荒川沖村の巻

■荒川沖村の巻

 市の南西端に位置し、東は阿見町に南は牛久市に接している。南部は乙戸川が南東に流れている。荒川の地名の初見は元徳元年(一三二九)十一月の東寺百合文書の中に、「常陸国信太上条内五ケ郷大村・吉原・福田・竹岡・荒川」とあり、鎌倉時代にすでに存在したことがわかる。もちろんこの荒川郷は今の荒川本郷・荒川沖村・実穀村等を含んでいる地域である。188

 さてこの荒川の地名であるが、乙戸川から起こったものと思われる。今でこそ乙戸沼という水源は小さくなってしささぎまったが、地形からみると昔はおそらく倉掛・大角豆・館野の間を占める一大湿地帯で、豊富な水量を持っていたものと考えられ、従って乙戸川も関東河川特有の荒川の性格をもっており、これが地名になったものと推論することは無理であろうか。

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 さてこの村はもと「沖村」とよばれていて、荒川沖村となったのは江戸時代も終わりごろである。普通「荒川宿」の名でよばれていた。元禄二年(一六八九)三月の「野境証文之事」(酒井和男氏蔵)の文面にも沖村・荒川村・拾石(実穀)三ケ村となっている。沖というのは木田余沖とか、高岡沖とか真鍋の森沖と同じように旧村から離れた新しい村を意味している。沖村の場合荒川本郷が旧村で、慶長九年(一六〇四)水戸街道の開通にともなって、宿場を形成するために街道筋に移住させられてできた村で、西根から分れた中村宿や古屋敷から移った中貫宿と同じである。

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 地形上からみるとこの村は、乙戸川流域の細長い低除いて低い台地をなしており、宇塚下にみられるよう珊約文遺跡もみられ、早く開けたことがわかる。

 大化の制、この地域は常陸国信太郡高来郷に入っており、かつち河内郡界に接していた。荘園時代は前記のように信太庄に属していた。従って皇室領であったが文保二年二三一 とー(ノ‥し八)後宇多上皇これを東寺二兄都市)に寄進したので皇室領から寺領に変った。しかしこのため信太庄に関する多くの文献が東寺に保存されていることは幸いで、前記のとおり東寺百合文書の中に荒川郷の名が見えている。またこの鎌倉時代を物語るものとして、鎌倉街道が西根からこの村に入り、原の前から土浦三中の真に抜け六丁目の常磐線踏切から住吉の公民館あたりを通り九丁目の住宅地から荒川沖小学校裏を通って本郷方面に向ったものと推定される。

 鎌倉時代から室町時代にかけてのこの地域の実権者(名儀は皇室領から東寺領であるが)はどのように変遷したかは、ここで詳述することはできないが、小田氏はあるときは関東管領上杉氏の勢力下にあった。特に戦国時代にはこの地域は小田氏の幕下岡見氏の支配下にあった。

 岡見氏は小田氏の支流(異説あり)でその被官となり、牛久・谷田部・足高(あだか)を拠点としていたが、下妻の多賀谷氏に滅ぼされている。その後牛久城は由良氏が入ったがこの地方がその所領五千石の中に入っていたかどうかわからない。この由良氏のあと牛久藩主になったのが山口氏である。山口氏は有名な守護大名大内義弘の流れで、その玄孫にあたる盛事がその祖先の地山口を名のったわけである。この盛幸の曾孫が重政で慶長六年(一六〇こ上総領五千石に加え牛久五千石を与えられ、はじめて山口氏と牛久との関係が生じたが大久保忠隣事件に連座(重政の長子重信幕府の許可なく忠隣の養女を妻とした)して所領没収、その後軍水六年〈−六二九)十五年ぶりで召し返され遠江・牛久で一万五千石を給せられた。子弘隆は寛文九年(一六六九)現在の牛久市城中の地にはじめて陣屋を設けた。このとき弟重恒に五千石を与え一万十七石となった。このとき荒川沖村がその所領三十一ケ村の中に入った。そして子孫相つぎ弘達のとき明治維新となった。村高は二百八石である。従って当村は乙戸村や沖新田村・菅谷村と同じように土浦市域内で土屋領でなかった村である。

