寧波と禅 

                      西山 厚

 わが国に本格的な禅を最初に伝えたのは道昭(六二九〜七〇〇)である。白雉四年(六五三)に入唐。長安の大慈恩寺の玄奘三蔵について法相教学を学んだあと、玄奘の勧めで相州隆化寺慧満について禅を学び斉明天皇七年(六六一)に仏舎利や経典を携えて帰国した。道昭は飛鳥の法輿寺の東南隅に禅院を建て、そこに住んだ。

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 平安時代には、禅宗を興したいという皇太后橘嘉智子の命を受けて恵萼(えがく・生没年不詳)が唐へ渡り、承和十四年(八四七)七月に禅僧の義空生没年不詳)を伴って帰国した。義空ははじめ東寺の西院に住み、のちには檀林寺(上図右)に住んだが、数年で帰国してしまい、第二の鑑真になることはなかった。義空の事蹟である「日本国首伝禅宗記」を刻んだ碑の破片四個が、鎌倉時代の末期には東寺の講堂の東南隅に残されていたという。恵萼は明州(寧波)沖合の観音霊場普陀山の開山として、わが国よりむしろ中国で広く知られている。

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 鎌倉時代における禅宗発展の嚆矢(こうし・物事のはじめ)となつたのは大日房能忍(生没年不詳)である。能忍は師を得ないまま独悟して達磨宗と称し、摂津国水田に三宝寺(現在は廃寺)を開いた。しかし、無師独悟であることを批判されたため、文治五年(一一八九)にふたりの弟子(練中・勝弁)を明州慶元府(寧波)阿育王山広利寺(現在の阿育王寺)の拙庵徳光(一一二一〜一二〇三/大慧宗呆の法嗣)のもとへ遣わし、自らの悟りの境地を記した書を呈上した。拙庵徳光は能忍の悟境を認め、淳熙(じゅんき・南宋)十六年(文治五年‖一一八九)六月三日付けで、釋尊(釈迦)から数えて第五十一代の祖師である旨を明記した嗣書をはじめ、法衣・自賛の達磨像・自賛の頂相を能忍に贈った。こうして三宝寺には禅宗初祖の達磨から六祖慧能までの六人の祖師の舎利が伝えられた。

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 のちに日蓮(一二二二〜八二)は禅宗を広めた人物を能忍で代表させ、浄土宗の法然(一一三三〜一二一二)と並べて能忍を批判していることからうかがえるように、鎌倉時代初めの禅宗世界をリードしたのは栄西ではなくて能忍であり、日蓮の理解では、能忍は鎌倉建長寺の蘭渓道隆(一二一三〜七人)と並ぶ存在でもあった。しかし、やがて能忍は殺され、能忍の弟子(懐弊・義介・義演・義ヂ・義準など)は道元の門下に入る。

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 栄西(一一四一〜一二一五)は仁安三年(二六八)と文治三年(二八七)に中国へ渡ったが、二度目の入宋の際に、天台山万年寺で虚庵懐敞(こあんえじょう)に禅を学んだ。やがて虚庵懐敞に随って明州慶元府(寧波)の天童山景徳寺現在の天童寺・上図)に移り、紹興二年(建久二年/一一九一)に虚庵懐敞(こあんえじょう)印可を受けて帰国した。末法の世を正法の昔に戻す強い願いをもっていた栄西は、その手立てを禅の興隆に求め、『興禅護国論』を執筆した。文中に「今この禅宗は戒律をもって宗とす」とあるように、そこで何より強調されているのは戒律の重視であり、栄西の禅の本質は持戒持律主義にあったので、戒行を否定する能忍を厳しく批判した。

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 建久五年(一一九四)、「入唐上人栄西」「在京上人能忍」が達磨宗を建てようとしているとの比叡山からの奏聞を受けて、これを停止する宣下が出された。虎閑師錬の『元亨釈書』では、能忍と一緒にされたばかりに栄西も弾圧されたと記すが、その通りかもしれない。栄西は京都に建仁寺を創建し、幕府に招かれて鎌倉でも活躍するが、「吾妻鏡』には持戒持律の密教僧として描かれている。

 なお栄西は、天台山万年寺や天童山景徳寺の修復にも尽力しており、東大寺の復異に活躍した重源が建永元年(一二〇六)に亡くなると、その手腕を評価されて二代目の東大寺大勧進となって再建事業を引き継いだ。

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 道元(一二〇〇〜五三)下図左・は大いなる疑問をもって比叡山を下り、建仁寺を訪ねた。すでに栄西は亡くなっており、弟子の明全(一一八四〜一二二五)に師事した道元は、やがて明全らとともに明州慶元府(寧波)へ向かう。

