永平寺の仏像

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浅見龍介

▶はじめに

 永平寺で一般拝観者の目に触れる仏像は、山門の二天王立像、庫院脇の葦駄天立像、仏殿の三世仏(さんぜぶつ)坐像、華光(けこう)菩薩俺像、法堂の観音菩薩坐像と宝物館の達磨大師坐像、伽藍神(がらんじん)像、女神侍像などである。このうち仏殿の三世仏は高い壇上に安置されているため、つぶさに拝観することはできない。また山門楼上の宝冠釈迦如来坐像と善財童子・月蓋長者(がつがい)立像、阿難尊者・迦葉(かしょう)尊者立像、十六羅漢・五百羅漢像は公開されていない。これらの像のうち、観音菩薩坐像は平安時代の作として永平寺を紹介する本には写真が掲載されることが多く、よく知られている。その他の像は、注目されることが少ないが永平寺の歴史を考えるうえで重要な遺品である。ここでは展覧会に出品されない三世仏坐像も合わせて中世の像に絞って紹介する。出品された像については作品解説をど参照いただきたい。

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▶道元禅師の仏像観

 「只管打坐(しかんたざ)」を標榜した道元禅師の著述には仏像について述べた文章はほとんどない。わずかに残る関係記事を拾って禅師の仏像観を確認しておきたい。

 仏像舎利は如来の遺骨なれば恭敬すべしといへども、また一へに是れを仰ぎて得倍すべしと思はば、還って邪見なり。天魔毒蛇の所領と成る因縁なり。仏説に功徳あるべしと見えたれば、人天の福分と成る事、生身と斉し。惣て三宝の境界、恭敬すれば罪滅し功徳を得る事、悪魔の業をも消し、人天の果をも感ずる事は実なり。是れによりて仏の悟りを得たりと執するは僻見なり。(『正法眼蔵随聞記』)

 仏像や舎利は如来の遺骨であり、姿を写したものだから敬うべきではあるが、それによって悟りが得られると思うのは間違いであり、天魔や毒蛇に損なわれる原因になる。仏陀の教えに功徳があると述べられているので仏像、舎利を敬うことが人や天上の人々の幸せのもとになる事は、生きたほとけに対するのと同じである。仏法僧の三宝を敬えば罪は消え、功徳を得て、悪魔のような行いも消えて人や天上の人々の喜びを感じることができる。しかし、これによって悟りを得たと思うのは間違いである。

 仏像は礼拝すべきだが、悟りは修行、坐禅しないで得ることはできない、ということである。次に、道元禅師が建仁寺を出て最初に住んだ興聖寺の造営に関する、嘉禎元年(一二二五)の「宇治観音導利院僧堂勧進疏」には

寺院最要、仏殿、法堂、僧堂也。仏殿有本、法堂未、僧堂最切要也、

 とあって寺院で最も重要なのは仏殿、法堂(はっとう)、僧堂だが、仏殿はすでにあり、法堂はないが僧堂が一番必要なのでこれを造る、ということである。観音導利院は、深草の極楽寺旧跡に設けたので、仏殿は残っていた。この仏殿が、おそらく法堂も兼ねたのだろう。そのため僧堂を造営したのである。

 永平寺の造営では寛元二年(一二四四)九月に法堂が完成、同年の十一月に僧堂の上棟が記録にあるが、仏殿については不明である。永平寺の伽藍は道元禅師、二祖懐弊の時にはまだ完成しなかった。永平寺は、はじめ大仏寺と称したが、その造営以前には近くの吉峰寺に弟子とともに住んでいたので、法堂を最初に完成させたのだろう。

 これらの史料から、住持が説法をする法堂と、修行僧が坐禅し、寝起きする僧堂がもっとも大事で、仏殿はその次という順になる。とは言え、道元禅師が仏殿を重視したことは間違いなく、仏殿に安置する仏像も必要でぁると考えていたことが窺える。そしてほかのところで「たとひ泥木塑像の鹿悪なりとも、仏像をば敬礼すべし」とあり、粗末な材料で作った美しくない像でもほとけの形をしているものは敬うべきである、と考えていたことがわかる