 さて荒川沖村(沖村)は前述のとおり、水戸街道が慶長九年に開通したとき、荒川本郷から移住した有力農民七戸が街道添いに宿場を形成したのが村の起こりで、いわゆる荒川沖宿で水戸街道二十宿の一つである。この荒川宿は牛久や中村宿とちがって人馬の継立だけの宿場で、本陣はなく継立業務に当る問屋(名主兼帯の川村家)、それに役人宿が一軒、おきな屋・松屋・二六屋・佐野屋・鶴屋などのあもと旅龍があった。本陣がなかったので遊郭も発達し「於か本」もその一つである。

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今に残る荒川沖の「佐野屋」

 このうち佐野屋は今なお昔のままに残されており、水戸街道では稲吉宿の皆川屋(県指定文化財)とともに貴重な存在である。特に茅茸で二階建て部屋割に昔のままになっていることは喜ばしい限りである。

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 さてこの荒川沖宿は牛久宿と共同して人馬の継立てをすあい‖しゆくるいわゆる合宿で、牛久宿は若柴宿まで上り一里と、中村宿まで下り三里の両継を行い、荒川沖宿は牛久宿まで上り二里の片継ぎであった。従って人馬の数も少なく(牛久宿馬五十匹、荒川沖宿は十五匹となっている)、常備の人馬の不足を補う助郷も少い。

 すなわち牛久宿の天宝喜村等七ケ村に対し、荒川沖宿は岡見・中根・本郷の三ケ村にすぎない。もっとも後に交通量の増大にともなって、十六ケ村の新規助郷が加わった。

 水戸街道についてはすでに解説したように、東海道などの五街道につぐ重要な道路で、水戸道中とも言われ佐倉道中とともに七街道の称もある。慶長七年佐竹氏秋田に転封にともなって、水戸を東北の外様に対抗する拠点として家康がその第五子武田信書を封じたときに計画されたもので、有名な大久保十兵衛長安を奉行に任じ、幕府の直轄で開いたものである。道幅三間(約五・四メートル)の脇街道である。しかし、前記の佐倉道中とともに、五街道なみに幕府の道中奉行の管理下にあった。原則として宿駅には人足二十五人、馬十匹(長嶋尉信おだまきによる)が常備されていた。千住から水戸まで二十九里十九町(約百十六粁)その間一里毎に一里塚を設けた。(日本橋・千住間は日光192街道と共道)一里塚は五間四方で頂に榎を植えるのが普通であなかった。この制は織田信長がはじめ、秀吉もこれにならい家康もこれを踏襲したものである。旅人に旅の里程の目安としたばかりでなく、人や荷物の運賃計算の便宜のためもあった。

 

 荒川沖と牛久市の境のところに、一里塚が残っている。しかも両側に保存されているのは珍しい。ちょうど日本橋から十六番目の一里塚で、かなり削られている。前述の中村の原の前の一里塚より江戸方面からみて手前の一里塚である。宝暦八年(一七五人)土浦藩主土屋篤直筆の「土浦道中絵図」を見ると、中村宿や牛久宿の間にも見事な松並木があったようであるが、今日ではまったくなくなってしまった。

 寺では寛永の初めごろ建立されたと伝えられる智福院というのがあったが、廃寺になってしまって、今、境内にはこのはなさくやひめのみこと姫宮神社がある。祭神は木花開耶姫命で安産の神として信仰されている。寛永二十年ごろ(一六四三)の創建といわれているので、ほとんど智福院と同じ頃で神仏混清時代を物語っており、かつ、水戸街道の宿場の盛り場であったと想像される。また、天神様もこの宿場では古く、現在の社殿は江戸中期以前の建築とされ、土浦市内の建造物として小泉模ながら注目されている。荒川宿の氏神様で、ここでは学問の神というよりも雨を降らせる農神としての意味あま「}いいしが強いようで、境内には「雨乞石」が今でも残っており、日照が長くとこの石を村の若者が乙戸川まで持って行き、州に入れると一週間以内に必ず雨が降るといわれている。一帯(ポ撃と同じものである。

