■由良国繋の牛久領知行
織田信長のあとを引き継いだ豊臣秀吉は、天正十八年(1590)に22万兵を従えて小田原の北条氏への総攻撃に向かいました。その最中、秀吉の五奉行の一人である浅野長政は、東国で北条市と同盟している城々を攻撃しました。牛久城主岡見治広は、圧倒的な兵力をもつ浅野長政とは戦わず、降伏して牛久城から逃れました。
小田原の北条氏との戦いに勝った秀吉は、徳川家康の領地を、北条氏の旧領地と取り替えることにしました。これに伴って、上野国(群馬県)にあった由良国繁の金山城は召し上げられて家康に与えられてしまいました。この戦いの時、国繁は小田原城に人質になっていたにもかかわらず、母の妙印尼(みょういんに)が前田利家の手先に属して小田原城を攻撃し、武功がありました。そこで、由良氏は、金山城に代えて牛久領の五千四百石を秀吉から拝領することになったのです。その後、徳川家康の与力(よりき)になった国繁は、関ケ原合戦で戦い、龍ヶ崎市の川原代(かわらしろ)に千六百石の加増があり、合わせて七千石の領主になりました。
■七観音八薬師の建立
牛久城主になった由良国繋は、母の願いで牛久や足高などで討死した犠牲者達の菩提を弔う為、七つの観音堂と八つの薬師堂を建立したと伝えられています。これらのお堂は、牛久・若柴・足高・高崎・谷田部・岩崎などに建立されたとされ、牛久の観音堂は牛久宿の正源寺に現在も残されています。
■妙院尼の得月院五輪塔
国繁の母は、隠居所として牛久城大手門の近くに庵(いおり)を作り‘妙院尼”と呼ばれました。妙院尼が文禄三年(1596)に死去した後、由良国繋は、得月院を建立して五輪塔(市指定文化財)の墓を作りました。
■旗本由良氏
由良国繁は、関ケ原合戦後の慶長十六年(1611)に死去し、嫡子の貞繁後が後を継ぎましたが貞繁も元和七年(1621)に死去し、子がなかったので顔地は幕府に召し上げられ、お家断絶になり、牛久城は廃城になりました。その後、寛永六年(1629)に山口氏が二代将軍の徳川秀忠から牛久などに一万石の領地が与えられて牛久藩が発足したのです。
牛久藩が出来る前の元和九年(1623)には、将軍から由良貞繁の舎弟の貞長が召出され、由良氏の名跡を継いで牛久の東猯穴・東大和田・猪子の他に茎崎と谷田部に合わせて一千石の領地を賜って旗本となり、将軍秀忠の一字を頂いて忠繁と名を改めました。その後の延宝六年(1678)になると、由良氏には一千石の加増があり、将軍家の儀式を司(つかさど)る“高家”に列せられました。
■由良氏の家系
そもそも、由良国繋の先祖を辿ると、清和天皇から分かれて源氏の礎(いしずえ)を作った源義家の家系で、太平記で知られる新田義貞の流れを汲んでいます。由良の家紋
豊臣秀吉も徳川家康も、清和源氏の家紋を受継ぐ由良国繋を“源氏”の名家として扱ったことでしょう。
金山城から牛久城へ移った国繋は、金山にあった菩提樹の金龍寺を現在の東林寺に移し、その後、若紫の金龍寺に移築し、新田義貞や由良国繁等の墓をここに置いています。
■由良氏の家臣団
由良氏が元和七年(1621)に改易なる前の家臣団を示す資料が残されています。これによると、90人程の家臣の中に、岡見氏の遺臣(いしん)と由良国繁の旧領からの家臣も含まれているようです。又、由良氏旧臣の中には、牛久城中(じょうちゅう)の旧家の名前も見受けられます。
■由良氏の江戸屋敷
旗本由良氏の江戸屋敷は、千代田区一番町の御掘端(おほりばた)にありました。ここは、江戸城の内堀に面した場所で下の絵図には「由ラ」と書かれているところです。由良氏は、旗本の中でも最高位の「高家(こうけ)」として邁(ぐう)されていたので、江戸城の近くにありました。絵図には、牛久藩の上屋敷も見えます。尚、由良氏の江戸での菩提樹は、二本榎(えのき)(港区高輪)にあった国昌寺(こくしょうじ)(現在は東海大学高輪台高校になっている)にありました。
由良氏の江戸屋敷
■十六羅漢像
重要文化財・鎌倉時代末期 竜ヶ崎市・金竜寺(茨城県立歴史館寄託・のを他人に預け、その処理を頼むこと)
曹洞宗の開祖道元が宋にわたって天竜山で修業を積み、帰朝する際に南宋の皇帝理宗から賜った李竜眠(りりゅうみん)様の羅漢図。はじめは曹洞宗の本山・永平寺に、その後、建長寺に寄進され、鎌倉幕府滅亡の時、新田義貞が持ち出して金龍寺(太田市)に奉納したと伝わる。その後江戸時代に金竜寺へ移る。