■著者
得月院誌
鈴木 光夫著
稲荷山得月院
図書
199100
■由良氏系譜
▶貞氏
新田蔵人義兼より三代又太郎政義、はじめて由良と号し、政義より四代左中将義貞が四男を新六郎貞氏とし、義貞討死のとき、貞氏六歳にして身を隠し、相模国藤沢の清浄光寺六の寮の弟子となり、のち還俗して家臣横瀬近江守時清が婿となり、その家を継ぎ横瀬と称し、成繁がとき由良に復すという。
良阿弥、新六郎(六郎)。
応永二十三年上杉入道禅秀叛逆のとき、足利持氏に属して軍功あり。ここにおいて足利義持より上野国新田の圧にして釆地を宛行わる。某年死す。法名良道。同国大田郷の金竜寺に葬る。のち、この寺を常陸国牛久に移す。
▶貞治
新六郎、信濃守、(貞俊)。
岩松家に仕う。文安二年十月朔日卒す。法名葺新田庄今泉郷の曹源寺に葬る。
▶貞国
新六郎、信濃守、剃髪して良順と号す。
某年死す。法名良順 新田庄の縁応寺に葬る。
▶国繁
新六郎、雅楽介、信濃守、剃髪して宗悦と号す。
新田治部大輔家純に仕え、命により上野国金山城を築いてこれを守り、勲功すくなからず。某年卒す。法名宗悦。金山の遠渓寺に葬る。
某 僧となり、金竜和尚と称す。
▶景繁
新六郎、雅楽介、信濃守、(業繁)。
永正八年八月八日卒。法名宗忠。新田庄飯田郷の霊雲寺に葬る。
▶国経
新六郎、雅楽介、信濃守。
永正十一年洛に上り、足利義稙(あしかが よしたね)に謁し、のち武蔵国須賀合戦のとき討死す。法名宗功。新田庄村田郷の白毫寺に葬る。
▶泰繁
新六郎、雅発頭、(雅楽介のち信濃守)。
父討死のとき泰繁も創(傷)をこうぶり、被官人等も創を受け、あるいは討死するもの多し。このとき足利義晴より感状を与えられる。新田治部少輔昌純がとき権威を専らにす。昌純これをにくみ虜(とりこ・生け捕った敵)にせんとするのよし聞えければ、彼居城新田庄金山におし寄せて放火し、昌純ついに火中に死す。のち和議をはかるものあるにより、その男治部大輔氏純と和親し、いよいよ勢いを得て、男成繁をして金山の三の丸に・移らしむ。天文十四年九月九日下野国壬生の戦に討死す。年四十九。法名宗虎。新田庄江田郷の竜得寺に葬る。
▶成繁
熊寿丸、六郎(新六郎)、雅楽介、刑部大輔、信濃守。
足利義輝より書を賜わりて、横瀬を改め由良を称す。のち上杉輝虎、佐竹義重等、羽生・黒川・沼田に出張して、北条氏政と合戦のとき、成繁かたく城を守る。これによりて輝虎氏をひいて帰る。このとき成繁敵三百余人をうちとる。氏政このよしを足利義氏につげければ、感状授く。また、輝虎と赤埴合戦のとき、成繁父子軍功あり。義輝、三好等がために殺せらるるのとき、足利義昭より軍忠を尽すべきのむね書を賜う。天正六年六月晦日卒す。年七十三。法名宗得。上野国桐生の鳳仙寺に葬る。
▶国繁
国寿丸、六郎(新六郎)式部大輔、信濃守、母は赤井刑部少輔幸家が女。
天正二年四月上杉輝虎、桐生金山に兵をいだすのとき、国繁所々の城を堅く守って防ぎ戦うが故に、輝虎兵を引いて退く。このとき北条氏政より感状を受く。同十八年小田原城にこもり、没落ののち豊臣秀吉より常陸軍久において五千四百石余の釆地(さいち・領地)を宛行われ(割りふる)、その朱印を国繁が母に授く。これさきに国繁、氏政にはかられ擒(とりこ・人質)となりしこのとき、母よく家臣等をいて金山城を守るによりてなり。徳川家康・秀忠に仕えたてまつり、御内書を賜う。慶長五ケ原陣のとき、供奉せんことを乞うといえども、仰によりて江戸にとどまる。凱陣ののち、下総国相馬郡のうちにおいて新恩千六百石余を賜り、すべて七千石余を知行す。同十六年一月三日牛久において死す。年六十二。法名良太。常陸国筑波郡足高郷の瑞源寺に葬る。妻は結城左衛門督晴朝が養女。
▶顕長
新五郎、但馬守、長尾修理亮某が婿となり、その家を継ぐ。
▶貞繁
新六郎、出羽守、信濃守、従五位下、母は晴朝が養女。
