虎塚古墳
■虎塚古墳
▶️はじめに
全国に600基を超える装飾古墳。熊本は200基近い数が確認されており、全国一の数を誇っています。近県の福岡と合わせると、約半数が九州北部に分布しています。装飾古墳は壁画という古墳時代の豊かな精神を感じる第一級の歴史遺産です。
昭和49年、華麗な壁画が茨城県ひたちなか市で発見されました。昭和47年の高松塚古墳発見に次ぐ、装飾古墳研究史上画期的な調査成果でした。その装飾古墳の名は「虎塚古墳(とらづかこふん)」。研究者達は、二つの同心円文、白土の上に規則正しく描かれた連続三角文など鮮やかな装飾に注目しました。虎塚古墳は全長56.5mの前方後円墳です。虎塚古墳群の第1号墳であり、首長墓として知られていました。この石室に描かれた装飾壁画の発見は、海を介した繋がりを想起させ、菊池川流域と茨城の地を結ぶ歴史的事象の有無について意見が交わされることになります。
「古事記」や「常陸国風土記」のなかでは、那賀郡の初代の国造として「建借間命(たけかしまのみこと)」が登場します。命は多氏(おおし)と呼ばれる一族の出自とされ、火君・阿蘇君・筑紫三家連等九州で装飾古墳が造られた地域の国造と同族と記されており、九州との関連を伺わせます。また、虎塚古墳は東国屈指の装飾古墳として文化財の保存と公開の両立をきめ細やかな調査・研究によって遺してきたことでも注目されています。虎塚古墳の調査を行った明治大学、勝田市教育委員会(当時)の努力により、春と秋の二回の公開を行いつつ、壁画を劣化させることなく今日まで護り遺しています。このように装飾古墳の保存と公開の両立を30数年維持し続けてきた実績は、全国唯一と言っても過言ではありません。
▶️装飾古墳の特徴
茨城県内の装飾古墳は、これまで18基が確認・報告されています。この地域は、東日本のなかでも虎塚古墳をはじめとする、彩色豊かな装飾が特に遺された地域として注目されます。茨城県で装飾古墳が造られはじめた時期は、概ね6世紀末頃~7世紀初めと言われており、埴輪の製作、造立が見られないこと、7世紀の終末期古墳にまで採用されることなどが、この地域の特徴と言えます。
茨城県内では、線刻と彩色の併用による顔料の塗布(虎塚古墳、十王前横穴群ll号墓、)顔料による絵画的表現(船玉古墳、花園3号墳)、線刻による装飾(吉田古墳、幡バッケ横穴群6号墓)等が装飾技法として用いられています。顔料の使用は、黒・白・赤の三種類が確認されています。
古事記、常陸国風土記には、九州との関連を伺わせる常道の仲国造、建借間命などの記述が見られます。建借間命は那珂国造の祖とされていますが、那賀の郡(那珂国)とされる一帯は、特に装飾古墳が集中しています。また、久慈の郡には、青土、白土という顔料に関する記述も記されています。青土がどのような顔料であったかは未だ不明ですが、装飾古墳である大分県別府市鬼の巌古墳が存在する豊後国速見郡に赤色の記述があるように、装飾古墳に関連する地域の記述として注目されます。
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