三蔵法師の道

000■インドと中国を結んだ玄突三蔵・・・人と足跡と美術 

宮治 昭一

▶三蔵法師の人物像

 三蔵法師とは、経典の集成を蔵に喩(たと)えて、経(仏陀の教説に関するもの)・律(戒律に関するもの)・論(仏陀の教説を解釈したもの)の三種類の経典すべて(三蔵)に通じた高僧という意味で、もともと固有名詞ではない。しかし、三蔵法師といえば、玄奘法師自身を指す言葉として用いられることが一般化した。それほどまでに、玄奘が後世に与えたインパクトは強かった。玄奘の傑出した人物ゆえであろう。では、玄奘とはどのように傑出した人物だったのか、その非凡さはどのようなものか、三つの側面から捉えることができるのではないかと思う。すなわち、(一)宗教者・求道者、(二)実践家・情報収集家、(三)現実主義者である。

真諦大師 瑜伽師地論

 第一に宗教者・求道者としての側面。側面というより中心をなす核というべき部分であるが、仏教の真理を究めたいという、真撃な情熱を最後まで失わなかった点で、玄奘は非凡であった。玄奘がインド行きを決意したのは、すでに仏教学の研鑽を積み、パラマールタ(真諦・しんだい)の翻訳した摂大乗論(しょうだいじょうろん)』を学んで、その学識は人々から賞賛されていたにもかかわらず、自ら納得できないところが多く、瑜伽行派唯識論(ゆがぎょうはゆいしきろん)の根本経典であ る『瑜伽師地論(ゆがしじろん)』の原典(上図右)を得、それを究明するのが最大の目的であった(唐慧立本(からえりゅうぼん)・彦そう(げんそう)箋『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』、以下『慈恩伝』と略す)下図。

_「大慈恩寺三蔵法師伝 大宗

 そして、それを果たして帰国した後、皇帝太宗(上図右)に拝謁した玄奘は、その才と博識を見込まれ、還俗して帝の政治を補佐するよう勧められるが、それを丁重に辞退し、人里離れた嵩岳少林寺で翻訳に専念したい旨申し出る太宗は玄奘を近くにおいておきたかったため、結局、長安の弘福寺の禅院を訳場とすることを認める。玄奘はかなり頻繁に皇帝に呼び出されるが、亡くなる麟徳元年(六六四)までの十九年間は、文字通り経典の翻訳に心血を注いだ。とくに『大般若波羅蜜多心経』全六百巻を訳し終えて、身心ともに使い果たした。このように、最後まで宗教的情熱を失わなかったのである。(下図)

『大般若波羅蜜多心経』

 第二に、実践家・情報収集家としての側面。インド行きを決意したのは、求道者としての情熱からとはいえ、実際にそれを実行し、成功させるだけの意志と行動力をもった実践家として玄莫は非凡であった。しかも、たんに求法の旅を成功させたというだけでなく、旅先の国々の極めて多方面にわたる情報を細かく記録しており、冷徹な目をもった情報収集家という点でも卓越していた。帰国後、太宗はまず玄奘に、西域(中央アジア・インド)各地の王統・気候・物産・風俗などを尋ね、玄奘は見聞したところを詳しく答え、帝はいたく感心したのであった。それで、大唐の勢力拡大を図る太宗は玄奘に還俗して自分を補佐するように迫り、それが難しいと知るや諸国の情報を一冊にまとめるよう命じたのであった。それに応えたのが、有名な 『大唐西域記』(以下『西城記』と略す)である。弟子の弁機が、経典の翻訳に力を注いでいた玄突から渡された旅行誌をもとに、一年余をかけて編集して完成したのであった。

『大唐西域記』

 『西域記』には、極めて整然と中央アジア・インド諸国の情勢が記され、一大地誌となっている。その書き方は、国名、大きさ、都城、物産、気候、住民の気質、言語、衣服、貨幣、王、仏教や他の宗教の状況といったように秩序だって書かれており、玄実の旅行誌が多方面に目をくばった、しかも正確な情報をたくさん盛り込んでいたことがうかがえる。もちろん『西域記』には、玄突が実際に行かなかった国々の伝聞に基づく部分も含まれ、また現状と十分に合わない箇所も指摘される(とくに西インド)が、総じて記述は正確で、古代インド・中央アジアの状況を知るうえで、抜きんでた第一級の資料であることには変わりがない。

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 ところで、『西域記』は、上述のように一大地誌であるが、全体のバランスから見ると、諸国の情勢に関する部分は簡略で、仏教の状況や聖跡にまつわる因縁説話の類が大層多い。仏教者として玄奘の関心が仏教の状況(聖跡・寺院・僧数・大小乗の別など)にあることは当然であるが、聖跡にまつわる因縁説話が長々と記されているのはバランスを失している。しかも、それらの因縁説話はほとんど他の経典からの引用に依拠しており、地誌としての性格を逸脱している。この点は桑山正進氏の指摘するところで、弁機が『西域記』を完成させた二年後、太宗の娘高陽公主と密通したとして、弁機は処刑されてしまうこととも合わせ考えると、確かに不可解な点が残る。桑山氏は諸国の情報がより詳細に記された『原大唐西域記』があって、唐朝政府に必要な情報は官によって厳封され、その部分を削除して、説話などで埋め合わせたのではないかと推測している〔桑山正進『大乗仏典 中国・日本篇九 大唐西域記』中央公論社、一九八七年、二八七〜二九二頁〕。証拠は何もないが、玄突の類い稀な情報収集家としての資質と、諸国を征圧して大唐帝国の支配を確立しようとしていた当時の唐朝政府のあり方を考えると、ありうることであろう。