天正十八年徳川家康関東に移るとき、召されて近侍(きんじ・おそば近くつかえること)し、下総国海上郡のうちにおいて釆地(さいち・領地)三千石を賜う。慶長五年関ケ原の役に永井右近大夫直勝に属してしたがい、凱旋ののち近江国蒲生郡のうちにおいて二千石を加えらる。同七年五月仰を受けたまわりて、松平周防(すおう・山口県)守康重等とともに、水戸城を守衛す。同年十二月加恩(かおん・恩恵を与えること)ありし釆地の御黒印を下さる。同十年九月十五目より伏見城を守り、のち父が遺跡を継ぎ、さきの釆地はおさめられる。そののち釆地に行くのを暇を賜り、また端午、重陽、歳暮の嘉儀(かぎ・めでたい儀式)に時服(じふく・ 毎年春と秋または夏と冬の2季に、朝廷や将軍などから諸臣に賜った衣服)を献じ、御内書(ごないしょ・将軍家から出される文書)を賜う。同十九年大坂の役には土井大炊功利勝に属して底従し、元和元年の役にも利勝に属し、同年五月七品野口において合戦し、創(切り傷)をこうぶる。このとき家臣等敵を討とり、あるいは討死し、あるいは創をこうぶる。同七年三月二十三日牛久において死す。年四十八。法名良印、若芝の金竜寺に葬る。男貞長いまだ拝謁(はいえつ・君主など身分の高い人に会う事)せざるにより、釆地をおさめられる。妻は近藤右見守秀用が女。
▶貞長
市兵衛、足高を称す。兄貞繋が養子。
女子 長尾修理亮宣景が妻。女子秋田城之助家臣秋田長兵衛李成が妻。
女子 実ほ横瀬掃部介成高が女。国繁に養われて益田伊勢守繁俊に嫁(か・嫁ぐ)す。
▶貞長
五郎八、新六郎、市兵衛、(長警た急繁)。実は国繋が二男、母は某氏、貞繁男ありといえども死するにより、嗣(し・家のあとつぎ)となる。
元和九年、さきに貞繋死し、貞長いまだ拝謁せぎるにより、釆地をおさめらるといえども、旧家をおぼしめされ、牛久領のうちにおいて釆地千石を賜り、貞繋が家跡(いえあと・やしき跡)を継がしめらる。時に十五歳。のち大沢右京亮基重が務に准じて近侍(きんじ・おそば近くつかえること)す。 そののち務を辞し、釆地に居す。寛永十一年徳川家光洛(らく・京都)にのぼるとき、御書院番に列して供奉(ぐぶ・おともの行列に加わること)す。後番を辞し、同十六年二月十五日死す。年三十一。法名良玄。 二本榎の国昌寺に葬る。妻は近藤縫殿助用可が女。
▶貞俊
庄九郎、父が先だちて死す。
▶貞房
天麻呂、新六郎、信濃守、侍従、従五位下、(親崇)。母は用可が 女。
寛永十一年(1634)はじめて将軍家光に拝謁す。時に九歳。同十六年七月二十三日遺跡を継ぎ、同二十年⊥ハ月十六日御書院の番士(当番の兵士)となり、万治二年一月十三日仰を 受けて所々の土居(水害対策の堤)修復の奉行をつとむ。寛文元年(1660)九月三日内裏造営のことをうけて京師におもむく。のち禁裏(御所)より歌仙の手鑑、縮緬十巻を賜り、仙洞(天皇(上皇・法皇)の御所)より薫物(種々の香料を合わせてつくった練香)およ び哂布(さらし布)十匹、東福門院徳川和子よりも照高院道晃筆の色紙雉子(キジ)の蒔絵したる硯箱を賜う。同五年九月八日奥高家となり、同年十一月六日従五位下侍従に叙任し、 信濃守と称す。同六年八月六日御使を受けて京師(けいし・京都)におもむく。延宝二年一月四日卒す。年四十九。法名良徹。葬地は貞繁に同じ。妻は朽木与五郎友綱が女。
▶貞満
内蔵助、矢場を称す。
慶安四年(1651)九月二十九日将軍綱吉に付属せられ、神田の館に侯し、のち越度(おつど・。罪科に処せられた)のことありて蟄居(ちっきょ・家の中にとじこもって外出しないこと)せしめられ、家絶ゆ。女子 近藤五左兵衛門用行が養女。
▶頼繁
はじめ義固、義福、璽ハ郎、新六郎、信濃守、侍従、従五位下、従四位下。母は友 綱が女。
