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■番付とは?
『相撲番付』を見たことがあるだろうか。中央上に、相撲字という変わった太い書体で「蒙御免(ごめんこうむる)」と書いてある一枚刷りの紙である。現在のものは、江戸時代とほとんど変わっていない。「蒙御免」とは、寺社奉行の「御免を蒙った」、つまり免許を受けたという意味で、現代なら00省認可とでもいったところだ。
現在の我々がいろいろなもののランキングを気にするように、江戸時代の人々も、面白半分に何にでも序列をつけて、相撲番付ふうの「見立番付」に仕立て上げて、次々と出版した。
役所から免許を受けて番付を発行しているわけではないから、「蒙御免」の文字は使えないので、それぞれの番付には、題材にふさわしいタイトルが中央上に大きく書いてある。「為御覧(ごらんのため)」というのが比較的多いが、上の「関東造醤油星番付」は「為便覧(べんらんのため)」となっている。
江戸で多かったのは料理屋の番付だが、簡単には優劣を決めにくく、利害がからむので、それぞれ好き勝手に順序を決めて出版したらしい。
■解説
近世前半の醸造業の主流は酒造であった。城下町などでは、米穀商人に領内米穀の集荷、売買が握られており、それと結びついて原料米を仕入れることのできた酒造業者が、町方に多く現れていた。しかし、米穀荷講問屋の衰退が見られる一八世紀後半以降になると、城下町の酒造は相対的に地位を低下させ、代わって在方での酒造、醤油醸造が盛んとなってきたのである。
一八世紀中頃から関東各地での醤油醸造が盛んとなり、江戸への地廻り醤油の出荷が活発化した。一九世紀には、江戸の醤油市場は完全に関東醤油の天下となり、その原料の生産地として常総の農村は、重要な役割を占めることとなった。
右の番付の中央下に、差添として土浦の大国屋勘兵衛の名がある。醤油醸造だけでなく、呉服、煙草、穀類、塩、酢などを扱うかたわら、質屋も営んでいた。のブランド名は 「亀甲大」だが、隆国誌』 (明治二十六年刊) に、モ上品トセリ」とされたばかりか、「下総、銚子、佐原ヨリモ出レドモ、土浦、亀甲大二及ブモノナシ」と記されている。 畑作地帯が優勢な茨城県域では、醤油原料としての大豆、小麦が豊富であったことが、醤油醸造の興隆と密接に関係していたと考えられる。さらに、霞ケ浦-利根川-江戸川1江戸市中とを繋ぐ水運の便が、醤油醸造にとって有利に働
いた。
番付に見られるように、土浦の他にも江戸崎、水海道、玉造、潮来などに有名な造醤油屋が見られ、県南・県西を中心に醤油醸造業が発展していった。鹿島、水戸の業者も醤油仲間に加わっており、広汎な地域で盛んだったことがわかる
■考えてみよう、やってみよう
① なぜ茨城の醤油醸造が盛んになったのだろう。
② 左の「諸国産物競」の番付から、茨城児地域の産物では醤油の他に何が有名だったか探してみよう。
③ 他にも面白い番付があるか、調べてみよう。
④ 現代版番付をいろいろつくつてみよう。
。
諸国産物競(林英夫・芳賀登『番付集成 下』〈柏書房〉より
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