玄奘撰《大唐西域記》

 いずれにしても、『西域記』が当時の諸国の情勢を把握するうえで、この上ない情報源であったことは間違いない。インド人は宗教書・神話書に関しては膨大な文献を残しているにもかかわらず、歴史書や地理書は皆無に等しい。輪廻転生を信じるインド人にとっては、宗教的真理の探求とその実践こそが重要であり、過去の歴史事実を記したり、現実の情勢や状況を記録し分析することにはほとんど意義を見出すことができなかったのであろう。これに対し、中国人は古くから歴史や地誌を記録することに大きな意義を認め、その伝統があった。現実を直視し、それを記し、将来にわたってそれを利用することが中国人にとって重要であった。宗教者であった玄奘もこの伝統を踏まえているばかりか、並はずれた情報収集力と現実の把握力を具えていたのであった。

 『西域記』がインド・中央アジアに関する情報源として、後世に与えた影響は量りしれない。『西域記』は『慈恩伝』とともに、日本では奈良時代以来しばしば書写され、釈迦の国であり仏教の本源地である天竺=インドに対する夢を膨らませるのに大きな役割を果たしてきた。近代の考古学や東洋学にとっても、『西域記』は欠くことのできない文献であった。とりわけインド・中央アジアにおいて発掘調査を行おうとする考古学者たちにとって、この書はその記述の正確さと情報量から言ってバイブル的存在であった。不世出の考古学者A・スタインは、アレクサンダー大王およびマルコ・ポーロと並んで、玄奘の透徹した記録者としての眼を称賛し、『西域記』英訳本を手もとから離すことはなかったのである。

 以上、玄突三蔵の人物像を、宗教者・求道者、また実践家・情報収集家という側面から見てきたが、最後に現実主義者という側面を付け加えておきたい。すなわち、玄奘は宗教上の高い志を持ち、それを実現すべく、時の支配者と巧みに交友をもち、場合によってはその力を利用するという、まことに長けた現実主義者だったといえるのではなかろうか。それは実践家・情報収集家の側面とも密接に関係する性格でもあろう。

高昌故城 唐代の高昌国

 西域旅行の第一歩であった高昌国において、玄奘は国王麹文泰(きくぶんたい)に手厚く迎えられ、王から多くの衣服、金銀、絹を与えられ、さらに護衛をつけてもらい、天山山脈を越えたのだった。そして素栗城(スーヤーブ)で、西突厥(とっけつ)の統葉護可汗(トンヤブクカガン)に会い、麹文泰の親書と贈物を手渡し、彼の援助を受けることに成功する。当時、西突厥はアフガニスタンのカーピシーまで、中央アジアを広く支配下に治めていたのである。さらに玄奘は、カシミールでも国王に迎えられ、インドの内へ無事歩を進めることができた。帰国に際しても、当時北インドを統一して繁栄を誇っていたハルシャ朝の国王ハルシャヴァルダナ(シーラーディティヤ、戒日王)も自ら玄奘を招いて、大法会を催し、法師の偉大さを讃えた。ハルシャ王は北インドの王に託し、法師が無事に帰国できるよう象馬や多くの護衛、金銀を用意したのであった。

東西突厥帝国

 このように玄奘は、当時の最高権力者に面会し、彼らの信頼を得、安全な旅行ができるよう多大の庇護を受けることができたのである。もちろん、こうした信頼を勝ちうることができたのは、玄奘の偉大な人格と学識によるものだったろうが、中国からインドに向かった求法僧の中で、これほどまでに時の最高権力者たちと面会し、交友をもった法師は他にいなかった。いよいよ都長安に入るに際しても、西域のホータンから皇帝太宗に上表文を送り、そこで七、八カ月間待って帰国の勅許を得る。かくして玄奘は多くの経典と仏像ともども、多くの人々の熱狂のうちに迎えられて長安の都に凱旋したのである。玄奘は自己の志を強くもち、それを成功させる手段を、現実の情勢を冷静に見つめながら見出して、実現させていくという、まさに非凡な人物であったといえよう。

二、玄奘三蔵の時代と足跡

北周の武帝 大宗

 玄奘が生まれ活躍したのは、隋末から初唐の時代であった。三世紀におよぶ中国南北朝時代を統一に導いたのは隋(五八一〜六一八年)で、初代の文帝は、北周の武帝によって断行された廃仏毀釈を撤回し、仏教を復興させるのに大きな力となった。また、長安に新しく大奥城と名づける新都を築き唐代の長安の都の基礎をつくった。次の楊帝は、現在の北京に近い琢郡から江都(揚州)、さらに杭州にまで到る、中国大陸を縦断する大運河を開き、対外的にも積極策に打って出た。すなわち、北方中央アジアの東突厥を支援し、西域では吐谷揮(とよくこん)を打って勢力を伸ばし、ベトナム南部の林邑をはじめとする東南アジアにも支配力をおよぼした。さらに三回にわたる高句麗遠征をも企てる。しかし、大運河開削のための過酷な労働と高句麗遠征の失敗から民衆の反乱が起こり、隋王朝はあっけなく滅びる。

daiunga

 玄奘はこうした時代に河南省に生まれ(六〇二年か)、少年時代を過ごしたのだった。兄に連れられ洛陽の浄土寺に行き、そこで得度するが、隋末の乱世で洛陽は荒廃し、長安でも師に恵まれなかった。そのため四川の成都に赴き、そこで受戒(仏門に入るため仏弟子として戒律を受けること)をした。受戒をしたのは唐の初め、武徳五年(六二二)で、まさに隋末から唐初にかけて玄突は仏教者としての確固とした歩みをはじめようとしていたのだった。

