三陸町戸倉小避難の実態

南三陸町・戸倉小学校(その1)、午後2時30分

宮城県三陸町立戸倉小学校長 麻生川 敦

 大川小学校の問題を検討する上で、戸倉小学校は比較対象として最も重要な事例と考える。雄勝小学校や相川小学校の場合、裏山の傾斜は大川小学校の「裏山」より急であったが、逃げる場所はそこしかなかった。逃げる必要があると判断した時点で、逃げる場所は自動的に決定された。
しかし、戸倉小学校の場合、三階建ての校舎に屋上があり、所定のマニュアルでも屋上に避難することになっていたので、屋上に行きさえすれば、結果的に児童全員が死亡したとしても教員の責任の問題は生じなかったと思われる。
それにもかかわらず、移動距離の長い別の避難場所を選択した判断がなされたことは非常に重要であり、複数の選択肢が存在した大川小学校の問題を考える上で最も参考になる。

 原口・岩松『東日本大震災津波詳細地図上巻』を見ると、南三陸町の防災庁舎の津波浸水高が14.16メートルで、志津川町中心部の津波浸水高は概ね14~16メートル程度であるが、戸倉小学校周辺は20メートルを超えている。『河北新報』2011年05月11日付の下記記事によれば、戸倉小学校の在校児童は「宇津野高台」の神社(記事には神社名がないが、五十鈴神社)へ逃げて無事だったとのことであるが、「宇津野高台」の津波浸水高は20.71メートルで、神社周辺の本当にごく僅かな部分だけが津波を免れた。

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とっさの判断高台へ 在校児童ら犠牲逃れる 南三陸

 10日に始業式を迎えた宮城県南三陸町の戸倉小は震災発生時、校舎屋上まで津波に襲われながらも、学校にいた児童全員が無事だった。同校は最も早い場合には3分で津波が到達するとされた宮城県沖地震を想定し、校舎屋上への避難を検討していたが、教職員のとっさの判断で高台への避難を選択し、難を逃れた。隣接の戸倉保育所も戸倉小屋上への避難をマニュアル化していたが同様に高台に避難し、多くの園児が救われた。
「非常に強い地震。確実に津波が来る」。戸倉小では地震直後、麻生川敦校長(53)ら職員が、学校にいた児童91人に約200メートル離れた「宇津野高台」への避難を指示し、全員で走って逃げた。

3階建ての校舎は簡単に津波にのみ込まれ、屋上の給水塔まで水没。津波は高台まで迫り、児童らはさらに高い神社へと移動しなければならなくなった。
麻生川校長によると、同校は津波到達までの時間が最悪3分とされた宮城県沖地震を想定し、マニュアルで定めていた避難先を高台から校舎屋上に変更できないか、検討中だった。高台までは国道398号を横断しなければならず、大人の脚でも5分以上はかかるからだ。これまでの職員の話し合いでは、1960年のチリ地震津波を経験した職員らが高台への避難を主張。結論は出ず、専門家に意見を求めようということになっていた。

 麻生川校長は「学校は津波が確実に来る場所にあった。津波経験がある職員の声を聞いた話し合いが、結果的に生死を分けた」と話した。一方、園児のお昼寝中に地震に見舞われた戸倉保育所。マニュアルでは戸倉小の屋上へ一時避難し、落ち着いたら高台へ逃げる手順だった。しかし、佐藤盛子所長(57)らは建物被害が大きく、戸倉小校舎も危険と判断し、高台への避難を決断。21人の園児は毛布などを持って逃げ、戸倉小の児童より早く高台への避難を完了した。園児らが持って逃げた毛布などは、高台にある神社で一夜を過ごした際にも役立ったという。
震災と津波で戸倉小では帰宅していた児童1人が死亡。戸倉保育所では園児1人が行方不明となった。