 道元禅師の伝記『建撕記(けんぜいき)』には宋滞在中の出来事として次のような記事がある。

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 来日、可帰朝定一夜、碧巌集一部書写玉、共時大権修利菩薩助筆井燈火挑玉、故土地神奉用也 

 宋の天童寺如浄禅師のもとで悟りを開いた後、帰国する前に『碧巌録(へきがんろく)』を書写していると、大権修利菩薩(だいげんしゅうりぼさつ)が手伝ったという伝承である。

 『建撕記』の写本は天文七年(一五三八)の明州本が最本(一六八〇年)、門子本(一六九四年)、元文本(一七三八年)、そして刊本の訂補本(一七五四年)、合わせて六種ある。そのうち延宝本と訂補本では書写を助けたのが、白山明神となっている。そのほかの写本は大権修利菩薩とする。さらに延宝本では帰朝の船に招宝七郎大権修利菩薩が現れ、道元が日本に帰るのに随って、正法を護持すると述べたと言う。しかし、他の写本、刊本には登場しない。

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 大権修利菩薩は、右手を額にかざして遠望の構えをとる道教神(上図)である。寧波(ニンポー)の阿育王寺に伽藍神(土地神)として祀られていたと伝えるが、今の中国には見当たらない。臨済宗の寺院でも伽藍神として安置するが、招宝七郎大権修利菩薩と呼ぶのは曹洞宗だけである。招宝七郎というのは、寧波にある招宝山に由来すると考えられる。

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 道元禅師をはじめ、留学僧が降り立ったのは寧波の三っの大河が合流する三江口と呼ばれる湊である。海かようこうらその湊までは甬江(ようこう)を遡るのだが、その河口に聳えるのが招宝山で、船にとっては目印である招宝七郎は、外国から来る船を遠く見下ろして守る神なのだ外国からの荷を積んだ船は寧波に富をもたらすから「招宝」なのである。出ていく船もやがて戻るので、行き来する船の航海を護ることになる。寧波の人々がこの神を崇める動機はきわめて世俗的であっても、船に乗っている方からすればありがたい神に違いない。

 神と言っても道教の聖典に登場することはなく、地域の人々に身近な存在である。曹洞宗では道元禅師ゆかりの神としてこの神を尊重する。

▶徹通義介の造像  

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 永平寺の造営は三世住持徹通義介(てっつうぎかい)によって推進されたようで、『永平寺三祖行業記』の「三祖介禅師」では、永平寺の宗旨の建立は道元と二世懐弊が義介に頼み、義介は入宋して天童寺をはじめとした禅刹の規矩(きく・手本・規則)を学び、あるいは鎌倉、京都の禅宗寺院も巡った。そしてその知識をもとに永平寺にふさわしい伽藍を構想し、山門を建て、両廊を造り、三尊を安置し、祖師三尊、土地五躯を造ったと言う。最初に出てくる三尊は仏殿本尊の三世仏だろう。天童寺の本尊は三世仏だったのでこれに倣ったものと考えられる。祖師三尊は達磨、洞山良伶(どうざんりょうかい)、長翁如浄だろうか。道元禅師の彫像は開山堂(承陽殿)に安置されたと考えられる。土地五躯は、伽藍神五躯のことであり、招宝七郎大権修利菩薩像のほか現存する遺品に照らして、監斎使者(かんさいししゃ)・掌簿判官(しょうぼほうがん)を数えて良いだろう。残り二躯は不明だが、女神倚像白山神として、伽藍神に数えられた可能性がある。

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 監斎使者と掌簿判官は十三世紀後半の作と見られ、徹通義介が造った像である可能性がある。類品は鎌倉五山第一位の建長寺、京都五山第四位東福寺にある。建長寺の像は義介も見たと思われる鎌倉時代、十三世紀の像で、これに次ぐのが永平寺の像、東福寺像は南北朝時代と室町時代の二具ある。現存の大権修利菩薩像と女神像は南北朝時代に入ってからの作と見られ、義介が造営した当初の像は失われたものと考えられる。