 唐の初めはどのような状況だったのだろうか。唐を創(はじ)めた高祖(六一八〜六二六在位)は、在位中はもっばら隋末以来の混乱を鎮め、各地の群雄を平らげるのに費やされた。第二代の太宗(六二六〜六四九在位)は律令制によって、中央集権的な政治体制の確立に成功した。つまり律令格式と呼ばれる法制を基礎に、土地制度(均田法)・課税制度(租庸調)・軍事制度(府兵制)・村落制度で人民を掌握し、支配する体制で、安定した秩序を作り出すと同時に、皇帝を頂点とする中央政府の権力は強大なものとなつた。

 こうした権力基盤を背景に、太宗は東アジアにおいて世界帝国を打ち立てていく。まず、北方の強力な遊牧国家、東突欧をその内乱に乗じて滅ぼし(六三〇年)、さらに四川にまで侵入して強大となつた吐蕃(チベット)を破って和議を図り、太宗の娘文成公主を吐蕃王(ソンツエン・ガンボ)と結婚させ(六四一年)、唐の影響力をおよぼす。また、天山山脈の北に本拠をおいて中央アジアを勢力下に収めていた西突蕨統葉護河汗の死後、弱体化したのを見はからって高昌国を滅ぼし(六四〇年)、西域進出を図るのに成功する。最後に太宗は朝鮮半島に目を向け、二度にわたって高句麗に侵攻するが(六四七、六四八年)、結局これは失敗に終わる(次の高宗の時代に百済を滅ぼし新羅と結んで高句麗を征服する)。

 ところで、玄奘は成都で受戒した二年後には長安に戻り、やがてインドへの求法の旅を決意する。そして、貞観の初め(おそらく貞観元年=六二七年、貞観三年説もあるが、桑山正進氏の論考、前掲書三五七〜三六三頁を参照)、玄突は長安を出発し、中央アジア・インドに旅立ったのだった。それはまさに太宗が東アジア全域に覇権を握ろうとしていた時代であった。

 玄奘は長安から秦州(天水)、蘭州、涼州(武威)と河西回廊を進むが、唐朝の出国禁止令を知り、昼伏夜行で瓜州(安西)に到り、瓜州からは厳しい砂漠の中を文字通り九死に一生の思いで伊吾(ハミ)にたどり着く。しかし、伊吾では高昌国の使いに迎えられ、高昌では国王麹文泰(きくぶんたい)が玄奘の学識に感服し、インドに行かずここに長く留まるよう要請したのだった。玄奘はインドからの帰路に高昌に寄ることを約し(この約束は玄突のインド旅行中、唐によって高昌国が滅ぼされてしまうため、実現しない)、国王から多くの旅行費用や品々のほかに、西突蕨可汗宛の親書や贈物を与えられた。WCEYTjz287

 トゥルファン盆地に位置する高昌国は、五世紀中葉の成立以来、漢民族の麹氏高昌(四九八〜六四〇年)、唐朝支配(六四〇〜七九〇年)吐蕃支配(七九〇年〜九世紀後半)と政治勢力は交替するが、長期にわた あぎにって東西交流の一拠点として繁栄したところである。『西域記』には高昌国に関する記載はなく、阿耆尼国(カラシャール)から始まっている。この書の編纂当時、高昌は唐朝下にあったからであろう。今世紀初め以来、この地の考古学的発掘や調査が行われ、多くの遺跡が確認されている。すなわち、カラホージャ(高昌故城、ホツチョ)とヤールホト(交河故城)の二つの都市遺跡、トヨク、センギム・アギス、ベゼクリク、ムルトウクなどの石窟寺院、アスターナ古墳などである。今回の展示品として、カラホージャの仏寺からの塑造《仏坐像》(下図左)ヤールホト出土の麻布若色《ハーリーティー(鬼子母神)画像》(下図中左)トヨク石窟からの《十一面観音菩薩立像》(下図右)があり、いずれもドイツ探検隊の将来品である。

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キジル千仏堂と鳩摩羅什像 天山南麓に存在するキジル石窟.

 玄奘は高昌国から阿耆尼国(あぎにこく)を経て屈支国(クチャ)に入る。クチャでは小乗の説一切有部が行われ、教義や文にインドの影響が強いこと、この国では管弦伎楽がとくに盛んであることが『西域記』に記されている。

 クチャは西域北道を代表するオアシス国家として栄えたところで、ドゥルドゥル・アクル寺(阿奢理ヤ伽藍アーシチャリヤ)やスバシ寺(昭こり伽藍)の野外の仏教寺院址のほか、キジル、クムトラ、シムシムなどの石窟寺院が今日知られる。とくにキジル石窟(上図左右)は規模も大きく、見事な壁画を多く残しており、西域屈指の仏教石窟として名高い。その壁画の主題は、釈尊の前生の話である本生譜や仏伝図、因縁説話図、それに弥勤菩薩などで、小乗系のもので占められ、玄奘の証言と符合する。