児童の引き渡しが終了するまでの避難について~

南三陸町立戸倉小学校校長 麻生川敦

 戸倉小学校の概要本校は, 南三陸町志津川の志津川湾南岸沿いに位置し、学区内に国道45 号や国道398号が通っている。毎年秋になるとサケが遡上するなど極めて自然環境に恵まれている。昭和61 年4月県教育委員会から 2年間、ふるさと教育の研究指定校に指定され、それ以降25年間にわたり、学校と地域一体となって、体験学習を基軸にすえた「ふるさと教育」を継続してきた。この理念は、『地域と学校が一体となって、明日のふるさとを担う子どもについて考え、明日のふるさとへの夢を語るとき、地域全体に学ぶ意欲が醸成され、価値ある目的に向かって共に学びあいながら努力する学習社会が形成される。』というもので、言わば「戸倉の志教育」ともいうべきものであった。この取り組みでは、「ふるさとを知り、ふるさとを愛し、ふるさとを創る子どもたちの育成」を合言葉に、様々なふるさとの学習素材を取り入れ、親と教師が子どもたちのために一生懸命協働する姿を見せることの大切さを認識しながら、ふるさとを創る主体を育て上げてきた。その精神は脈々と引き継がれて、学校と地域の結びつきを強固にし、当時の児童は今、保護者としてふるさと教育を支える人材となっている。

東日本大震災における被害の概要

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 平成23年3月11日16:26 水没した戸倉小を臨む10日前に完成引き渡された体育館・3 階建て校舎屋上まですべて水没し、中の施設・設備・備品を含めて全壊・体育館、プール、植栽など校舎外の全ての施設・設備も全壊・児童の家庭全壊戸数家庭の8 割(当時)・教職員の家庭住居全壊8 名( 当時)・保護者の被害父親死亡1 家庭・児童の被害死亡1 名( 当時2 年1 名)・教職員の被害死亡1 名・学校再開時に減少した( 転出した) 児童数2 5 人・一時転出したもののその後もどってきた児童数7 人3 戸倉小学校の立地と防災計画について南三陸町立戸倉小学校は、南三陸町折立浜から約3 0 0 m 内陸の場所に建ち、5 0 年前のチリ地震津波の際には、校舎の一階が水没する被害を受けている。このため、町のハザードマップでは、レッドゾーンに入っており、台風や大水の際の避難所としては指定されていたものの、地震・津波時には指定避難所からはずされていた。

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 地震津波の避難マニュアルは、第一次避難として、校庭南端の校舎から離れた場所に集合し、津波の危険がある場合には、学校の北西4 0 0 m ほどの道のりの場所にある宇津野高台へ二次避難を行うことになっていた。毎年の訓練では、授業中の避難はもとより、休み時間中の訓練を行ったり、下校途中の避難について考えさせたりしてきたが、実際におこった地震とそれに伴う津波警報・津波注意報において、高台まで避難することも珍しいことではなかった。

 しかし、隣接する戸倉保育所のマニュアルは、地震津波の避難場所を「戸倉小学校屋上」と定めていたため、小学校が避難する際は高台への避難をしながら、保育所が校舎の外側から屋上へ上がるための非常階段の、屋上に通じる扉の鍵を解錠せねばならず、避難訓練のたびに違和感を感じる職員も少なくなかった。4 地震・津波避難マニュアルの検討平成2 1 年度末の学校評価において、このマニュアルの内容とともに、「第二次避難の際に国道3 9 8 号をわたること」「第一次避難から第二次避難まで5 分を要すること」「避難した後を野外で過ごさなくてはならないこと」などを議論の中身として、避難計画の検討を行った。昭和3 5 年のチリ地震津波被害の水位は2 階までも達していない。校舎が地震による損壊さえなければ、十分屋上への避難で安全を確保できると考えられた。消防署の意見も同様だったので、第二次避難場所を宇津野高台から屋上への変更する原案が提案された。

 しかし、地元出身の教職員からは、昔から言い伝えられている「地震が来たら、津波。津波の時は高台へ」という鉄則を変えるべきではないという主張があり、平成2 2 年度の計画はそのまま宇津野高台を避難場所とし、内容を1 年間検討することにした。平成2 2 年度、避難訓練時に消防署から、屋上への避難は妥当であるとの見解をいただいた。また、チリ地震津波5 0 周年の特別シンポジウムにおいて、宮城県沖地震のシュミレーションが披露され、津波の到達時間は最短で3 分の場合も考えられることがわかった。