寛文元年(1660)九月三日、はじめて将軍家綱に拝謁す。時に十歳。同六年五月四日向後大廊下において拝謁すべきむね仰をこうむる。同十二年十二月二十六日廩米(くらまい・蔵米)三百俵を賜り、延宝二年(1674)七月十二日遺跡を継ぎ廩米はおさめられる。同七年五月三日奥高家に列し、同年十二月二十八日従五位下侍従に叙任し、信濃守と称す。天和元年(1681)八月五日後水尾院(ごみずのおいん・後水尾天皇)一周の御忌により、御便を受けて京都におもむく。同二年七月二十一日後水尾院の御所へ朝仁親王、東山天皇うつらせたもうの嘉儀(かぎ・めでたい儀式)としてまた京師に行く。貞享三年十二月二十八日従四位下に昇る。元禄七年閏五月二十九日、徳川和子十七回の法会行わるるにより、京都にいたる。同八年十二月二十五日務を辞し、寄合に列し、同十五年五月二十八日卒す。年五十一。法名良風。二本榎の国昌寺に葬る。のち代々葬地とす。妻は奥平美作守忠昌が女。
▶貞顕
横瀬駿河守貞臣が祖。、左門、式部、美濃守、駿河守、横瀬を称す。
▶由将
妥女、横瀬を称す。
▶繁栄
左京進、鳥山を称す。
▶貞寛
横瀬源左衛門貞昌が祖。数盾、兵三郎、横瀬を称す。
女子 近藤源左衛門用貞が妻。
▶貞長
源之助、刑部、母は某氏。
元禄十五年七月二十一日遺跡を継ぎ、寄合に列す。時に九歳。同十六年三月二十八日、 はじめて将軍綱吉に拝謁し、宝永七年十二月二十三日表高家に列す。享保十二年一月十一日、先祖より伝来せし、長船長光作昇竜隆竜の太刀を台覧に備う。同年四月二十九日 死す。年三十四。法名良義。
▶貞堅
門三郎、横瀬兵三郎貞寛が養子。
▶忠直
主鈴、阿部対馬守家臣下宮三郎右衛門忠節が養子。
▶貞整
はじめ貞富、成弥、源六郎、新六郎、播磨守、侍従、従五位下、従四位下、従四位上、左少将、母は某氏。
享保・工年十二月十一日、はじめて将軍吉宗に拝謁す。時に十五歳。同十二年七月五日遺跡を継ぎ、寛保二年十月十五日奥高家となり、十五位下侍従に叙任し、播磨守と称す。延享二年三月二十六日、さきに紅葉山をおいて八講法会行われしとき、そのことをうけたまわりしにより、時服三領を賜う。同四年八月十二日即位を賀せらるるの御使にさされて京師におもむき、同年±月朔日従四位下に昇る。寛延三年三月十五日、仰を受けて日光山におもむき、家光百回の法会行わるるとき、そのことを沙汰す。宝暦六年五月三日肝煎となる。同十年三月朔日御転任ありしにより、松平肥後守容頒に副て京師におもむき、同年四月二十六日従四位上に昇る。安永元年十一月五日、仰をうけて近衛維子入内の賀便松平讃妓守頼真にそうて京師におもむき、同年一月十五日少将にすすむ。同五年四月将畢家治日光山に詰るのとき御先に侯す。同九年四月九日務を辞し、天明二年十月十六日卒す。年七十一。法名良久。妻は柴田七左衛門康端が女。後妻は山岡但馬守景久が女。また戸田織部氏貿が女を要る。
▶正森
はじめ貞馨、清九郎、左門、民部、高鳴日向守正視が養子。
▶貞尭
源七郎、鳥山を称す。
▶貞居
左吉、新六郎、実は福嶋民部正森が二男、貞整が養子となり、のち父にさきだちて 死す。
▶貞通
はじめ矩豊、万古、半三郎、新六郎、信濃守、侍従、従五位下、致仕後大蒼と号す。 実は松平大和守明矩が三男、母は某氏、貞整が養子となりてその女を妻とす。
明和元年九月朔日、はじめて将軍家治に拝謁し、安永二年八月十二日奥高家の見習となり、同月十五日従五位下侍従に叙任し、信濃守と称す。同五年六月二十七日奥高家とな り、天明元年十一月十五日御養君を賀せらるるの謝便を受けて京師におもむく。同二年 十二月二十四日遺跡を継ぎ、同三年九月二十日、家治重心観院殿(開院五十宮倫子親王)の贈位あるにより、御使にさされて京都にいたる。同六年七月九日務を辞し、同七年三 月十七日致任す。時に五十歳。妻は貞整が女。後妻は森川下総守俊困が女。
▶女子 貞通が妻。