住民の避難、残る課題

■住民の避難、残る課題 福島第一原発事故5年

 原発事故を受けて様々な対策がとられてきた。それでもなお、課題は多い。避難計画への不安は残り、使用済み燃料の行き場はない。問題は先送りされたまま、再稼働が進む。再び「想定外」が起きたときに、対処できるのか。

 《原発事故後、国は住民の避難のあり方を大きく変えた。だが、福島の事故に照らし合わせるとログイン前の続き、うまくいくのか確証はない。》

■国が測った放射線量、町に伝わらず

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 原発事故が起きた時、どう避難するかは住民や自治体が直面する課題だ。東京電力福島第一原発事故では情報が自治体や住民にうまく伝わらず、政府の出した指示よりも先に避難するケースが続出した。福島県内では約16万人が避難し、今も10万人近くが戻っていない。

 福島第一原発から北に約8キロ離れた浪江町役場。東日本大震災が発生した翌日の2011年3月12日早朝、馬場有(たもつ)町長は、町中心部を含む原発から10キロ圏に避難の指示が出たことを伝えるニュースを見て、跳び起きた。

 政府は事故の悪化を受け、11日午後7時過ぎに原子力緊急事態宣言、同9時23分に3キロ圏の避難と3~10キロ圏の屋内退避、翌12日午前5時44分に10キロ圏の避難指示を出していた。だが、町には国の原子力災害現地対策本部が詰める大熊町のオフサイトセンターや東電からの連絡が伝わらず、馬場町長らは原発が深刻な事態に陥っていることに気づいていなかった。行方不明者の捜索など津波の対応にかかりきりだった。

 10キロ圏には町人口の約75%にあたる1万6千人がいた。町は防災無線などを使い、10キロ圏の外へ避難するよう呼びかけた。

 枝野幸男官房長官は10キロ圏に避難指示を出したことについて、会見で「万全を期すため」と述べ、あくまで大事をとっての措置だと強調した。

 一方、馬場町長には福島第一原発に勤める数人の町民から「原発が爆発するかもしれない」「もっと遠くに避難した方がいい」という電話があった。町は12日午後1時、福島第一原発から北西約30キロにある津島支所に町役場を移すことを決定。原発から10キロ以遠の住民も津島地区へ避難を始めた。

 午後3時36分、1号機が爆発。自家用車で避難する住民らで道路は大渋滞した。馬場町長は津島支所に車で向かったが、通常30分のところ3時間半かかった。政府が20キロ圏に避難指示を出したのは、午後6時25分だった。

 津島地区には人口約1500人のところに8千人の避難者が集まり、避難所の小中学校などは入りきれない状態だった。漁師の桜井治さん(80)も12日に自家用車で避難を始め、車で3泊した。この間の食事は、炊き出しのおにぎり2個と、住民から提供されたご飯とみそ汁などの計2回だった。

 14日夜、隣の葛尾村が全村避難を決めた。この情報を防災無線で聞いた避難所の住民が「もっと遠くに避難しなくていいのか」と動揺し始めた。町は15日午前4時30分、20キロ圏外を含む全町避難を決めた。その1時間半余り後、4号機が爆発した。町は津島地区のさらに西にある二本松市に避難先を確保し、10時ごろから住民のピストン輸送を始め、15日夜まで続けた。

 文部科学省は13日に浪江町でも放射線量を測り始め、15日夜に津島地区(川房)で毎時330マイクロシーベルトを計測。だが、結果は当時、町に伝わらなかった。馬場町長は「なぜ情報を伝えなかったのか。町民は無用の被曝(ひばく)をした可能性がある」と悔いる。

 政府が20~30キロ圏の屋内退避を指示したのは、4号機の爆発から5時間近く経った15日午前11時だった。指示を出すにあたり、官邸では避難区域の拡大の是非が議論された。30キロに避難指示を拡大すると、対象人口が20キロ圏の2倍近い14万人以上に増え、避難が混乱することを懸念した。屋内にいれば被曝量を減らせると判断した。