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 クチャの展示品はいずれもキジル石窟からの壁画で《仏陀頭部壁画》上図左、大谷探検隊将来)のほかに、寄進者像と鴨連珠円文を描いたもの。寄進者像は第八窟からドイツ隊によって採取されたもので、右襟を大きく折り返した長衣を着け、長剣と短剣を腰に帯びた騎士たちを描いており、おそらく石窟造営を援助したクチャの貴族たちであろう(上図下)。一方、鴨連珠円文は第六十窟からのもので、七世紀前後に中央アジアで流行した、いわゆる連珠円文と呼ばれるササン朝ペルシア起源の文様である(上図右)同様の文様はアフガニスタンのバーミヤーン(下図左)、ウズベキスタンのアフラシアブ、トゥルファンのアスターナ(下図右・挿図3)などに見られ、当時の活発な交流を物語っている。

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 玄奘は、クチャから跋禄迦国(バルカこく・アクス?)を経て凌山(ペダル峠)を越えて天山山脈の北に出、素葉城(キルギスタンのトクマク近郊)で西突廠の葉護可汗に会う。玄奘高昌国王の親書と贈物を渡すと、可汗は喜び、当時西突廠は中央アジアを広く支配下においていたので、アフガニスタンカーピシーまで護衛をつけてくれた。かくして玄突は中央アジアを容易に放することが出来た。 現在のウズベキスタンの措時国(タシケント)、諷林建国(サマルカンド)を経て、鉄門を通り、親貨羅国(トカラ)に入る。サマルカンドでは王や国民は仏法を信ぜず、祆教(けんきょう)(ゾロアスター教)を信じていると『慈恩伝』は記しており、発掘調査でも仏教遺跡はほとんど知られない。これに対し、オクサス河の手前の坦蜜国(テルメズ、上図中・挿図4)や河を越えたアフガ:スタン北部の縛喝国(バルク)では、仏教の盛んな様子を伝えている。

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 ウズベキスタンからの展示品は、サマルカンド、ハルチャヤン、グルヴュルジン・テペなどからの出土品である。サマルカンド地区からはオッスアリと呼ばれる《納骨器》で、これは仏教のものではなく、ゾロアスター教のものといわれる。ハルチャヤンはクシヤーン朝の宮殿址とみられる遺跡で、塑造の王侯貴族の彫像のほかにヘラクレスや花綱を担ぐプットなどヘレ:ズム伝来の神々や装飾が出土した。これに対し、ダルヴエルジン・テペは大きな都城址であるが、城壁内外の二カ所で仏教寺院も発見され、現在なお発掘が続けられている(上図左右。この地ではクシヤーン朝の時代(一~三世紀)から七世紀頃まで仏教が栄えたが、人世紀以降イスラム勢力の侵入によって衰退する。

1990年代後半、バーミヤーン 73-29

 玄奘はアフガニスタンのバルクから南下してヒンドゥークシュ山脈を越え、山中のバーミヤーン(梵街那国)に到る。ここでは仏教は大層盛んで、二大仏の荘厳さや大捏紫像について記している。二体の大仏(三十人メートルと五十五メートル、上図左)、三体の坐仏のほか七百五十にのぼる石窟があり、壁画や塑造装飾が残る。六~七世紀を中心に栄えたとみられるアフガlTスタン屈指の仏教遺跡。展示品はフランスのギメ国立東洋美術館所蔵の、塑造の《人面像》(因習と《鬼面像》(図帥)、《猪頭連珠円文壁画》(上図右)で、ササン朝ペルシア系とインド・グブタ系の文化の融合を見ることが出来る。

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 さて、玄突はヒンドゥークシュ山脈を下って、迦畢試国(カーピシー)に出る。この国は強大で、ガンダーラまで支配下においていた。玄奘は国王に歓待される仏教も大層盛んで大乗仏教が学習されていたが、ヒンドゥー教を信仰する人々も少なくなかった。カーピシーはかつてクシヤーン朝のカニシカ王の夏の宮殿址があったところで、フランス隊によるペグラームの発掘によって、その王宮址の一郭と見られる所から、ローマからのガラス挙青銅像・石膏板、インドからの象牙細工などが発見された(上図)また、ショトラクやパイターヴァなどの仏教遺跡や仏教彫刻(挿図6)も知られる。玄奘当時のカーピシーの遺跡や美術品はあまり明確でない。しかし、城の南にある暫蔽多伐刺両城(シュヴエータ・シュヴァタラ)は京都大学調査隊が発掘したタパ・スカングルに、さらにその南にある阿路猿山(アルナ)はフランス隊が発掘したハイル・ハーナに同定されている。前者からはシヴァ・パールヴァ亨-、後者からはスーリヤのいずれもヒンドゥー教大理石像が出土した。これらは玄奘の時代のものとみられる。

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 『西域記』はカーピシーの次にインドの総説を長々と記しており、現在のアフガニスタン南部に当たる濫波国(ラグマーン)、那掲羅属国(ナガラハーラ)、そしてパキスタンの健駄邁国(ガンダーラ)と続けており、これらの地域からインドと見なしている。歴史的にはこれらの地域はヘレニズム・ローマ、イラン系中央アジア、中インドの文化が様々に流入し、混(こんこう)したところで、仏教遺跡も多い。

