戦争美術史概説

■戦争美術史概説

迫内祐司

▶日中戦争開戦

 昭和十二(一九三七)年七月の盧溝橋事件、続く八月の第二次上海事変の勃発によって日中戦争が拡大していったとき、画家たちの最初の反応は、自分たちにできることは何もないと考えた者を除けば(大方がこれに該当しよう)、二つあった。ひとつは絵画の献納運動。もうひとつは戦地への従軍志願である。

 献納運動としては、絵を換金して軍に寄付するパターンと、絵そのものを陸軍病院などに寄付するパターンがあった。後者は傷病兵の慰安を目的としたもので、昭和十三(一九三八)年には文部省内に組織された傷痍軍人慰問美術家連盟により、三五〇〇点を超える日本画・洋画が集められ、陸・海軍省を通して各地の病院に寄付されている。しかし、絵画作品自体が直接戦争の役に立てるという考えは、いまだほとんどの画家たちにはなかった。

 

 従軍志願した画家たちはどうだったろう。昭和十二年九月から年内にかけて、海軍省許可として小早川篤四郎、吉原義彦、岩倉具方(ともかた)らが、陸軍省許可として等々力巳吉(とどりきみよし)、中村直人、向井潤吉らが、次々に中国の各戦場へ従軍している。海軍は第一次上海事変(昭和七(一九三二)年)のときにいち早く和田三造に記録画を委嘱し、慮溝橋事件の直前には海軍が関わる大日本海洋美術協会(昭和十六(一九四一)年より大日本海洋美術協会)が発足するなど、以前から美術界と関わりを持っていたためか、従軍画家が多かった。といっても、十月には岩倉具方が敵弾を受け戦死しており、安全を保証する便宜が図られていたわけではない。

 写真やラジオやニュース映画がある時代に、美術家の従軍制度など整っていないという点は、海軍も陸軍も同じだった。大阪毎日新聞社と改造社の特別通信員として派遣された長谷川春子のように、ほとんどの画家が、何らかの報道機関の嘱託員として、あるいは個人の資格で従軍していったのである。このような危険をおかしてまで、画家たちが戦地に向かった背景には、当時の美術界の状況が大きく影響していたのかもしれない。

 満洲事変(昭和六(一九三一)年)と日中戦争をはさんで、美術家たちにとってどちらよりも身近で重大だった事件が起きている。昭和十(一九三五)年五月、文部大臣・松田源治が発表した帝国美術院および同院主催美術展の、抜本的改革(帝展改組)である。帝国美術院を挙国一致の指導機関とすべく、在野団体の有力作家を会貞として招致し、これまでの帝展の無鑑査資格を解消するという、一部の美術家を除くほとんどの者にとつては寝耳に水の話だったこの改革は、以後、二年間にわたる大混乱を招き、結局帝展を廃し、昭和十二年から新文部省美術展覧会(新文展)を開催することで、ようやく収束をみる。帝国美術院は帝国芸術院に名を変え、同年から文化勲章令を公布するが、これを、帝展改組によって文部省への不信感を募らせた美術界の重鎮たちへの懐柔策だったとする見方もある。

 日中戦争が始まったのは、このドタバタ劇で美術界がまだざわついているときのことだった。中村直人が「騒然とした日本にいても、どうせいい仕事はできっこない。それならいっそ戦争のド真ん中にのりこんで、新らしい体験をしてみよう」(NAONDO』昭和三十九(一九六四)年)との思いから、戦場へと飛びこんでいったのは、時代の閉塞感を打開しようとした多くの美術家たちに共通するものであったに違いない。

 軍が画家の従軍に本格的に身を乗り出しはじめるのは、昭和十三年のこと。この年、中支那派遣軍は初めて公式の「事変記録画」を十名の画家に委嘱し、五月、中村研一、小磯良平、南改善、朝井閑右衛門、向井潤吉、脇田和、柏原覚太郎、江藤耗平の人名が現地に従軍した。この企画は、当時応召中にあながさかはるおった画家で、同軍報道部員の長坂春雄、軍属鈴木栄二郎が、報道部長らと記念絵画制作について協議した結果、内地から帝展、二科会、新制作派協会の洋画家人名を招き、長坂・鈴木を加えた十名で制作しょうと決まったことだったらしい。

 

 軍が突然記録画制作に関心を持った理由は定かではないが、日中戦争の長期化は大きな理由としてあったはずだ。国民の多くは、盧溝橋事件は局地解決で済むだろうと考えていたほどで、長びきつつある事変に対し、軍は国民に戦争への同意をとりつける必要性が生じていた。戦争を「記録」するためというよりも美術作品によって戦争を「物語化」「歴史化」し、この事変が聖戦であることを国民に納得させるプロパガンダにしようとしたのではあるまいか。夏に内閣情報部が「ペン部かんこう隊」と呼ばれる小説家一行を浜口戦線に派遣したのも、同様の意図が読みとれる。

