震災遺構保存
震災遺構、保存へ思い交錯
南三陸町防災庁舎、県が2031年まで所有提案 東日本大震災5年目
東日本大震災の津波で43人が犠牲となり、鉄骨だけが残った宮城県南三陸町の防災対策庁舎。県有化による保存を提案した村井嘉浩知事が9日、初めて遺族らと会談する。広島市の原爆ドームに匹敵するとの評価もある震災遺構。保存をめぐり、住民の思いは震災から5年目となった今も複雑だ。
■賛否、家族内でさえタブー
赤茶色にさびた鉄骨の間を夜風が吹き抜ける。防災対策庁舎の前で3月末、町職員の夫を亡くした50代女性が献花台に手を合わせ、缶ビールを供えた。
「お父さん、だいぶ暖かくなってきたね。のどが渇くと思って持ってきたよ」
4年前の3月11日、夫は住民に避難を呼びかけるため庁舎に残り、津波にのまれた。今も行方不明だ。
週1回、庁舎を訪れ、その日の出来事や家族の様子を語りかける。土地のかさ上げ工事が進む町で、庁舎は夫を近くに感じられる数少ない場所だ。
でも、夫の両親は庁舎解体を望んでいる。見学に訪れる人たちが絶えず、落ち着いて祈れないからだ。夫を悼む気持ちは同じなのに、同居する夫の両親に庁舎のことは口にできない。
防災対策庁舎に対する被災地の思いは複雑だ。
「父や母 息子や娘 夫や嫁の顔が浮かびます 辛(つら)いです 悔しいです 早期解体を要望します」。1月、村井知事が町長との会談に訪れた時、遺族ら約30人がこんな横断幕を掲げた。
その1人、千葉みよ子さん(68)は町職員だった三女の夫を庁舎で亡くし、夫の両親と3歳の孫娘も犠牲になった。三女は隣の気仙沼市に出かけて無事だったが、震災後しばらく仮設住宅でふさぎ込み、昨夏から町外で一人で暮らす。
千葉さんは来年には自宅を再建する。三女に同居を持ちかけたが、「庁舎を見るとつらくなる」と断られた。「今も遺族を傷つける庁舎を残す必要があるのでしょうか」
時間をかけた話し合いを呼びかける人もいる。町職員の父を庁舎で亡くした及川渉さん(33)は1月、町議会に庁舎の県有化を求める請願を出した。県有化の後に、住民の間で議論する場をつくりたいと考える。
及川さんは、父の死を受け入れるまで1年ほどかかった。「住まいや暮らしの再建が進み、ようやく気持ちも落ち着いた」。震災から4年で復興は道半ば。庁舎と向き合えない人の気持ちにも共感する。
震災遺構の保存を話し合う県の有識者会議では、防災庁舎が「特に高い価値がある」とされた。津波の惨事を後世に伝える大切さも感じる。「将来を担う子たちに決断の理由を説明できるようにしたい」と言う。
■原爆ドームも決定に20年
「二分する議論に終止符をすぐに打つのは無理だろう。20年後に町にお返しした時に結論を出していただければ」
宮城県の村井知事は1月、防災対策庁舎を震災から20年になる2031年まで県有化する案を佐藤仁町長に伝えた。
20年は、原爆ドームの保存決定までにかかった期間を踏まえた。原爆ドームも当初、「被害を後世へ伝える象徴に」「悲惨な記憶を呼び起こす」と、保存と解体で論争があった。広島市議会の決議で保存へ向かったのは、原爆投下から21年目だった。
高さ12メートルで3階建ての防災対策庁舎。保存をめぐる議論は、曲折を重ねてきた。
震災直後、町は一時は保存を検討したが、一部の遺族から「見るのがつらい」と声があがり、11年9月に佐藤町長が解体の方針を示した。
翌年夏、遺族や住民が「保存」「解体の一時延期」「早期解体」という三つの陳情を提出。町議会は9月、早期解体の陳情を採択した。町は1年後、「遺構として保存した場合、維持管理費を負担できない」として、解体の方針を改めて示した。
しかし、13年12月、村井知事が他の遺構も含めて県有識者会議で保存を議論すると表明。当時、第18共徳丸(宮城県気仙沼市)が撤去され、津波で横倒しになったビル2棟(同県女川町)の解体が決まるなど遺構は次々と姿を消していた。佐藤町長は、解体方針を一時凍結した。
有識者会議は昨年12月、庁舎について「震災を象徴し、世界的な知名度も高い。原爆ドームにも劣らない」と保存を提言。県は31年までの保存にかかる維持費を負担する考えだ。
「非常に複雑」。知事との会談後、自らも庁舎で津波に襲われた佐藤町長は語った。「20年は長いとも短いとも言えない」
庁舎保存をめぐる議論については「住民の間で意見が分かれていた。身内を亡くした職員も多く、意見を言うことがはばかられる空気があった」と振り返る。
町は1日、庁舎の県有化について、町民の意見を募るパブリックコメントを始めた。全世帯に記入用紙を配り、メールでも受け付ける。9日には村井知事が町を訪れ、遺族と意見を交換する。地元での本格的な議論が始まる。(古庄暢)
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