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 パキスタンのガンダーラは西北インドの中心地として、クシヤーン朝以降仏教美術が隆盛したことで名高い。展示品も石製およびストゥツコ(漆喰)製のガンダーラ仏を並べている(上図、一~五世紀頃)。ただ、青銅像には時代の下るものが多い(下図左) 。玄契訪問当時、ガンダーラはカーピシーに隷属し、国はすっかり荒れて仏教も廃れていた。玄奘はカニンカ大塔や多くの本生処(釈迦前生の説話にちなむ聖跡)などを訪ねている。さらに烏任那国(ウッギャーナ、スワート地方)、但叉始羅(タキシラ)にも行き、多くの聖跡について記し、かつての仏教の繁栄を偲んでいる。当時、西北インドで最も仏教が栄えていたのは、迦湿弥羅国(カシミール)であった。国の勢力もカーピシーと並んで盛んで、高僧も多く、玄奘はここで丸二年を過ごし、いよいよインドの内へ足を踏み入れる。

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 中インドの人口に位置する珠菟経国(マトゥラー)では、舎利弗や目連などの仏弟子のストゥーパがあり、仏教・ヒンドゥー教とも信仰されていた。マトウラーはインド美術史の上では、クシャーン朝からグブタ朝にかけて一大流派をなしたところ赤色砂岩を用いた多くの美しい仏像を生み出している(上図右・下2点)。ヒンドゥー教のクリシュナ信仰の故郷としても知られ、ヒンドゥー教の彫刻も多い(下図3点)。

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 玄奘は中インドでは、次のような地を訪れている。すなわち、三道宝階降下で名高い却比他国(カピタカ、サンカーシャ)、ハルシャヴァルダナ王(戒旦土)の都掲若鞠閣国(カニヤ-クブジャ、曲女城)、優填王思慕像のいわれで名高いウダヤナ王の都橋賞弥国(カウシャーンピー)、祇園精舎のある室羅伐悉底国(シュラーヴァスティ-)、釈尊の生まれ故郷劫比羅伐寧堵国(カピラヴァストゥ)、釈尊入滅の地拘戸那掲羅国(クシナガラ)、最初の説法地鹿野苑(サールナート)のある婆羅痺斯国(ヴァーラーナシー)、維摩居士や禰猥奉蜜の地吠舎(ヴァイシャーリー)、アショーカ王の都のあった波咤警丁城(バータリプトラ、今のパトナ近郊)、釈尊成道の聖地仏陀伽耶(ブッダガヤー)、霊鷺山をはじめ多くの釈尊の旧跡のある王舎城(ラージャグリハ、今のラージギル)、そして玄奘の目的地であった那欄陀(ナーランダー)寺である。

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 中インドには仏教誕生の地にふさわしく多くの仏跡があり、仏教美術もこの地で花開く。とくにグブタ朝(四世紀中頃~六世紀中頃)ではマトウラーと並んで、サールナートで淡黄色砂岩を用いた、瞑想風の優美な仏・菩薩像が多く造られその後の仏像の造形に大きな影響を与えた(上図)。また、ブツダガヤーやナーランダーでは、とりわけパーラ朝時代(八世紀中頃〜十二世紀)に仏伝を表した釈迦像、仏三尊像、観音・文殊などの菩薩像、大日如来をはじめとする密教像、数々の女尊像など、多くの仏教尊像が石や青銅で造られた(下図8点)。プッダガヤーは仏陀成道の聖地として仏教徒の尊崇の地となり、仏像や奉献小塔が寄進され、またブッダガヤーの大書捉寺の模型(下図・一番上写真)が造られ流布した。ナーランダーはアジア世界最大の仏教大学として発展し、多くの僧院が造営され、仏教諸尊もここで数多く造像された。95-50

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 もっとも、ナーランダーが飛躍的な発展を遂げるのは、玄奘滞在以後のことで、美術品の上でも七世紀に遡るものは多くない。玄奘がインドを訪れた時期は、グブタ朝からパーラ朝への転換期であるポスト・グブタ時代(六世紀中頃〜人世紀中頃に当たっていた。この時代はインド全体で見れば仏教に代わってヒンドゥー教が次第に大きな力をもち、仏教はパーラ朝の下で密教を中心に最後の繁栄を見せる、そうした直前の時期であった。唯識

 いずれにしても、玄奘はナーランダー寺のシーラバドラ(戒賢)法師のもとで多くの年月を過ごし、稔伽論をはじめ仏教の奥義を学び究めて、インドの僧たちからも尊敬されるようになる。

 その後、玄奘は東インドの三摩但咤国(サマタタ)、耽摩栗底国(タームラリプティ)、鳥茶国(オリッサ)、南インドの掲饅伽国(カリンガ)、案達羅国(アーンドラ)、駄那精確迦国(ダーニヤカタカ)、達羅批某国(ドラヴイダ)などを訪れ、それらの地でも仏教がかなり盛んな様子を記している。今日のオリッサ、アーンドラ・プラデーシュ、タミルナードゥの各州にわたる地域である。

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 古都ダーニヤカタカ近くのアマラーヴァティーには大ストウーパ址があり、石灰岩製の仏伝浮彫(挿図7)や仏像が数多く出土し、同じクリシュナ河流域にあるナーガールジュナコンダとともに、南インドを代表する仏教遺跡として名高い(下図5点)。

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 そのほか、アーンドラ・プラデーシュ州には五十近い仏教遺跡が発掘されており、二〜四世紀頃を中心に仏教が大きな繁栄を見、部分的には十世紀頃まで仏教が存続したことが明らかにされつつある(下図)。また、オリソサ州でもラトナギリ、ラリタギリ、ウダヤギリなどの仏教遺跡から、八〜十世紀頃の密教美術が数多く出土し、タミ〜ナードウ州でもヒンドゥー教を奉ずるチョーラ朝(九〜十三世紀)の下での仏教彫刻(石と青銅)が発見されており、南インドで相当遅くまで仏教が存続したことがわかってきた。

