鹿島信仰
■地名にひそむ鹿島の謎・全国のカシマはどういう所?
「カシマ」という地名は、茨城県の鹿嶋市だけの地名ではない。全国で五十以上の地名が確認できる。下の地図にその代表例を示した。「カシマ」と呼ばれる地域について、どのような特色があるのか調べてみよう。何か共通点があるのか、考えてみょう。
この地図は、一四世紀に畫かれた百科全書『拾芥抄(しゆうがいしょう)』(古河歴史博物館蔵)におさめられた「行基図」という日本地図である。諸国を丸みを帯びた俵状に描き、国名のみを記入した簡略な日本地図であるが、江戸時代以前の日本地図のスタンダードとして流布した。
この地図の常陸国の領域内に「鹿嶋」という文字が書き込まれている。他の国に、国名以外の地名が記入されている例はない。それだけ、常陸の鹿島は重要だと考えられていたことがわかる。
なぜ、特別であったのだろうか。次の点に注意して考えてみょう。
① この地図の描かれた一四世紀は、どのような時代であったか。
② 鹿島神宮の神は、どのような性格の神と考えられていたか。
■解説
全国のカシマと呼ばれる地は、海や川に面した先端・突端の地であることが多く、別世界との「境の地」として、神聖視された地であった。その最も代表的な存在が東海道の東端の地である常陸の鹿島であり、鹿島神宮鎮座の地となった理由のひとつと考えられている。
鹿島神宮の祭神は、武神としての性格がたけみかづちのかみ強調される武聾槌神であり、古代東国開拓の守護神的存在であった。また、藤原氏の氏神として有名な春日大社も、鹿島の神を第一の神として祀っており、朝廷・貴族からの厚い信仰を集めた。中世以降は、源頼朝をはじめ多くの武将から戦勝の神として崇拝を受け、鹿島神宮には源頼朝・足利尊氏・豊臣秀吉・徳川家康らから信仰されたことを示す文書が数多く残っている。」
現在、鹿島神宮の分社である鹿島神社は、全国に八六〇余社、茨城県内に三八〇余社あるといわれ、多くの人々から崇拝を受け続けて.いる。さらに、鹿島神宮・神社と直接に関わりをもたない人々からの信仰を集めている点も鹿島信仰の特徴といえる。例えば、東北地方の農村で、虫送りの行事が「鹿島送り」「鹿島流し」と呼ばれたり、悪霊や疫病の侵入を防ぐために村境に立てられた道祖神が「鹿島様」と呼ばれるように民間信仰のなかに、古代からの鹿島の神への信仰が融合しているのである。業
■虫送り…農村で農作物の順調な成長を願って害虫を追い払おうとする行事。ワラ 人形をつくり、行列の中心にすることが 多い。春から夏にかけて行われる。
■あなたの家の近くにも鹿島神社がある?
■茨城県内の鹿島神社分布図
■東北地方での「鹿島」への祈り
■悪路王伝説
「神代に鹿島の神が蝦夷の首領である悪路王を討伐した」という内容の悪路王伝説が、茨城県内及び東北地方に伝承されている。鹿島神宮と茨城県東茨城郡桂村高久の鹿島神社には、「要路壬の首」といわれる木像が所蔵されてあてるいいる。坂上田村麻呂が阿旦流為を降伏させたという史実が、悪路王という蝦夷の王を討伐したと変化し、さらに蝦夷征討の守護神として崇拝された鹿島神宮への信仰と融合して、「鹿島の神が悪路王を討伐した」という俗信・伝説を生んだものと考えられる。鹿島神宮に所蔵されている「悪路王の首」は、江戸時代に陸奥の住人が奉納したものである。東北地方の人々は、鹿島の神は強くて、頼りになる神と信じ、村境に立てた災厄除けの巨大なワラ人形を、「鹿島様」と呼んだのであろうか。
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