 さらに記録画や従軍画の公開を推進したのは、新聞社の力が大きい。最初に行動を起こすみきよししたのは、朝日新聞社の住喜代志という人物で、彼が従軍経験画家たちの展覧会を発案したことをきっかけに、昭和十三年六月に大日本陸軍従軍画家協会が結成され、翌年四月、まついいわね陸軍大将於井石板を会長におく陸軍美術協会へと発展。住は同会事務をとりしまるポストに就いている。同年七月、朝日新聞社が陸軍美術協会と共催で開いた、戦争に関する作品を公募した初めての美術展となる第一回聖戦美術展は、後援の陸軍省から特別出品された「事変記録画」を目玉に注目を集めた。

 大衆には熱狂的に歓迎された出品作品だったが、専門の美術批評家から見れば、流血も死体もなく、迫力がないと不満の声が漏れた。宣戦布告もなく始まった日中戦争のスローガンは「暴支膺懲(ぼうしようちょう・支那事変(日中戦争。対米英開戦以降は大東亜戦争に含まれる)における大日本帝国陸軍のスローガン)」であり、暴虐な中国人を懲らしめようという程度のものにすぎない。明確な戦争目的を持ち得なかったことは、画家たちに、敵としての中国人を描くことも、正面きって正義の日本兵を描くこともためらわせた。従軍画家でさえこうだったのだから、銃後の人々はなおさらいまが戦時下だという実感が稀薄だった。日中戦争期の美術界を見渡せば、文展にも在野展にも時局をうかがわせる作品は少なく、軍需景気にのって日本画が飛ぶように売れていたという。

 この間に海軍省軍事普及部が、事変記録画制作のため昭和十三年九月、六名の洋画家(藤島武二、石井柏亭、石川寅治、中村研一、田なべいたる辺至、藤田嗣治)戦地派遣を発表している。前回の陸軍の記録画が出先の中支那派遣軍からのものだったのに対し、今回は、本省からの派遣という点で、軍が本格的に美術界に介入してきたことを示している。昭和十六(一九四一)年の第五回大日本海洋美術展で完成作品が公開され、この頃から陸・海軍の公式記録画は、「作戦記録画」と呼ばれ始めるようになる。

■太平洋戦争勃発

聖戦美術展を見る女学生ら戦争美術関係の展覧会にはよく学校の団体が見学に訪れていた。穣極的に学校行事とするよう、教育現場に指辛があったのだろうか。昭和16(1941)年9月22日撮影。大阪市立美術館に巡回した第二回聖戦美術展会場机写真提供=朝日新聞社

 

 昭和十六(一九四一)年十二月八日の太平洋戦争勃発後、欧米帝国主義からのアジアの解放という新たな戦争目的を待ったことは、画家たちに戦争画を描くことは兵士と同等の戦争協力だという自信を与えた。 戦争画を手がける画家の顔ぶれや作風も様変わりする。藤田嗣治や宮本三郎ら、写実に高い技量を持つ欧米留学経験者によって、伝統的な西洋歴史画の大構図に挑戦した群像大作が展開され、日本兵が正面を向いて多様な動きをみせる劇的な描写になっていった。

 真珠湾攻撃やシンガポール上陸の報は、意外にも、長引く日中戦争が引き起こしたインフレや物資不足による鬱積(うっせき・不平・不満が晴らされずに次々と、心に一杯たまること)した気持ちを晴らせる、爽快な出来事として国民に受けとめられたらしい。小説家の伊藤整は、昭和十七(一九四二)年二月十五日の日記に次のように書く。

 「平均に幸福と不幸とを国民が分ちあつているという気持は、支那事変前よりも国内をたしかに明るくしている。そして大東亜戦直前の重っ苦しさもなくなっている。実にこの戦争はいい。明るい」(大平洋戦争日記(一)』昭和五十八(一九八三)年新潮社)。

 開戦から昭和十七年末頃までは、日本軍の圧倒的な勝利が続いていると信じられ、国民の戦意は高まりをみせた。これを維持、促進させるため、勝利が続いているときにはそれを誇る、戦況が悪化してからは敗北を隠す、または悲劇の英雄として祀りあげるものとして、終戦までに二〇〇点を超える作戦記録画が制作された。

 陸・海軍による昭和十五(1940)年以降に委嘱された主だった作戦記録画とそれが公開された主要展覧会をまとめると、下の表のようになる。

 [聖戦美術】(陸軍美術協会 昭和14〈1939〉年11月)昭和14年に開かれた第一国聖戦美術展の国鉄軍委嘱による初めての公式記録画が公開され、戦争にまつわる作品を公募した最初の戦争美術展だけあって、全出品作を収録した書筆画集である。