  このことをもとに、地震の際に注意報・警報が発令されるまでの時間を調べてみた。すると最短でも5 分の時間がかかることがわかった。さらに、様々な津波被害を調べると、北海道南西沖地震では、地震後3 ~ 5 分で奥尻島を津波が襲っている。地震が起こった場合、通常机の下に避難するが、これに1 ~ 2 分かかったとすると、最短時間で津波が到達すれば、1 次避難場所へ移動している時に校庭で津波にのまれることになる。これまで高台への避難を行うのは、津波警報または、津波注意報が出た時だけであった。この場合、机の下の避難が1 , 2 分、その後校庭に集合して津波警報( 注意報) を確認するまで5 分、そこから宇津野高台へ小走りに移動して少なくとも1 0 分の時間が必要である。津波までの時間が短ければ、高台避難はたいへんなリスクをおかすことになる。

 しかし一方で、屋上への避難はその後の避難へつなげる可能性が低くなり、海の中に孤立して水がひくまで耐えなくてはならない状況も考えられ、児童の負担が大きく、危険であるとの主張もなされた。この検討は、この先ゆきどまりとなった。最短時間で津波が来たときには、たいへん危険な状況であるが、その時々で、屋上か、高台かは校長が判断することになった。そして、一連の議論について専門家に相談をし、助言をいただくことにした。

 この話し合いは、最終的に避難経路を選択する形として議論を終えたが、その間に話し合いの中から、様々な避難の時の留意点や役割分担が具体的に決まっていった。高台へ逃げるためには、津波の情報を常に聞き取れる環境が大切である。

 そこで、逃げるときには必ず「手回し発電機付きのラジオ」をもつことを決めた。また、教務主任は教育計画の入ったU S B と児童の連絡先が記入された児童名簿を、養護教諭は救急セットと防寒具を持ち出すこと。さらに、避難した経験から「津波の避難は何も持たない」という原則を、「冬の避難には防寒着」という内容にすることで意志統一をした。

東日本大震災の発生から高台への避難

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 3 月1 1 日( 金) 1 4 時4 6 分、地震が発生。これまでに経験がない揺れで緊急放送は停電のため使用不能、防火扉が閉じ、火災報知器がなり出す。5 分程度で揺れがおさまる。揺れの大きさから教頭と宇津野高台への避難をすぐに決定。肉声により校庭への避難を指示した。保育所避難路の確保を終え、高台への避難時間短縮のため一次避難を省略。玄関前で点呼してすぐに避難することを決定。高架水槽水漏れの報告あるも、そのまま放置。決定事項どおり、教務主任が児童名簿とUSB を、教頭はスイッチを入れたラジオを、養護教諭は、救急セット、ふとん、毛布を、担任は防寒着を児童に持たせて避難した。教室から避難した児童と、既に放課され、校庭に残っていた1 , 2 年生も含め9 1 名が玄関前で点呼。( この日在籍1 0 7 名、欠席5 年1 名、早引き5 年1 名) その間、教務主任は国道3 9 8 号を横断する箇所に、避難児童の交通整理のため走って移動。点呼中にラジオにて、大津波警報( 6 m ) の発令を確認。点呼後、すぐに高台への避難を開始した。保育所も屋上避難をやめ高台への移動を開始していた。3 時少し前であった。1 5 時頃。高台で点呼。学校にいた9 1 名全員が避難完了する。

 小学校の他、戸倉保育所の園児、折立地区からの避難者が続々と集まり、高台は乗用車もいっぱいになった。ラジオで、津波の第1 波は女川に3 時1 0 分に到着するとの情報が流れた。この時、初任研担当非常勤講師から、年休中の夫のため帰宅したいとの申し出を受ける。大津波警報を理由に止めたが、引きとめることができなかった。そして、これが最後の別れとなった。不明の児童は、欠席と早引きの2 人を除いて1 4 名、そのうち7 名は学校近くのそろばん塾に出かけた2 年生で、あと7 名は下校した児童である。このうち、そろばん塾の7 人は、後刻メールで無事に戸倉中にいることを確認した。消防団からヘルメットと拡声器が校長に渡され、ここからは全体への指示を校長が出すように依頼される。1 5 時1 0 分を少し過ぎてから「女川に潮位の変化があった。大津波に警戒するように」とのラジオ放送があり、大津波警報が1 0 m 以上に変更となる。防災無線も高台への避難を呼びかけ、その後大きな潮位の変化を観察したとの放送があった。そのうち、遠くに見えていた波が大きくになったかと思うと、海岸に設置されている防波堤が倒されたようにみえた。