 稲荷さまも二社が近くに祀られているのも珍しい。稲荷は農業の神さまであるばかりでなく商業や屋敷の神として、また、火災よけや病気よけの神として武士や商人にも信仰うかのみたまされ、最も庶民的な大衆的な神である。祭神は宇迦之御魂のかみ神である。

 明治維新後明治二年(一八六九)版籍奉還により牛久藩は廃止となり、藩主山口弘達が牛久知藩として旧領を支配していたが、明治三年十月土浦藩に編入された。翌四年廃藩置県が行われ、当村は土浦県に属し、つづいて同年のうちに新治県に入り第一大区二小区となり、明治八年新治県が茨城県に統合されると茨城県第十大区二小区となった。明治十一年郡区町村編成法の公布により、翌年信太郡荒川沖村となった。明治二十一年市町村制の公布に伴い、明治十七年以来連合していた本郷・実穀・小池・上長(かみなが)・福田・吉原・沖新田各村と合併して明治二十二年朝日村が誕生した。ここで朝日村の大字荒川沖となった。しかし、小学校の統合敷地の問題で荒川沖は朝日村から分離し、土浦市に合併し今日におよんでいる。昭和二十三年のことである。

 さて、この荒川沖宿も明治五年(一八七二)水戸街道は陸前浜街道と改称され、参勤交代はなくなったが相変らず宿場の機能は失わなかった。明治二十九年の常磐線の開通は、荒川沖に画期的な発展の端緒となった。荒川沖駅が設置され水戸街道と駅を結ぶ道路も開通し、明治三十五年には高木新作・小口音次郎らによって、合資会社岡谷館製糸所が創始され、四十年二月には駅前およそ五万九千四百平方メートルの敷地を擁する株式会社岡谷館製糸荒川沖工場となった。これも常磐線による原料商および、製品の輸送に便があったからである。当時、繭は換金産業として養蚕業が盛んに行われていたからである。一時女工千人を数えたこの製糸所も、昭和四年の世界的不況のため生糸価格のや暴落を来し、間もなく閉鎖の巳(や)むなきに至った。現在ではわずかに当時使用した井戸が残っているに過ぎない。荒川沖の発展にも一つのエポックを画するものは大正十年になって、阿見原に霞ケ浦航空隊が設置されたことであろう。すなわち駅から鉄道引込線も敷かれ、道路の新設とともに荒川沖の駅東地区の発展の基礎ができた。右籾地区の海軍航空廠(しょう)の開設により荒川沖駅は軍事貨物の輸送上重要拠点となった。しかし、終戦とともに一時打撃を被ったが六号国道の開通や常磐線の電化により、荒川沖は再び脚光をあびることとなった。すなわち、首都のベッドタウンとして急激な変貌を遂げつつある。

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 科学万博の開催を機会に、荒川沖駅の橋上化が実現し駅東開発を促すこととなった。この地域は昭和十四年まで荒川沖競馬場のあったところであった。いわゆる草競馬で春の二回行われ、なかなか賑わったものであった。

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 戦争で農馬も徴発を受け少くなり、取手の競馬場に合併され廃止となったわけである。この跡地は一時農場となったが、県営や市営の住宅も設けられ、しだいに市街化していた。そこに駅東開発の核として大手スーパー(長崎屋)の出現により俄(にわ)かに活況を呈するようになり、文字通り土浦の南の玄関口として、北の玄関である神立とその発展を競っている。

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荒川沖宿の絵図