景に別れを告げ、自身の内面の世界を構築するようになっていく。作風は大きく変わり、最初のスぺイン訪問以来心を捉えて放さなかった平面上の正則分割にふたたび情熱的に取り組むようになった。

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 1937年にはベルギーのブリュッセル近郊へ移住する。長さ4mのくメクモルフォーゼ〉シリーズはじめ、《昼と夜≫(上図)など、自と黒のパターンに成形された動物が画面内で姿を変容させてゆく代表作が次々と生まれた。

■オランダ:バールン時代

 1939年には第二次世界大戦が勃発一家は1941年に故国オランダへ移り、バールンを生涯の居と定めた。バールンでは、《爬虫類≫(下図)《出会い≫(下図)など、平面の正則分割を2次元と3次元の共存する構図に応用する作品群を制作。ここには、造形としての白と黒、テーマとしての善と悪など、二元的なモチーフが変容しつつ循環する、非現実ながら完結したエッシャー独自の世界観の始まりが見てとれる。

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 1945年第二次世界大戦が終結した。エッシャーは戦争中、ドイツ軍に協力したり組織に参加したりすることは一切拒んでいた。終戦直後にアムステルダム国立美術館で開かれた「ナチに協力しなかった作家の展覧会」には作品5点を出品し人気を得、その後頻繁に作品が購入されるようになっていく。《もう一つの世界≫(下図)のように消失点が複数ある奇妙な遠近法を駆使した構図、また《星≫(下図)など結晶学の知識から美しい形の多面体を用いた作品などがこの時期に考案された。

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■1950年代英語圏での人気、日本への初インパクト

 1951年には、前年アントワープで開かれた版画展の記事を読んだ記者により、英語圏の有力雑誌『タイム』『ライフ』に連続してエッシャーの作品が紹介された。いずれも好評で大きな反響を呼び、作品の注文を増やすとともに、エッシャーが英語圏で有名になるきっかけとなった。

 国際数学学会(1954年、アムステルダム)や国際結晶学会(1960年、ケンブリッジ)にあわせた展覧会や講演会も開かれ、科学者たちに好評を博すとともに、数学者や結晶学者の貴重な友人もできた。1954年には、ワシントンD.C.のホワイト画廊で開かれたアメリカ初の個展も大成功を収める。100枚以上の版画が売れ、刷り増しの作業によって次の新たな作品制作にかける時間が失われるのを恐れたエッシャーは思いきった値上げに踏み切るが、作品はさらに売れ続け効果はなかった。

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 1951年に日本初の公立美術館として開館した神奈川県立近代美術館で「現代オランダ版画展」(1953年8月15日一9月20日)が開催され、11人の作家の中のひとりとして初めて日本で《出会い≫など5点のエッシャ一作品が展示されたのもこの頃である。さらに多くの日本人へインパクトを与えたのは、1957年の第1回東京国際版画ビエンナーレだったらしい《婚姻の絆≫(上図)を含む出品作に強い印象を受けたことを、当時新進の版画家であった池田満寿夫や靉嘔が記している。

■1960年代、晩年まで続く成功

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 1960年代には世界中で講演会が開かれた。制作への意欲もおとろえず、《上昇と下降≫(上図)、《滝≫(上図)といった、現実には不可能な建築物を描いた傑作も生まれる。1968年にはワシン下ンD.C.のマイケルソン画廊とハーグ市立美術館で大規模な回顧展が開かれ、押しも押されぬ現代版画家のひとりとなった。晩年になっても好調な販売状況は変わらず、画商を通さず作品を直売していたエッシャーは、新作の制作と、過去の作品の刷り増し、販売に関わる手続きで大忙しだった。

 ところが、この年の末には妻が息子と暮らすためにスイスへ移住、エッシャーはひとり家政婦とともに自宅に住むことになる。エッシャーは自身の財団を設立し、自作の管理とマネージメントに努めた。翌1969年、最後の作品となる《蛇≫(下図)を制作。1970年夏には高齢芸術家のための共同住宅に移り、72年春に享年73で死去している。死後は、世界各地で展覧会が開かれ名声はいやますこととなる。

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■日本におけるエッシャー人気

 日本では、1970年代半ばから『版画芸術』や『みづゑ』などの美術雑誌でエッシャーの特集が多くなる。そして美術フアンのみならず一般の日本人にエッシャーのイメージが浸透したのは、「あしたのジョー」連載で矢吹ジョーと力石徹の対決の行方を読者が毎週注視していた『少年マガジン』(1970年当時の売上は約150万部)の表紙を連続で飾ったことや、エッシャー研究のパイオニアとなった坂根厳夫が朝日新聞の連載『美の座標』でとりあげたこと大阪万博のオランダ館で映画「エッシャーの世界」が上映されたことなどが大きいだろう。

 美術展としては、1976年西武美術館で初のエッシャー展が開かれ、その大入りを契機にデパートやギャラリーを中心に次々と開催されるようになっていく。1ら83年には長崎オランダ村博物館(現ハウステンボス美術館)がエッシャー作品の収集を開始した。1986年アパレル会社の社長だった甲賀正治が、エッシャーと親しかったスイス人のコレクターから当時7億円前後の価格で400点余りコレクションを買い取ったこともニュースを騒がせた。

 1990年代にかけて全国で繰り返しエッシャー展が開かれ、その都度高い集客力を誇ってきた。1995年以降はハウステンボス・コレクションによる展覧会が各地で開催、誰が見ても純粋な視覚的面白さを感じる“だまし絵”的要素からエンターテイメントとしての人気は根強い。

■多元的な世界知覚の方法‘‘美術”を超えて

 エッシャーは美術界だけでなく、数学者や結晶学者ら科学者によっても評価された。そのことが裏付けてもいるように、彼の“異端性”は、ほかの多くの近代画家のように個人の主観的感情や思想を表現するにとどまらず、数学や物理などの科学、人間に普遍的な知覚の構造までを作品の本質に含むことにあっただろう。その迷宮世界には、かつての芸術家たちが夢中になったテクニックー遠近法を愛用したルネサンスの画家たちの幾何学志向や、初期フランドル派のヤン・フアン・アイクの《アルノルフィニ夫妻の肖像≫などを連想させる鏡面感覚などに通じる発明と応用の喜びが溢れている。

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 もちろん、エッシャーの作品はエッシャーの人生や哲学を知らずとも楽しめる。ただ、本展では少しでもその制作背景や作者の人物像を感じ取っていただくことで、21世紀の日本で再び本物のエッシャー作品に触れる体験をより豊かにしていただければと思う。

 この世界には、まだまだ不思議なものがある。数理的なロジックで突き詰めていっても最後は合理が通用しない矛盾、人間の目に見えないシステムが確かに存在する神秘などを、エッシャーは独自の視覚言語で明らかにした。現実にはあり得ない世界は、偏狭な思考や価値観がなくならない現代において、わたしたちに物事を様々な角度から見ることの大切さを教えてくれる。エッシャー作品を愉しみ、そしてわたしたちの生きる世界についてもう一度想いを馳せてみたい。

 (茨城県近代美術館 学芸員)