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▶仏殿本尊三世仏

 次に、仏殿本尊の三世仏坐像(挿図)を見てみよう。じはつ 釈迦如来坐像と弥勒如来坐像は肉髻(にっけい)が低く、地髪部が眉が大きく弧を描く。螺髪は太く、人中は唇近くを丸く窪ませるだけである。耳輪は太く、輪郭は角張る。体は箱を組んだようで抑揚に乏しい。側面から見ると背中を丸め、頭を少し前に傾けている。そして釈迦如来坐像いんばの両膝の上で翻転する衣の形は、院派仏師に特徴的なものである。両像とも底に後補の蓋板を貼るので、院派仏師にほぼ共通する、像心束や体幹部前後材をつなぐ左右の束を確認することはできない。

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 これに対して、阿弥陀如来坐像は作風が異なる。両腋下が深く、胸、腹、腕、脚の分節感が明瞭である。側面から見ると奥行きが薄く、背を伸ばして正面を見ている。衣文も丸みのある稜線が平行に刻まれており、端正な美しさが感じられる。ただし頭髪部は他の二躯に合わせるように改変されている。

 三躯(さんく)の制作年代は、阿弥陀如来像が鎌倉時代初期で仏師は不明、釈迦・弥勒如来像は、南北朝時代の院派仏師の作と見られる。恐らく徹通義介が造った像は失われ、この像は再興像だろう。何らかの事情で阿弥陀如来坐像は、古像で大きさが等しい像を転用したのだろう。徹通義介が仏殿を造営したのは弘長二年(一二六二)に宋から帰って以後である。ところが暦応三年(一三四〇)に仏殿をはじめ、主要伽藍が焼失した。仏殿の再建は延文四年(三五九)なので、本尊像は、これまでには造ら れていただろう。

 三世仏の像高は九〇センチほどで、大きいと望一口えな いが、質素でもない。臨済宗の五山派で言えば、十剃または諸山に相当する規模と見られる。伽藍神像はこれ に比べると小さいので、義介の最初の造営の時と三世仏像を造った時とでは仏殿の大きさが異なるのかもしれない。

     仏殿本尊世仏像仏(撮影 桑原英文)24

 院派仏師は南北朝時代に禅宗をはじめとした造像に活躍した。曹洞宗でも迦如来および両脇侍坐像、岩手・正法寺の釈迦如来坐像も院派仏師の作である。院派仏師は、平安時代の仏師定朝を祖とする三派(他は円派、慶派)の仏師系統の一っで、十二世紀には貴族の造像に活躍したが、十三世紀は慶派に圧倒されていた。十四世紀に徐々に復活し、南北朝時代には宋の仏像の作風を取り入れて独特の様式を生み出し、慶派に代って造仏界の主役に躍り出た永平寺三世仏中の釈迦・弥勤如来像は院派特有の癖が少ない方である。鎌倉を中心とした東国が積極的に宋風を摂取したのに対し、京都周辺では宋風の受容は限定的だった。永平寺の像にも京都周辺の美意識が関わっているのかもしれない。

▶おわりに

 仏殿の釈迦・弥勒如来坐像と同じ時期に達磨大師坐像、大権修利菩薩情像、女神俺像等が造られた。伽藍焼失後の復興は、道元禅師の百年遠忌を新しい伽藍で挙行するという目的に向かって寺僧たちが団結したことが大きかっただろう。もちろん道元禅師を慕う人々の寄進あってのことである。

 今回の展覧会では山門楼上の五百羅漢像のうち鎌倉時代の作と見られる一躯だけど出品いただいているが、全体を調査した上ではない。あるいはまだ古い像があるかもしれない。作品解説にも書いたとおり、五百羅漢像には勧進に応じた人々の名前が記されており、その調査は永平寺史にとっても必要なことである。この展覧会がそのきっかけになれば幸いである。

(あさみ・りゆうすけ 京都国立博物館学芸部上席研究員)