 15時30 分ごろ、ばりばりばりと耳をつんざく重機のような音があがり、折立の住宅地が壁のような波に押しつぶされ煙をあげながら破壊されていくのが見えた。

スクリーンショット(2014-07-26 21.52.00) 宇津野高台五十鈴神社津波にのまれる戸倉小宇津野高台から撮影3. 1 1 .1 5 : 30 (阿部一郎氏提供)

 「みんな、上に上りなさい」と高台からさらに上に続く小道を拡声器で指示した。2日前の津波注意報の避難時に寒さよけのために確認した五十鈴神社に続く道である。保育所から順に、小学生、大人と神社にかけあがる。高齢者は、大人が手をかしたり、背負ったりして上った。ばりばりという大きな音が、階段の後ろから追ってくるように聞こえてくる。ふりかえると、宇津野高台に水のかたまりが押し寄せて乗用車や二階建てのアパートが流れて消えていった。

 周囲は水に囲まれ、五十鈴神社は島のように孤立した。神社前で点呼、91名全員を確認。あとから判明したことであるが不明であった児童7名も、3名は荒町に帰宅、4 名は高台までの避難を行っていた。しかしその中の女子1名は、安全と思って避難した高台で津波に襲われ命を落としている。津波が引き始めて、宇津野高台が再度姿を現したのは、1 6 時2 5 分頃であった。この時、津波は繰り返し押し寄せ、より高い波がやってくる可能性も高いことから、五十鈴神社よりも高い場所に避難すべきではないかとの提案があった。しかし、移動は一度高台から降りなくてはならず、どこをめざすかもわからない。周囲を歩き状況収集にあたったが、病人やけが人、妊婦、保育所児童等の移動は余震と繰り返す津波の危険性を考えると難しいと思われた。また、火をたきながら1 5 0 人が夜を明かせる場所があるかも疑問である。そこで神社境内にとどまる決断をした。数名はより高い場所への移動を希望したので、自主的な選択を尊重し移動する事も了承した。( 移動した数名は後刻また高台へもどり合流した。)

 五十鈴神社の夜

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 宇津野高台は指定避難場所ではあったものの、備蓄されているものは一切なく、五十鈴神社で利用できそうなものは、ろうそくだけであった。雪が舞い、寒さが厳しくなる。地域の方と協力して境内でたき火を始めた。間隔をとりながら、神社境内に5 つ、神社から階段を下がった鳥居の前に1 つ、水が引いた宇津野高台の海を見晴らす場所とそこから少し離れた場所に1 つずつ、計8 つのたき火がつけられた。高台のたき火には、男の人たちそれ以後ずっと海の見張りに立った。また、周囲の家から使えるふとんやマットレス、毛布を運び、子どもたちやけが人に配布した。夜が近づいていた。野外で夜をこすことは低学年には困難である。しかし、五十鈴神社の社殿は地震で瓦が偏り、大きな余震があるたびに危険性を感じていた。そのため児童には近寄らないように指示していたが、寒さの中の避難がいつまで続くかわからないため、4 年生までの担任と児童、妊娠中の教員を社殿に入れることにした。5 , 6 年生は、それぞれ1 つのたき火を囲んで暖をとることにした。その晩、男の人たちは薪拾いをしたり、周囲の家から食料や飲み物などを運んでくれた。教職員も担任以外の男性職員は、薪拾いに従事した。

 飲食物については、これからどのようになるかわからないので、子どもたちのために学校で管理してほしいと提案された。大人の行動はとても統率がとれており、区長さんや年長者が中心となって指示を出し、働き盛りのお父さんたちが動いている。振り返れば、避難してから全ての人たちが、自分のできることをさがして協力しており、担任の教師は安心して児童のケアに集中することができた。避難してきた方々がリーダーを中心にまとまった行動ができるのは、地域の力である。日常の地域力が非常時には大きな力を発揮するのだとつくづく感じる。

