■第一都南都仏教の復興
鎌倉時代の南都では、伽藍の復興に加えて、戒律や教学の復興もなされ、改革への新しい動きがみられる。
平氏による南都炎上のあと、東大寺の復興に貢献したのは重源である。重源とその同朋は諸国を勧進し、中国から学んだ新しい技術を導入して大事業を成し遂げた。その復興事業は栄西、行勇に受け継がれた。
南都炎上や全国規模での内乱は、人々に末法の到来を実感させた。そして後白河法皇は乱世の原因を、僧侶に「苦修練行の心」が欠けていたためだとした。戒律を厳しく守る本来あるべき姿をした僧侶が求められはじめたのである。栄西、貞慶、高弁(明恵)、俊荷、叡尊らによる戒律の復興運動が高く評価されたのはそのためである。
貞慶は朝廷・幕府や勧進僧の援助を受けて、衰退していた由緒ある寺々を復興し、新しく法会を開き、法相教学の確立にも尽力した。教学の復興は、このあと良遍、宗佐、凝然らによってさらに進展する。
高弁(明恵)は釈迦を思慕し、華厳教学や密教を極め、多くの人々の帰依を受けた。高弁の周辺には絵師や慶派の仏師がおり、高弁の独自な信仰にもとづく作品が現存している。
叡尊は覚盛らと自警受戒をおこない戒律を復興した。このあと叡尊は授戒によって多数の信者を獲得し、由緒ある寺々を次々に復興した。叡尊の周辺にも仏師たちがおり、仏像や舎利塔などが制作された。叡尊の門流は忍性によって関東にも広まった。
■第二部新仏教の誕生と展開
ここでは、従来にない新しい思想と行動を生み出して教団の祖師となった高僧を紹介する。
源空(法然)は承安五年(一一七五)に京都東山の大谷で専修念仏を説いた。これは、念仏は阿弥陀如来が選択した往生極楽のための唯一の行だとする画期的な主張で、社会に大きな反響を巻き起こした。
親鸞は源空門下のひとりで、その思想内容は独自の展開を遂げ、信じる心も念仏する心も、すべて阿弥陀如来から賜わったものであるという徹底した他力信仰に到達した。
日連は『法華経』だけを真実の教えとして、他宗を強く批判した。そして仏国土をこの世に実現しようと幕府への諌暁を何度も繰り返したため、生涯を通じて法難を受けた。一遍は「名号は信じるも信ぜざるも、となふれば他力不思議の力にて往生す」という名号への強い信仰のもと、名号を刷った小紙片をくぼりながら全国を遊行し、蹄念仏は世間の注目を浴びた。
こうした人々の肖像(画像、彫像)や伝記絵(絵伝)の制作は、後継者にとって重要な仕事であった。それらの作品は、従来の仏像や仏画に代わって信者の崇敬の対象となり、多くの転写本が作られて布教にも大きな効果を発揮した。
■第三部・「禅宗の受容と進展」
鎌倉時代には、わが国から中国へ渡った留学僧や中国からの渡来僧によって禅宗が広まった。この時代には禅宗は多くの派に分かれて展開しており、臨済宗や曹洞宗という宗派にまだ統合されてはいなかった。禅僧は比較的自由に移動し、めざす師について参禅した。
京都では、栄西や道元の活動のあと、摂政九条道家のに帰依を受けた円爾・えんに(一二四一年に帰国)が東福寺の開山となり、禅宗の本格的な発展が始まる。
円爾は密教にも精通しており、このような禅を兼密禅という。紀州由良の興国寺の開山となった無本覚心も兼密禅を代表する一人である。一方、鎌倉では、渡来僧の蘭渓道隆(一二四六年に来日)が執権北条時頼の帰依を受けて建長寺に住し、三十数年にわたる教化によって宋朝禅を広めた。
このあと幕府の招きなどにより、兀庵普寧(ごったんふねい)、無学祖元、一山一寧、清拙正澄といったすぐれた禅僧が渡来したので、宋朝禅は鎌倉を中心にして栄え、武士階級に多くの信者を獲得した。なお一山一寧は後宇多上皇の帰依を受けて南禅寺に住し、京都に宋朝禅を広めた。
禅宗では頂相と墨跡が尊重される。頂相は、大悟徹底して正しく法を嗣いだ証明に師から弟子へ与えられる師の肖像画で、像主を前にしてその容貌をありのままに写しとることを原則とした。墨跡は禅僧の筆跡を指し、嗣法や参学の証として、また師の人格や宗風を端的に伝えるものとして大切にされた。