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 玄奘は南インドからさらに西インドにも足を延ばしたようであるが、『慈恩伝』や『西城記』の記述は簡単で、現状や史実と合致しないところも多く、ここでは省略しよう。ナーランダーに戻った玄奘は、いよいよ帰国の準備をする。

アラカナンダー川とマンダーキニ川プラヤーガ。

 帰国に際して、玄奘は当時中インドに大勢力をもっていたハルシャヴァルダナ王の礼拝を受け、曲女城での大論議、鉢羅耶伽国(プラヤーガ)での大施会を済ませた後、大々的な王の援助のもとに帰国の途につく。西北インドの坦又始羅国(タキシラ)から西行し、カーピシー国王の護送を得て、ヒンドゥークシュ山脈を越え、活国(クンドゥズ)に出る。そこからバミール高原のワッハン渓谷を通り、濁盤陀国(タシュクルガン)を経て、中国新羅の笹薩旦那国(ホータン)に到る。

ホータンカイコの伝来を伝える絵画

 ホータンは西域北道のクチャと並んで西域南道を代表するオアシス都市であった。ここでは大乗仏教が盛んで、国王は昆沙門天の後裔と言われ、多くの聖跡・寺院があった。今世紀初めのスタインの調査によって、寺院址や彫像・壁画・板絵などが数多く発見された。玄奘の記す昆沙門天信仰、桑蚕伝説、聖鼠伝説などを表す板絵類や、大乗の盧舎那仏の板絵も見つかっている。

 玄奘は唐朝によって滅ぼされてしまった高昌国に寄ることなく、ホータンから皇帝太宗に宛てて帰国許可の上表文を使者に託し、その勅許を得て十七年余におよぶ大旅行を終え、貞観十九年(六四五)長安に戻つたのである

三、玄奘三蔵のめざした聖地インドの美術

 玄奘がインドを訪れた七世紀の第2四半期は、インドの歴史において、ポスト・グブタ時代(六世紀中頃〜八世紀中頃)に当たっていた。この時代はインドにおいて、古代から中世への大きな転換期であった。古代インドの黄金時代と讃えられたグブタ朝時代(四世紀中頃〜六世紀中頃)は、強力で安定した政治体制の下で、活発な対外交易による経済的背景を基盤に、宗教・思想・文学・美術などの様々な分野で文化的な高揚を見た時代であった。しかし、五世紀中頃のフーナの侵入とグブタ領域の諸勢力の独立は、グブタ朝に大きな打撃を与え、それ以降衰退に向かい、六世紀中頃にはグブタ朝も終焉を迎える。次のパーラ朝の出現する八世紀中頃までをポスト・グブタ時代と呼んでいる。玄奘訪問時の七世紀初め、英主ハルシャヴアルダナが出て、  刀.し不安定な状況を克服し、一時中インドを再統一するが、王の死後この王国もたちまちに瓦解してしまい、もはや大帝国を築くことは出来なくなる。ポスト・グブタ時代は不安定な過度期の時代であったが、同時に新しい文化が胎動しょうとする時代でもあった。  120-73 107-60 119-71118-70 117-69 116-68 111-64 114-66 110-63 109-62 108-61

 インドの古代仏教美術を歴史的に見た場合、二世紀と五世紀に二つのピークがあるが、一世紀から五世紀まで、比較的持続した発展を見せている。一〜五世紀のインド美術は、ガンダーラ、マトゥラー、南インド(アマラーヴァティーやナーガールジュナコンダ、但し四世紀中頃まで)の三つの中心地で栄えた。中国との初期の交流を考える上では、ガンダーラ(上図12点)とマトウラー(下図9点)、とりわけガンダーラが重要である。

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 ガンダーラは現在のパキスタン、インダス河上流域に位置し、紀元前二世紀頃よりギリシャ人やサカ族、パルティア族といった異民族が侵入し、とりわけクシャーン朝(一世紀中頃〜三世紀)の下で、ガンダーラ美術が隆盛するクシヤーン朝はへレニズム文化を継承するとともに、中央アジアから北インドにまたがる大帝国を築き、ローマとの海上交易によって経済的に繁栄した。ガンダーラは、そのクシヤーン朝の中心地として栄え、王侯貴族や商人層を中心に仏教の支持者が増大し、多くの仏教寺院が建てられ、仏教彫刻が寄進された。クシヤーン朝は三世紀中頃ササン朝ペルシアの攻撃によって滅亡し、ガンダーラ美術はそれによって一時衰退するものの、エフタル侵入後の六世紀中頃まで断続的に隆盛した。

5世紀インド史 マップ・ササン朝ペルシア

 ガンダーラを中心とする西北インドの地は、中国に仏教が伝えられ、最初の隆盛を見る後漠から南北朝時代においては、最も重要な仏教の中心地であった。中央アジアやインド出身の僧たちもガンダーラで仏教を学び、中国に赴く者が多かったし、中国の求法僧たちの多くがガンダーラをめざしたのであった。ガンダーラの仏教彫刻の編年は国難な問題であるが、上図のような浮彫彫刻、つまり菩提樹下で結伽扶坐(けっかふざ)して禅定印を結び、上半身裸形で、左肩から条吊状の衣のみを掛ける像容の仏像が最初期のものではないかと見られる。それらの浮彫には、両側に梵天・帝釈天などの神々に礼拝される「梵天勧請」(上図)の場面が多く、造形様式の上では、粗削りながら豊かな人体の表現、また衣文や頭髪などの線条的な表現に特徴がある。それはJ・マーシャルがサカ・パルティア族時代のものとした、上図などの華髪掛けの有翼神の造形様式とも近い関係にある。