 この日の夜は、長い夜になった。ラジオは、仙台市荒浜や仙台新港、仙台空港の被害を伝え、それが尋常でないことを知らせてくれた。また、度重なる余震や暗闇の中を間近に迫る津波、木が折れる音などが、子どもたちの恐怖をより深くした。担任は、そんな児童のようすをみて「9 時からキャンプファイヤーだ」と語りかけて、卒業式の歌を合唱したり、雪の合間に広がる空で星座の観察会をしたり、みんなでかたまってチョコレートを食べたりながら、児童を励ました。子どもたちの中からも、お互いに励ましたり、楽しい話を出したりと、支え合おうという動きがあった。社殿の中の低中学年は、親と離れてすごす夜の不安から涙を流す児童もいたが、担任や友達と話をしながら、パニックに陥ることもなく夜をすごすことができた。

 夜中の2 時過ぎに燃やすものがなくなってきた時、男の人たちが津波で流された高台のアパートの土台から角材をはずして運んできた。このおかげでたき火は朝まで燃え続けた。未明頃からは、学区山の手の荒町から山越えをしてやってくる保護者が増えた。この人たちからの情報で、荒町は無事で食料の炊き出しをしている事、そこから4 5 号線を下った西戸地区は壊滅状態であり、多くのがれきで歩くことが困難であることがわかった。7 戸倉中学校へ3 月1 2 日。朝になると、荒町から暖かいおにぎりの差し入れがあった。夜通し飯を炊き、おにぎりを背負って運んでくれたのである。半分ずつ食べた暖かいおにぎりは、朝の光とともに、元気と笑顔を思い出させてくれた。

 この後、食料は3 回ほど届けられた。子どもたちの2 日目の野宿は避けたいと考え、避難先として下記の3 つを考えた。

① 「指定避難場所の戸倉中学校」全員がゆったりと建物の中に避難でき、自衛隊の支援が受けられるが、津波警報の中を高台から下りて1 5 ~ 2 0 分歩かねばならない。被害状況もつかめていない。

② 「津波被害のない荒町地区のセンター」荒町地区のセンターは、陸づたいに登米市への道路が生きており、物資の受け取りや医療面が保証される。また、海から遠ざかり津波の危険はほとんど0 となる。しかし、やはり津波警報発令の中で高台からおりて、1 時間以上歩かねばならず、がれきの中、低学年や高齢者、けが人などの移動は困難である。

③ 「高台で被災した家屋の2 階」高台に残っている建物の2 階は持ち主の許可を得ることができ、移動しなくてもすむ。

 しかし、1 階部分が津波被害に遭っており、また津波に襲われる可能性を否定できない。何人か荒町からやってきた大人の人たちからの情報を総合すると、病気やけがの方々や幼児をつれて、荒町地区へ避難することは不可能であると考えた。また、戸倉中学校の様子がわからないので、昼まで宇津野高台へとどまり、その間、教頭に避難経路の状況も確認しながら、中学校の状況確認と合流の可否について相談してきてもらうことにした。

 一方で、高台は児童を迎えに来る保護者が増え始めた。ほとんどが、荒町地区など、家が安全であったり、残った家庭や安全な親戚の家に連れて行きたいという申し出であった。また、数名服薬が必要な児童がいたが、その子どもたちも、保護者が迎えに来た。教務主任に帰路の通り道を確認し、帰宅する場所を記録して帰宅させる手順をとった。記録は、ランドセルを背負って逃げた1 年生の連絡帳を借りて行った。また、境内には、酸素ボンベを使用している高齢者もおり、残量がなくなりつつあって早めに医療機関に連れて行かねばならなかった。

 また、津波の際あばらにけがをした女性も避難しており、シートで周りを囲み、養護教諭が胴部を新聞紙とガムテープで固定していた。寒さを訴えており低体温症になっていることが危惧された。児童にとってもやはり野外は寒かった。なんとか暖をとれないかと考えていると石油ストーブと石油が見つかった。津波の危険性もあるが、2 件の民家の二階を借りてストーブで暖め、けが人と子どもたち、高齢者、病人を休めることにした。一度高台に下りるので、海を見張る人をおいての移動となった。この移動中に、高台の見張りから、「大波がくるぞ、逃げろー」と声がかかった。とっさに「もどれーっ」と拡声器で声をかけ、全員があわてて神社の境内へもどった。

