ポーランド分割

■18世紀のポーランド分割

 1772年、ロシア、プロイセン、オーストリアが第1次ポーランド分割を行い、国土の約4分の1が失われた。続いて1793年に第2次分割を行い、1795年の第3次分割でポーランドは地図から消えた。

▶独ソのポーランド分割

 1939年9月1日にドイツ軍とその同盟軍であるスロバキア軍が、続いて1939年9月17日にソビエト連邦軍がポーランド領内に侵攻した。ポーランドの同盟国であったイギリスとフランスが相互援助条約(ポーランド・イギリス相互援助条約、ポーランド・フランス相互援助条約)を元に9月3日にドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まった

 ポーランドへの侵攻作戦はソ連外相ヴャチェスラフ・モロトフとドイツ外相ヨアヒム・フォン・リッベントロツプの独ソ不可侵条約調印の9日後、すなわち1939年9月1日に開始され、同年10月6日にドイツとソ連は実質的にポーランド全域の占領を完了することとなった。ポーランド分割占領は先の条約の秘密合意事項であった訳である。その暁にドイツ・ソビエト境界友好条約が結ばれた。

▶ポーランド国境の推移

1.1945年のポツダム会談により、第二次世界大戦後のドイツ・ポーランドの暫定的な国境として設定されたのがオーデル・ナイセ線である。それ以前のドイツ・ポーランドの国境は、歴史的なプロイセンとポーランドの国境が適用されており、オーデル・ナイセ線よりもずっと東側にあった。

2.ポツダム会談で新しい国境線をオーデル・ナイセ線に設定したのは、ポーランドをそれまでより西側に移し、ポーランド・ソビエト戦争後に調印されたリガ講和条約によりポーランド領とされたベラルーシとウクライナの西側(ナチスのポーランド侵攻に呼応してソ連軍が侵略・不法領有した領土のほとんど)を、引き続きソ連領として存続するのを正当化させることが目的であった。


ポーランドヘの影響

1.第二次世界大戦期にポーランドのユダヤ人がナチスによって絶滅させられるか、戦後はアメリカ合衆国やイスラエルに亡命するなどして、ほぼ完全に国内から居なくなったこと

2.この地域に住んでいたドイツ人が、ほとんど難民という形でドイツに移住してしまったこと(ドイツ人追放)

3.旧ポーランド東部の喪失領土のポーランド人のほとんどが新領有国のソ連によって、逆にポーランド新領土に強制移住させられ、多くがオーデル・ナイセ線付近の「回復領」の復興のためにこの地域へ移住したこと

4.正教徒が優勢な東スラブのロシア人・ベラルーシ人・ウクライナ人を、かつての東部領土とともに切り離したことなどから、新生ポーランドはカトリックやポーランド人の民族的・文化的均質性が極めて高い国家になった。

▶ドイツヘの影響

1.近世から近代にかけてドイツ人地域の統合を牽引したプロイセン王国の故地であり、中欧の大国ドイツ帝国に君臨したホーエンツオレルン家揺藍(ようらん・物事の発展する初期の段階)の地でもある東プロイセンなど、歴史的なプロイセン地域の大半を失ってしまったこと。

2.ドイツ騎士団の活躍に端を発した中世以来の東方植民によって、当地に数百年もの間にわたってドイツ系住民が定住していたことから、極めて喪失感が強かった。

▶国境線決定以後

1.この国境線は「暫定的なもの」として定められたものであるが、ソビエト連邦がポツダム会 談を通じて衛星国であるポーランド人民共和国とドイツ民主共和国(東ドイツ)に押し付けたものであった。従ってこれを否定するという選択肢はあり得ず、東ドイツ成立後の1950 年7月6日にポーランド人民共和国とドイツ民主共和国との間でズゴジェレツ条約が締結さ  れ、この2カ国間では受け入れられることになった。

2.東ドイツがこのラインを認めた一方で、もう一つの問題として、ドイツ連邦共和国(西ドイ ツ)がこのラインを「ドイツ」とポーランドの国境として受け入れるか?という問題が残っ ていた。1950年代から1960年代の西ドイツは共産主義者の支配するドイツ民主共和国を承 認せず、これと国交のある国とは外交関係を結ばないという政策(ハルシュタイン原則)を 採っていた。このため当初は交渉にすらならなかった。ハルシュタイン原則は1969年に放 棄され、翌1970年12月7日に締結されたワルシャワ条約(ワルシャワ条約機構とは無関係)  によって、西ドイツとポーランドの国交が結ばれ  ると、この条約の中で「オーデル・ナイセ線が事  実上の独・ポ国境である」ことが確認された。野  党のCDU/CSUはこの条約の内容(国境線と共産  主義ポーランドの承認)を批判して全国的な議論  となったが、紆余曲折の末にドイツ連邦議会は 1972年5月17日にこの条約を批准した。

 オーデル・ナイセ線は上図左端を縦に伸びる赤線緑色の線(CUJRZON LINE、カーゾン線)は第一次世界大戦後に定められたポーランド・ロシア国境。青線は1921年のリガ条約で決まったポーランド国境。オレンジ色の線は独ソ不可侵条約の秘密議定書で定められたポーランドを分割するライン。赤が第二次世界大戦後のポーランド国境。ポーランドはリガ条約で獲得した空色の領域をソ連に譲り、黄色で示したドイツ領を得た。

▶リガ条約

 ポーランド・ソビエト戦争を終結させた条約。1921年3月18目リガにおいて、一方をポーランド共和国とし、他方をロシア・ソビエト連邦社会主義共和国とウクライナ・ソビエト社会主義共和国として結ばれた講和条約。