仏教と道元
■日本仏教を捉え直す第4回(TimeFree) 2021.4.27
頼住 光子
▶️正法眼蔵に学ぶ
紀野一義
八百年前、曹洞宗開祖の道元禅師が越前の地に於いて記した哲学書『正法眼蔵』。その大著の中から抜粋し、禅とは何か、という教科書的な解説ではなく、道元がいかなる精神の人であったかということ。そして仏教書の域を超えた哲学書としての深さ、文学としての美しさについて、紀野一義先生が魂を込めて語る熱講。
■参考となる事項
▶️明全・・・(みょうぜん、元暦元年(1184年)- 嘉禄元年5月27日(1225年7月4日))は、伊賀国出身の鎌倉時代前期の臨済宗の僧。号は仏樹房。
初め延暦寺の椙井房明融に師事し、その後栄西に師事して法を継いだ。1223年(貞応2年)道元・高照・廓然らを伴って中国の宋に渡り、景福寺の妙雲、ついで栄西の師でもある太白山景徳寺の無際了派の下で学んだ。太白山にいること3年、病に倒れ、景徳寺了然寮で遷化してしまった。
道元は明全との師弟関係9年の間に、天台教学・臨済宗黄龍派の禅・戒律などを学んだが、明全の遺骨を持ち帰り「舎利相伝記」を表し、明全の戒牒に奥書を記して永平寺に納めた。
▶️道元・・・(正治2年(1200年)、京都の久我家(村上源氏)に生まれた。幼名は信子丸。両親が誰であるかについては諸説ある。一時定説化した仏教学者・大久保道舟の説によれば、父は内大臣・源通親(久我通親または土御門通親とも称される)であり、母は太政大臣・松殿基房(藤原基房)の娘である藤原伊子であって、京都・木幡の松殿山荘で生まれたとされていた。だが、説の根拠とされた面山瑞方による訂補本『建撕記』の記載の信用性に疑義があり、上記説の優位性が揺らいだ。これを受けて、上記説では養父とされていた、源通親の子である大納言・堀川通具を実父とする説も有力になった[4]。いずれにせよ、上級貴族、公卿の家の生まれである。四国地方には道元の出生に関して、「稚児のころに藤原氏の馬宿に捨てられていたのを発見され、その泣き声が読経のように聞こえるので神童として保護された」との民間伝承が残っている。これはキリストや聖徳太子の出生にまつわる話と混同されて生じたものである可能性も示唆されている。伝記である『建撕記』によれば、3歳で父(通親)を、8歳で母を失って[3]、異母兄である堀川通具の養子になった。また、一説によれば、両親の死後に母方の叔父である松殿師家(元摂政内大臣)から松殿家の養嗣子にしたいという話があったが、世の無常を感じ出家を志した道元が断ったとも言われている。この時の逸話として残っているのが、誘いを受けた道元が近くに咲いていた花を、その花に群がっていた虫ごとむしりとって食べはじめ、無言のうちにその申し出を拒否する意志を伝えたという話である。
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