 しかし、実際には津波はこなかった。海の状況把握の難しさを実感させられた。再度建物への移動を行い、みんなが二階へ移動できた。けがをしている女性は暖かい部屋のベッドで休ませることができた。児童が建物に入ったころ、教頭がもどってきた。戸倉中の一階が被災、中学生1 名、教員1 名が命を落としたことが判明する。志津川公民館長と戸倉中校長、町の職員が避難の中心となっており、消防団も自衛隊も合流しているとのことであった。そして津波警報の中での移動は原則許可できないが、移動するなら、消防団が先導をしてくださるとのことだった。けが人や病人の対応が急がれることから、戸倉中学校への移動を決定した。

 1 3 時1 0 分、けが人や病人、高齢者には援助者がつきながら、迎えに来てくださった消防団の方といっしょに戸倉中学校へと向かう。( 重傷者は戸板で搬送) 道にはがれきが積み重なり、傍らには流された乗用車が何台もつぶれていた。子どもたちの視線がいかぬように、なるべく何もないところを通るようにする。最後尾が学校に着くまでには3 0 分程度かかったように思われる。ここで、けが人と病人数名は、ヘリコプターで搬送されていった。

 中学校に避難していた方々と合流し、小学校避難者は、二階のパソコンルームを使用することになった。しかし、当初の避難場所宇津野高台には、これからも子どもたちを心配して探しにくる人が訪れることが考えられた。書き置きもできない場所であるため、教頭と地域の方数名を配置し、もう一晩、火をたきながら過ごしてもらうことにした。指定避難所、宇津野高台の場所を知らせるためである。子どもたちは登米市から運ばれたコンビニ弁当の夕食を食べて、屋根のある場所で眠ることができた。

 しかし、妊娠している女性教員の体調は思わしくなく、2 晩めになる寒さが心配であった。8 登米市への移動3 月1 3 日。早朝から、地域の方々により戸倉中学校敷地内のご遺体を体育館へ運ぶ作業が行われていた。戸倉小学校の男子職員も、朝に高台からもどってきた教頭も含めて全員で作業を手伝う。津波の威力のすさまじさを改めて痛感する。午前8 時3 0 分。前日に、登米市と連絡をつけていただいた町職員の方から、登米市から荒町に救援のバスが着き、登米中学校へ避難させていただく手はずが整ったことをきく。荒町までは登米市の消防団が危険のないように道沿いに配置されるということで、1 0 時に徒歩で荒町へ向かうことになる。

 午前9 時、比較的大きな余震が8 時台に発生し津波注意報が出ていた。津波の危険がある場所を通ることから出発を遅らせ、1 1 時を出発時刻とする。模造紙やポスターの裏に、登米中学校へ移動する児童の名前を一覧表にして書いて3 枚作り、1 枚を戸倉中学校の壁に掲示しておいていくことにした。学区で一番遠い地区、寺浜地区は、津波で残った家屋が多かったことから、地区の集会所を避難所として、地区の復旧作業を行っていた。しかし、海にも近く危険も考えられることから、登米の安全な場所に避難するなら児童を預かってほしいとの要望があった。

 登米市は食料の不安も少ないことや、学校も当分は避難所運営するしかないと考えていたため了承して、子どもたちを預かることにする。また、教職員もこれまで家族との連絡がとれず、心配をしている者も多かった。登米市へと移動すれば、南三陸の状況を知るのが難しくなると考え、南三陸町に住み、徒歩で帰宅可能な職員を移動の途中で自宅に向かわせることにした。そして、帰ってこれない場合には、地元で避難所の仕事を行うように話した。このことで、女性職員4 名が南三陸町へ向かうことになる。さらに、仙台から乗用車で県の義務教育課職員が来訪したため、妊娠しており体調のすぐれない教員を仙台の実家へ送り届けるように依頼し、仙台へ帰した。午前1 0 時4 5 分。小学校を先頭に、登米市の消防団の方の誘導で、荒町まで徒歩で移動する。途中がれきの山や、折立川などを越えなくてはいけなかったが、要所要所に登米市の方が配置され、地域の方とも協力して橋をかけたり、危険ながれきをよけたりして、通路を確保してくださった。その徹底した安全確保は組織だってすばらしいもので、登米市の力を感じさせられた。途中からは危険性が少ない気仙沼線の線路跡をとおって、荒町のセンター( 集会所)に到着した。センター内にも移動する児童の氏名一覧表を掲示した。