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 最も一般的なガンダーラ仏は、彫りの深い顔立ち、波状にうねる頭髪両肩を覆う厚い大衣、深い彫りと ひだ浅い彫りを組み合わせた自然な衣文の襞(ひだ)、人体と衣文の有機的な関係といった特徴を示すもので(上図左右)おそらく新たなローマ美術の影響を受けたものだろう。こうした典型的なガンダーラ仏は、二〜三世紀頃に大量に造像されたものと思われる。この時期に単独の仏像・菩薩像と並んで仏伝浮彫も数多く制作された。

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 このほかに、当時の世俗の仏教信者、とくに王侯・貴族や商人たちを表す供養者・寄進者たちの浮彫(上図)、またギリシャ・ローマ伝来の有翼の《アトラス像》(上図)、ヘラクレス型の執金剛神(上図)、あるいはインドの豊能神ヤクシャの大将《パーンチカ像》(上図)など、東西文化の交流によって生み出された興味深い主題やモティーフが少なくない。

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 ガンダーラ美術は石彫のほかに、ストウッコ(漆喰)像も多く、とくに四〜五世紀頃の後期に流行したようである(上図左右)。ストウッコ像はアフガニスタンのハッダとパキスタンのタキシラの仏寺から多く出土して名高いが、ガンダーラやスワートからも出土している。ストウッコという柔軟な素材に助けられ、自由闊達で写実的な、さらには人間の感情の内面世界をも表出するような表現を見せている。

 六世紀中頃にはガンダーラ美術は終焉を迎えるが、それ以降スワートやカシミールの山間地域において、インドのグプタ美術の影響を色濃く受けた仏教美術が隆盛に向かう(下図)。玄奘が訪れたのはまさにこうした転換の時代で、人世紀以降になると密教美術やヒンドゥー教美術も活発化する。

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 さて、ガンダーラを中心とする西北インドに対して、中インドの美術はどうであろうか。仏教美術は紀元前二世紀頃からバールフト、ブッダガヤー、サーンチーなど中インドで行われるようになるが、クシャーン朝時代には、マトゥラーがその中心地となる。中インドのマトゥラーは、ガンダーラと並んで仏像制作のインドにおける二大センターとして栄え、ガンダーラと同様、クシヤーン朝以降、グブタ朝の六世紀中頃まで仏教の造像が活発に行われる

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 マトウラー美術の特徴は、赤色砂岩を用いたインド的な生命感に富んだ肉体表現によくうかがえる。たくま世紀前後のクシヤーン朝の仏像は見開いた目をした若々しい顔立ちや、逞しい肉体表現を見せる(上図左右)のに対し、五世紀のグブタ朝の仏像は瞑想風の顔立ちや量感豊かな美しい人体表現に特徴があるが(下図左右)、いずれにしても、ガンダーラ仏のギリシャ・ローマ的な写実主義に基づく造形とは対照的である。

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 マトウラーの彫刻には仏・菩薩像、仏伝浮彫のほかに、インド古来の民間信仰に根づいたヤクシャ、ヤクシーといった、豊饒多産を司る神々の造形が目立っているヤクシャはもともと聖樹に棲む精霊的な神であったが仏教に取り入れられ四天王や守門神として、あるいは太鼓腹をした小人形のユーモラスな神として造像された(下図)。

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 ヤクシャの女性形ヤクシーも、マトウラーではとりわけ人気を呼んだ。樹下女神として様々なポーズをとる魅力的な女神像が数多く造像され、ストゥーパの周りを飾ったクシヤーン朝のヤクシー女神像には、当時の富裕な都市社会を背景に活躍した遊女の姿を彷彿とさせる世俗的な女性像も出現した

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 マトウラーでは仏教美術以外に、すでにクシャーン朝後期にシヴァ、ヴィシュヌ、ドゥルガー(シヴァの妃)といったヒンドゥー教の小彫像も造られるようになり(上図左右)、グブタ朝以降はとくにヒンドゥー教の造像が活発化する(下図)

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 以上のように、マトゥラーは後一〜五世紀頃に中インドの仏教美術の中心地として栄える。中央アジアでは五世紀以降仏教美術が大きく花開くが、そこではガンダーラ美術とマトウラー美術が融合して独特の中央アジア様式が形成され、さらに六〜七世紀にはササン朝ペルシャの影響も加わって華やかな様相を呈するようになる

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 ところで、玄奘がインドを訪れたポスト・グブタ時代(六世紀中頃〜八世紀中頃)は大きな変革の時代であったガンダーラもマトウラーも中心的な位置をすでに失い、中インドではいくつもの小センターが出来つつある時代であった。ポスト・グブタ時代の全体像はまだ十分明らかではないが、仏教美術に限って見てもマトゥラー、サールナート以外に、ブッダガヤー、ナーランダー、パトナなど現ビハール州を中心に、釈尊の仏跡地からこの時代に属する彫刻が発見されており、中インドでかなり広範囲に仏教彫刻の制作が広がっていったことが推測される『西域記』の記述を見ても、主要な仏跡にはいわれのある仏像が祀られていたことがわかる。