 官邸で住民避難を担当した、福山哲郎官房副長官は「(渋滞で)近場の人が逃げ遅れる可能性があるので、段階的に避難のプロセスを大きくした」と政府事故調の聞き取りで答えた。

■屋内退避重視、非現実的な面も

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 事故前、原発の避難対策が義務付けられていたのは、原発の半径8~10キロ圏内に限られていた。だが、福島の事故では、避難区域が福島第一原発から最大で40キロ以上にまで広がった。

 事故後、国は原子力災害対策指針を改定。原発半径30キロ圏の自治体に避難計画の策定を義務付けた。原発で大事故が起きたら5キロ圏はすぐに避難し、5~30キロ圏はまず屋内退避して放射線量に応じて避難する仕組みにした。

 避難指示を判断するのに、放射性物質の拡散を予測するSPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)は使わないことにした。福島の事故では原発から放射性物質がいつどれくらい出たのか、肝心の情報がわからず、正確に予測できなかったからだ。

 避難は、モニタリングポストなどによる放射線量の測定結果をみて判断することにした。しかし、福島の事故では福島県が設置したモニタリングポスト24台中、23台が地震や津波で使用不能になるなど、放射線量の測定に支障が出た。車を使った測定も燃料不足などで当初はほとんどできなかった。

 福島では大渋滞も発生。避難先を転々とするうちに、多くの高齢者が亡くなった。放射線被曝を避け、避難による負担を減らすため、国は屋内退避を重視することにした。

 ただ、屋内退避にも難しい面がある。南相馬市は3月16日、政府の指示で屋内退避となった市中心部をはじめ、特に指示が出ていなかった北部も含めて独自の判断で全市民に避難を促した。15日にかけて原発で爆発が相次ぎ、物流が途絶え、市は「陸の孤島」(桜井勝延市長)と化したためだ。

 政府が屋内退避としていた原発半径20~30キロ圏の住民に自主避難の要請を発表したのは3月25日。枝野官房長官は会見で「商業、物流などに停滞が生じ、社会生活の維持継続が困難となりつつある」と、屋内退避の困難さを理由に挙げた。

■バス確保は、渋滞は

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 事故時に住民を避難させるのに、多くの自治体が民間のバスを使うことを想定している。だが、法的にはバス会社が応じる義務はなく、実際にバスを原発周辺に派遣できるのかはわからない。

 地震が起きた3月11日の夜。水戸市の茨城交通は国土交通省から「災害派遣でお願いしたい」という依頼があり、バス20台の派遣を決めた。同市も震度6弱に襲われ、本社が停電し混乱していた。派遣を決めた同社幹部らは「原発のことは意識になく津波関係での依頼だと思った」と口をそろえる。

 パトカーの先導で暗闇の高速道を走り、大熊町に着いたのは12日午前6時ごろ。案内役が見当たらず、避難住民を乗せる場所を見つけるのにさらに1時間以上かかった。

 運転手の大畑広実さん(59)は路上にいた白い防護服姿の警察官を見て、初めて原発事故を疑った。この時、すでに大熊町の大半は避難区域に指定されていたが、大畑さんは気付かなかった。

 現地の人に「とにかく西へ」と頼まれ、大畑さんは定員の55人を乗せて田村市内の避難所へ送り届けた。渋滞し、2度目に同市中心部まで運んだ時には通常の4倍、4時間を要した。

 12日午後3時半過ぎ、1号機が爆発し、本社は初めて事故の深刻さに気付き、午後6時ごろに撤収を指示した。20台が水戸市に戻ったのは翌13日午前4時過ぎ。運転手の大半が11日朝から働き詰めで、大畑さんが口にしたのはカップラーメン1杯と水だけだった。

 同社は大熊町の人口の1割を超える約1700人を避難させた。任田正史社長は「運転手の安全を守る義務があり、最初から原発事故と知っていたら、バスを派遣するのは難しかった」という。

 国交省によると、原発の半径20キロ圏の避難に使われた民間バスは125台。政府事故調は中間報告書で「全ての自治体に必要台数が行きわたることはなかった」と総括した。