 午前1 2 時、荒町センター前には、宮城交通のバスが待っており、そのバスで登米中学校まで移動した。午前1 2 時3 0 分、登米中学校に到着。この時学校と行動を共にしていた児童は3 3 名。ただし、家族も一緒に避難していた児童もいた。登米中学校ではたくさんの寝具や衣類も集められており、やっと避難所として機能する場所に到着したと感じた。この日から、寝具で休めるようになった。

 3 月1 4 日。帰宅していった教職員3 名が戻ってくる。被害は甚大であったが、なんとか工夫して山越えをしてもどってくれたことに、心から感謝する。この後、日を追うごとに子どもたちは、迎えに来た保護者に次々と引き取られていった。寺浜の児童は、最後まで残されていたが、精神的にも疲れ、体調をくずす子も少なくなかった。そこで保護者が引き取りにきて、児童全員の引き渡しが3 月1 6 日に終了した。この日は、登米中学校での避難所の再編も行われ、戸倉小学校と戸倉中学校は、登米中学校の図書室で学校の運営を再開していくことになる。行方がわからなかった7 名の児童のうち6 人まで安全を確認したが、児童1 名と非常勤講師の行方は、この日になってもつかめなかった。学校では交代で遺体の捜索や遺体安置所での確認作業、捜索願の提出なども行った。

 しかし、なかなか見つけることはできなかった。9 児童引き渡しまでの避難を振り返ってこの後、本校は「学校拠点の確立」「児童の安否確認と心のケア」「職員の生活基盤の確立」を3 本の柱として、復旧へ向けての活動を開始し、5 月の学校再開に向けて、児童の心のケアを経営の中心に据えた、学校運営方針の全面的な見直しとその具体策の設定。学校再開にかかる物品の確保に向けた、県、町との連携と民間の力の活用、ホームページによる情報発信による支援団体との関係構築などに着手していくことになる。児童引き渡しの完了までの避難について現段階において、検討した事項については以下の通りである。

1 ) 避難マニュアルの作成は完全をめざしながら、常に多面的に検証し、評価を加えなくてはならないが、その運用については、「完全に安全なこと」はないとの認識で、選択肢を考えたり、判断場面を設定するなど柔軟に運用できるものが必要である。

2 ) 避難訓練などで常に避難マニュアルを検証し議論していくことで、一つ一つの具体的な対応について考えをもつことができたことが、今回の震災避難に生きた。

3 ) 日常的に何でも話ができる職員集団であったことが、マニュアルの検証にも具体的な避難の判断においても、大きな力を発揮した。

4 ) 日頃から地域全体がリーダーを中心によくまとまり、避難や捜索についての意志決定、安全対策などを自立して行っていただいたことで、学校は子どもたちのケアを中心とした活動に専念できた。

5 ) 日頃から地域の方々と協働で教育を進める活動を続けてきたことで、地域のリーダーと学校の関係が深く、このことが避難活動の意志決定や学校と地域の連携活動をスムーズに行う面で、たいへん大きな力となった。

6 ) 日頃の避難訓練や津波についての学習により、児童は一人でも高台への避難を行うことができた。しかし、避難指定された高台に上れば安全であるとの過度の認識があったので、そこから先に避難する場合がある事も指導しておく必要がある。

7 ) 津波警報の中、絶対に帰宅や下校はさせてはならない。

8 ) 避難のそれぞれの場面において、せまられる判断はベストの判断をしようとすると決断できない。情報の収集から、短時間でベターの選択をすることが望まれると思う。

9)津波の避難においては、必ず海が見える場所の確保と海の状況の監視が必要である。

1 0 ) 携帯電話などが使えない状況下での、移動する避難については、情報を伝えるために書き置きする道具が必要である。

1 1 ) 学校の中に地域をよく知る教職員が必要である。今回、地域の保護者で誰と誰が仲良しで、連絡が取れないときには誰に連絡すればよいか等、地域素材だけではなく、人と人との関わりなども、よく理解している教職員がいたおかげで、安否確認などの作業がスムーズに進んだ。経験年数が少なくとも、できる範囲で地域に溶け込み、地域理解を進めることが大切である。

1 2 ) 津波避難の際には、発電機付きのラジオ( できれば携帯電話の充電できるもの)、重要な文書ファイルのバックアップUSB、児童の連絡先名簿、救急箱、携帯電話、防寒具( 冬) など必要と思われる物を検討しておくことが必要

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