常陸の親鸞

■親鷲と稲田の草庵

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 聖人越後国より常陸国に越て笠間郡稲田郷と云ふところに、隠居した(「親鸞伝絵」)したまう。

■「稲田の草庵」西意寺山門(笠間市稲田)

JR水戸線稲田駅から歩いて20分,国道50号緑青結いの北側に位置する。参道正面に室町時代に建立されたと伝えられる山門がある。この他,広い境内には,「弁円回心の桜」「聖人御杖杉」などがある

■口語訳

 浄土三部経(「阿弥陀経」「無量寿経」「観無量寿経」)千部読経の願をおこしたのは、信連房が四つのときで、武蔵だったか、あるいは上野だったのか記憶が定かではないけれど、佐貫というところでした。ところが、四五日してはたと思い当たることがあり、千部読経を中止してしまい、まもなく常陸国へ出発したのでした。信連房は未年(一二一一年)三月三日の生まれであるから、今年で五三歳なのだと思います。  弘長三年二月十日  ゑ信

 親鸞聖人、越後を出発して笠間郡稲田郷というところにお住いになられた。俗世を離れて隠れ住んでいるといっても、親鸞聖人の教えを聞こうという様々な人々が草庵の外にまであふれるほどの盛況ぶりであった。仏法を広く広めようとする願いはここに成就し、万人利益の宿念はここに満ち足りる。

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「お草鞋ぬきの聖跡」光照寺本堂(笠間市堀込)

JR水戸線笠間駅から徒歩15分。親鸞は笠もとかず間の豪族庄司基員(ともかず)の招きを受け,当地で草鞋をぬいだと伝えられる。

■解説

 親鸞(一一七三~一二六二)は、九歳の時に青蓮院の慈円の門に入ったが、建仁元 (一二〇一) 年、聖徳太子の示現に接したことを機に法然の弟子となり、専修念仏の教えに随順した。しかし、興福寺の告訴による念仏弾圧により、承元元 (一二〇七) 年、師の法然らとともに罰せられ、親鸞は越後国に流された。この越後流罪を緑として親鸞は以後愚禿と自称し、当地の豪族三善為教の娘恵伝尼と結婚したと考えられている。

 建暦元 (一二一こ年十一月、法然と同日付けで親鸞は流罪赦免となり、間もなく湛後から関東へ旅立った。親鸞のたどった亜蕗については明らかでないが、建保二(一二一四)年には上野国佐貫を経て、その彼常任国に到着している。常陸に入ったl暮は下妻の小島(今の下妻市小島)に至サ、建保五 (一ニー七)年春頃には、笠間暮‡田書(今の笠間市稲田・西念寺)に移’住んだ。以後、京都に戻るまでの二〇年、暮田を拠点に近隣地方を教化して廻り、あわせて真宗の根本聖典となる『教行信壬】の著述に専心したと伝えられている。

 親鸞が赦免後、関東に移住した動機については、妻の同族三善氏を頼ったのではないかという説、越後農民の居住に同行したというなどの諸説ある。とくに親鸞が稲田をめぎしたことに関して、『教行信証』の著述が主たる目的であり、その著述に欠かせない「一切経」が、当時稲田姫神社に手れさ九ていたためという説もあるが、真相は定かではない。

■常陸での布教について調べてみよう

○上野国佐貫で浄土三部経千部読経の願をおこしながら、なぜ親鸞は途中で止めてしまったのだろうか。

○左の地図を参考に、常陸の親鸞の旧跡について調べてみよう。

①~24は二十四輩(親鸞の高弟二十四人)によって開かれた寺院である

○上宮寺(那珂町)開祖は弁円(史話参照)。国指定重要文化財「紙本署色聖徳太子絵伝」を所蔵する。

○報仏寺(水戸市河和田町) 『歎異抄』の筆者唯円房は,親鸞の悪人正機の教えを世に伝えた人物として有名である。この唯円が河和田に開いた道場が,現在の報仏寺である。

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親鷲聖人関東旧跡略図(『図説笠間市史』より作成)

 ■親鸞伝説「板敷山の法難」

 岩瀬町と八郷町の境にある板敷山は、京都聖議院の門弟で修験者として名の知られた山 べんねん伏弁円と親鸞との対決の舞台として知られている。当時、親鸞は布教のために、枚数山の険しい山道を通って石岡や鹿島のほうへたびたび出掛けていたが、常陸地方の旧仏教の寺院や山伏修験者たちは、親鸞の活動を快く思っていなかった。そこで、山伏弁円は、仲間とともに板敷山に陣取り、親鸞聖人を殺害する計画を立てた。ところがその後、親鸞は弁円たちの待ち伏せしている山道のほうには一向に姿を見せなかった。いらだった弁円は、稲田の草庵に直接押し掛けたが、親鸞は穏やかな表情で彼らを迎え入れた。その様子を見た弁円は、振り上げた刀を打ちおろせず、ひれ伏してしまったという。聖人の人柄に惚れこんだ弁円は、これまでの罪をわび、親鸞の弟子になった。のち弁円は、現在那珂町にある上官寺の開祖となり、親賛の教えを広めたという。