 しかし、残念ながら今のところ七世紀に特定できる仏教彫刻は限られており、次のパーラ朝時代(八世紀中頃〜十二世紀)のものが圧倒的に多いパーラ朝はビハール・ベンガルを中心に栄えた王朝で、歴代の諸王は仏教を保護し、大寺院を建立した。ブッダガヤーの大菩提寺やナーランダー大僧院が大きく発展したのもこの時代であった。

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 パーラ朝に属する石彫および金属像は大層多く、伝統的な仏陀像もあるが、密教尊像が目立っている。す ひなわち、金剛界五仏のセット(下図)、大日如来(下図)

や阿閏如来、宝冠仏陀像(、四腎・六腎・十二腎などの多腎観音菩薩像、八大菩薩(下図)、またターラーやチエンダーといった女尊像等々で、尊像の種類も飛躍的に増大するのである。

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 玄奘の訪れた時代はこうした密教が興起する直前の時代、しかもガンダーラとマトウラーの二大センターの仏教美術も終焉を迎えていた時代であった。その時代の美術は、グブタ美術の流れをくみながら、中インドの仏跡地を中心にいくつかの地域ごとに出現した美術であったろう。

 玄奘はインドから五百二十夾(きょう・両わきから中のものをはさむ)、六百五十七部にのぼる膨大な経典とともに、仏舎利百五十粒と仏像七躯(く)をもたらした。玄奘の主たる関心が経典にあったことは言うまでもないが、もたらされた仏像を『慈恩伝』は次のように記している。

一、マガダの前正覚山龍窟留影の金仏像(光背台座を含め高さ三尺三寸)

二、ヴァーラーナシーの鹿野苑初転法輪像を模刻した檀像(光背台座を含め高さ一尺五寸、但し、麗本の挿図8 初転法輪仏坐像(サールナー卜者古博物館蔵)み三尺五寸)

三、カウシヤーンピーのウダヤナ王が如来を思慕して真形を刻した檀像を模刻した檀像(光背台座を含め高さ二尺九寸)

四、カピタ(サンカーシャ)に如来が天宮より宝階を降下された像を模した銀仏像(光背台座を含め高さ四尺)

五、マガダの鷲峰山で法華経などを説かれる像を模した金仏像(光背台座を含め高さ三尺五寸)

六、ナガラハーラの毒龍を調伏し影を留められた像を模して刻んだ檀像(光背台座を含め高さ一尺五寸)

七、ヴァイシャーリーの巡城行化の像を模して刻んだ檀像(高さ不明)

 これら七躯の仏像はいずれも現存しないが、二躯が金、一躯が銀とある。しかし、大きさから見て、それらは金銀製の仏像ではなく、鍍金・鍍銀の金属像であったろう。残りの四躯は檀像である。古い檀像はインドに現存しないが、当時檀像が広く行われ、こうした持ち運び可能な小檀像が仏教美術の伝播に大きな役割を果たしたであろうことが想像される。

 玄奘がもたらした仏像は、玄契がそれぞれ現地で特別に造らせたものや、あるいは当時流布していたものも含まれていただろう。いずれにしても、尊像の名称から見て、いずれも仏伝説話にちなんだ釈迦瑞像といえる性格の仏像だったろう。こうした仏像の尊容は、グブタ朝〜パーラ朝の現存石造彫刻に見られるような、説話表現を付加的に表した尊像だったと思われる。

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 例えば、二番目の鹿野苑初転法輪像は、サールナート出土のグブタ時代の名作、初転法輪仏坐像(石彫、サールナート考古博物館(挿図8)のような、台座に法輪・二鹿・五比丘を表した、転法輪印を結ぶ仏坐像だったに違いない。四番目の三道宝階降下像は、パーラ 朝美術によく見られる、帝釈天が傘蓋を享え、反対側に梵天が侍す仏立像だったろう。

 これに対し、五番目の霊鷺山説法の釈迦像や六番目の毒龍調伏の仏影釈迦像は、中国ではつとに名高い説話となっていたものであるが、インドではいまだに明確にそれらに同定しうる釈迦像を見出し難い。三番日の有名な優填王思慕像についても同様で、ガンダーラの仏伝浮彫を別にすれば、この説話に関係した瑞像も知られない。これらのことをどう考えるべきだろうか。それらの地でそれぞれの釈迦瑞像が造られたが、消滅してしまったことも考えられないではない。あるいは、釈迦の神変的、霊験的性格をもった瑞像がそれぞれの聖地と関係なく、金属像や檀像としてポスト・グブタ時代にある程度造られたが、その中でインドで流行したのは、パーラ朝時代に定形化した仏伝図の八大事だけだったことも十分考えられよう。

 いずれにせよ、中国南北朝時代にはインド世界といえば、ガンダーラが中心であったのが、玄契の時代には、中心は中インドに移っていたのである。しかも、その時代には中インドに強力な二つのセンターがあったわけではなく、いくつもの小センターが成立しっつあった。玄突のもたらした七躯の仏像のうち、六番目のナガラハーラの毒龍調伏の仏影像のみ西北インド(アフガニスタン)由来のものであるが、他はすべて本来の釈迦ゆかりの中インドの地のものである。ポスト・グブタ時代になつて、釈迦ゆかりの「仏跡」に対する意識の高まりとそれらの地域での造形活動が芽生えてきたのではなかろうか。

 玄奘のもたらした仏像が中国唐代の仏教美術にどれほどの影響を及ぼしたかという興味深い問題とともに、中国で広まった釈迦瑞像のインドの原型を探る研究も、今後に多くの課題を残している。