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 明全が入った四明山景福寺は律院で、栄西と同じように明全も戒律を重視していたものと思われる。ついで明全は栄西が修行した天童山景徳寺に移り、無際了派(拙庵徳光の法嗣/大慧宗呆の孫弟子)に師事したが、二年後の宝慶元年(一二二五)五月二十七日に景徳寺の了然寮で死去した。まだ四十二歳だった。道元は宗法眼蔵』弁道話のなかで、明全が栄西の上足(高弟/第一の弟子)として「ひとり無上の仏法を正伝せり。あへて余輩のならぶべきにあらず」と讃えており、深い敬意を込めて「先師」と呼んでいる。

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 道元はしばらく船で過ごしたが、このとき阿育王山広利寺の典座(食事を司る僧)と出会い、大きな教訓を得た。やがて天童山景徳寺に入り、無際了派のもとで修行したが、納得できず、杭州の径山万寿寺・天台山万年寺など各地の寺を巡ったが、それでもよき師には出会えなかった。無際了派は大慧宗呆の孫弟子にあたるが、のちに道元は大慧宗呆を「無道心・無稽古・無遠慮・疎学・貴名愛利」などと口を極めて批判している。

 やがて天童山景徳寺に戻った道元は、新しく住持になった天童如浄(一一六二〜一二二七)に師事し、不惜身命の修行の末、身心脱落を体験して大悟した。そのあと恵尊が開いた観音霊場普陀山などに巡拝した道元は、宝慶三年(嘉禄三年/二≡七)に如浄より嗣書を賜り、帰国の途についた。

 帰国した道元は「勧坐禅儀』(下図)を書いてすべての人々に禅を勧めたが、迫害を受ける。やがて京都を去って越前の山中に籠(こも)もった道元は、「普勧坐禅」を捨て、出家主義に転向する。修行して悟りを開くのではなく、修行が悟りである、と道元は考えており、ひたすら坐ること(只管打坐・しかんたざを大切にした。「曹洞宗」はもちろん「禅宗」の呼称さえ否定した道元。これが仏法、これこそが正伝の仏法であったわけだが、のちに曹洞宗の開祖とされた。

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曹洞宗の坐禅は「只管打坐(しかんたざ)」、ただひたすらに坐るということです。何か他に目的があってそれを達成する手段として坐禅をするのではありません。坐禅をする姿そのものが「仏の姿」であり、悟りの姿なのです。私たちは普段の生活の中で自分勝手な欲望や、物事の表面に振りまわされてしまいがちですが、坐禅においては様々な思惑や欲にとらわれないことが肝心です。

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 天童山景徳寺における如浄の門下で、のちに道元を慕って日本へ来た中国人僧がいる。寂円(一二〇七〜九九)である。永平寺に入って承陽庵(如浄の塔所)の塔主をつとめたが、道元が亡くなると懐弊に師事して法を寂円の坐禅石嗣いだ。しかしやがて永平寺を去り、越前大野の山中で十人年も坐禅を続けたという。のちに宝慶寺を創建。寂円の門下には永平寺第五代の義雲(一二五三〜一三三三)がいる。

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 鎌倉時代中期に禅を根付かせた最大の功労者は円爾(一二〇二〜八〇・下図右)かもしれない。円爾は入宋して杭州の径山万寿寺の無準師範(一一七七〜一二四九・下図左)から印可を受けた。無準師範は明州慶元府(寧波)の阿育王山にも任したこともある。帰国後は博多に承天寺を開くなど九州北部に禅を広め、やがて摂政九条道家の招きで京都に上り、東福寺の開山になつた。

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 円爾には九条道家のほか多数の貴族が弟子の礼をとり、後嵯峨・亀山・後深草天皇の帰依も受けた。また幕府からも重んじられた。円爾のもとには各宗派の僧侶が多数集まり、多くの優れた弟子を生み、その門流(聖一派)は大いに発展した。

 無本覚心(一二〇七〜九人)は建長元年(一二四九)に入宋。阿育王山、径山、天台山などで修行したのち、杭州臨安府の霊洞山護国仁王禅寺の無門慧開(一一人二〜一二六〇)に参じて印可を受けた。帰国後は亀山上皇の帰依(きえすぐれたものを頼みとして、その力にすがること)を受けて宮廷に禅を説いた。覚心の門流(法燈派)はこのあと南北朝時代まで聖一派と並ぶ大きな勢力を保持した。

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 このように鎌倉時代の禅宗発展の主人公たちは、いずれも明州慶元府(寧波)へ向かい、寧波あるいはその周辺で印可を受け、帰国後はわが国の禅宗興隆に大きく貢献した。

 寧波とその西に位置する杭州には、五山が存在した。宋代に政府が設定した最高の格式をもつ五つの禅寺である径山万寿寺(杭州)、北山霊隠寺(杭州)、天童山景徳寺(寧波)、南山浄慈寺(杭州)、阿育王山広利寺(寧波)。日本から五山への玄関口は寧波である。禅を求める人々のまなざしはいつも寧波へ。確かに寧波は聖地であった。

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 (奈良国立博物館学芸部長)