釜石市立釜石東中

「釜石の奇跡」

『東日本大震災の記録第一集明日を見て前を向いて』

岩手県校長会編

 釜石東中学校にいた生徒212人、職員17人全員が無事避難発生当時一年生は教室、二年生は部活動の準備、三年生は卒業式の準備と帰宅へ停電、校内放送使用できず、先生・生徒の自主判断で全員校舎外に避難点呼もとらず、まず、第一次避難所(700m離れた福祉施設「ございしょの里」)へ走って避難発災後「10分足らずのこと」校長は車で恋の峠付近を走行中、ただちに学校へ引き返す学校に到着した時には、生徒たちはすでに「ございしょの里」に避難完了、校舎に誰もいないか確認、鵜住居小学校の迎えに来た父兄対応を続け、津波に追いかけられながら沢道にのがれ無事次に、第二次避難所(介護福祉施設「やまざきデイサービス」)へ移動

 15:17分ころ「後ろをふりかえると、煙のようなものが見えました」(毎日新聞「震災検証」取材班、2012:179)このとき、中学生が鵜住居小学生の手を引いて、避難最終的に、恋の峠(石材店のある場所)に三次避難当時学校にいた生徒212名、職員17名全員無事校長平野憲、

『東日本大震災の記録第一集明日を見て前を向いて』

岩手県校長会編

はじめに 

 釜石東中学校(震災時の生徒数は217名)は、釜石市の中でもっとも津波の被害が大きかった鵜住居(うのすまい)地区に位置していました。この地区は、釜石市の北に隣接する大槌町とともに大槌湾に面しています。この学校は沿岸近くに建っていたため、校舎が津波で全壊し、震災後の4月からは市の中心部にある釜石中学校の校舎を間借りして授業を再開しました。後に鵜住居小学校と合同の仮設校舎が鵜住居地区の内陸側の土地に建設され、平成23(2011)年度末にそこへ引っ越しましたが、筆者の聴き取り調査は、まだ釜石中学校に教室を間借りしていた時期に実施されました。以下の記述には、2012年2月13日(月)に行われた平野憲校長(当時)との面談から得られたことのほかに、当日いただいた資料の記載内容も含まれています。

 釜石東中学校は、日常から力を入れて取り組んでいた防災教育が震災時に活かされ、生徒と教職員が適切に避難をして全員が無事であったことから、マスメディアで大きく取り上げられました。本稿では、防災教育の内容に重点を置いて報告します。

スクリーンショット(2014-07-27 17.54.55)

 2011年3月11日の大地震発生時、校長が所用で校外に出ていたため、副校長の指示の下で生徒の避難が開始されました。生徒たちの一部はすでに帰宅を始めて校舎の外に出ていました。被災地のほとんどの学校でそうであったように、地震後すぐに停電となったため、校内放送が使えず、教職員が声を張り上げて避難指示を出しました。生徒たちがめざしたのは、指定された避難場所である福祉施設「ございしょの里」でしたが、学校から約700メートルの所にあるその施設に向かう道路は避難する車で混雑していて、思うようには避難が捗りませんでした。それでも地震発生の19分後の15時5分前後には避難場所で点呼が始められました。

 しかし、そこでも危ないと判断されたため、すぐにさらに高い所への避難が開始され、生徒たちはいっしょに避難していた鵜住居小学校の児童たちとともに400メートル先にある「やまざき機能回復デイサービスホーム」の駐車場へと向かいました。最初の避難場所である「ございしょの里」は、全員が離れた5分後に津波が押し寄せました。デイサービスホームの駐車場に到着した生徒たちは、そこから津波が町も学校ものみ込む光景を目にしました。教諭の一人は、自分たちのいる所にも津波が来ると感じたそうです(結果としては、津波による浸水はデイサービスホームの手前で止まりました)。教職員と生徒たちは、他の避難者たちとともに、さらに高台をめざして走りました。山の峠の石材店に着いたときには、パニック状態で叫んだり泣いたり過呼吸になったりする生徒もいました。

 一方で校長は、地震発生時には所用で市の中心部へ行くために車を運転中でしたが、すぐに中学校へ引き返し、生徒と教職員が学校に残っていないことを確認した後、避難を開始しました。しかし、校門を出たところで、隣の小学校も含め、車で子どもを迎えに来た保護者たちが次々とやって来たため、しばらくはその対応に当たらざるをえませんでした。その後の避難の途中で津波が川を上って迫ってきたのを見て、すぐ近くの沢道に入り山の斜面を駆け上がって一命を取りとめました。後ろを走っていた何人かは逃げ遅れて波にさらわれたということです。校長が津波にさらわれたものとばかり思っていた他の教職員や生徒たちの前に校長が姿を現したのは、16時半頃のことでした。 

 釜石東中学校と鵜住居小学校の児童生徒および教職員は、その後、歩いたり、市や善意の人たちが差し向けてくれたトラックに乗ったりして、南に約5キロ離れた市中心部の旧釜石第一中学校に移動し、そこで夜を明かした後、翌日からは市の内陸部にある甲子(かっし)中学校と甲子小学校へ移動し、しばらくそこを避難所として過ごすことになりました。

以上のような震災時の避難の詳細については多くの報道がなされており、出版物やネット上でもかなりの情報が入手できます。

毎日新聞「震災検証」取材班『検証「大震災」 伝えなければならないこと』(毎日新聞社、2012年)、特に「12 学校防災」の箇所が参考になります。

釜石東中学校の生徒(当時)のレポートから

釜石東中学校の生徒たちの震災時の避難状況については、本レポートの前半で、校長先生の説明やその時にいただいた資料に基づいて記述しましたが、それとは別に聴き取り調査後に、震災当時釜石東中学校の3年生だったある女子生徒に、震災当日から翌日にかけての避難の状況をレポートにまとめていただくことができました(レポートが執筆された2012年5月の時点で、生徒は高校2年生でした)。

この生徒さんは、筆者が依頼したレポートのほかに、見聞きしたことを時系列に書き記し、さらに図も入れた詳細なメモも送ってくれました。以下、生徒の視点から見た地震後の避難行動と避難所の様子を伝えるために、そのレポートの一部を掲載します。掲載にあたっては、通称を正式名称に改めたり、前後の流れをわかりやすくするために、字句を若干訂正あるいは追加するなどしましたが、基本的にはレポートの文章をほぼそのまま使わせていただきました。また、メモの内容から補足説明を加えられる部分には括弧内に※を付けて補いました。(田村)