 販売用広告から一部30円だったことがわかる。宣伝文句は「東亜大業の大記念帖」「一家一冊聖戦を銘記せよ」との力の入れよう。裏面には、図録にはない陸軍美術協会会長・陸軍大将の松井石根による「発刊の辞」がある。(迫内)

 「主だった」としたのは、昭和十九(一九四四)年の文部省戦時特別美術展で公開されたしょうなん昭南神社への奉納絵画など、軍からの委嘱による作品が他にも存在することによるが、軍が「作戦記録画」と銘打って力を入れたのは大体ここに挙げた作品群とみてよい。ただし、委嘱後に画家が変更・追加されることも多く、右に挙げた委嘱人数はあくまで依頼時のものと見てほしい。ちなみに、藤田嗣治の《アッツ島玉砕》は、画家が自発的に制作した後、陸軍に献納、作戦記録画として認定され、昭和十八(一九四三)年の国民総力決戦美術展に出品された作品だった。藤田の作戦記録画数が突出して多いのは、こうした自発的な作品が含まれていることによる。

 第一回大東亜戦争美術展で中村直人の彫刻《ハワイ海軍特別攻撃隊の九軍神》が人気を博してからは、陸・海軍とも作戦記録彫塑として彫刻家を加えている。記録彫塑ではないが、昭和十九年の陸軍美術展(第二回)に複数出品された、植民地への建設を前碇としたモニュメントの模型は、軍からの課題であり、この頃軍は、軍神を祀りあげたり、植民地に日本の文化力の高さを見せたりするためのモニュメントに対する関心も強めている。

 作戦記録画公開を目玉とする聖戦美術展、陸軍美術展、大東亜戦争美術展は陸軍・海軍が後援になっており、太平洋戦争後、軍は公開に力を入れるようになったとみていいが、そのほとんどを主催したのが朝日新聞社であり、機動力だった。画家の選定にも、先述の住が関わることがあったという。重要なのは、こうした展覧会が天皇や皇族の天覧ムロ覧を経たうえで、列島、満洲各地を巡回していったことで、とくに陸軍美術協会が関わる展覧会は、昭和十四(一九三九)〜二十(一九四五)年にかけ、全国で各地の新聞社などと結びつきながら一七〇回ほど開かれている。昭和十人年度の陸軍作戦記録画は「大東亜共栄圏」への巡回(昭和十九年度以降、同圏には「複製」を回す)も計画されており、天覧賜わった記録画の巡回というシステムにこそ、作戦記録画の真意があったといえるのかもしれない。

■悪化する戦局

 昭和十七(一九四二)年六月のミッドウェー海戦における日本軍の敗北を境に、戦局は悪化の一途を辿る。音楽や文学の分野では、大日本音楽文化協会(昭和十六(一九四こ年)、日本文学報国会(昭和十七年)が相次いで設立されるなど統制が進み、美術界では昭和十八(一九四三)年五月、情報局の指導のもと、全美術家の統制機関として日本美術報国会(美報)が、全美術制作資材の統制・配給機関として日本美術及工芸統制協会(美統)が発足した。自由な制作が許されなくなった在野の美術団体はこれまでにほぼすべて解散を余儀なくされ、絵具などの制作材料は配給制となり、昭和十九(一九四四)年九月に情報局から公布された「美術展覧会取扱要綱」によって、日本美術報国会の関与しない展覧会を開催することが難しくなる。

 昭和十九(一九四四)年に入ったころから従軍画家は激減、藤田嗣治も夏には神奈川県相模原の藤野に疎開し、仲間たちにも疎開するよう呼びかけている。実質、南方への従軍は難しくなり、画家たちは現場を見ずに、また写真などの資料も限られたなかで作戦記録画を描かなければならなくなった。これに苦労する画家もいたが、一方でこのことは、画家たちを束縛していた、固定化されたイメージからの解放という自由を与えもした。宮本三郎の《山下、パーシバル両司令官会見図》(下図)は、大衆にすでに浸透していたイメージから逃れるすべがなかったがゆえに、報道写真を下敷きにせざるを得なかったが、戦争末期には画家たちは写真への引け目を感じることが少なくなっていた。

 このことを最大限に利用したのが、やはり藤田嗣治だった。昭和二十(一九四五)年四月の陸軍美術展(第三回)に作戦記録画として出品された《サイパン島同胞臣節を全うす》は、昭和十九年度の作戦記録画計画に該当する課題が見あたらないことから、課題によらない自発的制作であった可能性が高い。アメリカの雑誌『TIME』の記事を材料とした可能性が指摘されているが、充分な写真資料が入手できたとは思われないなか、藤田は疎開先のアトリエで、想像力を最大限に発揮しながら、おそらく嬉々として本作を描いた。

 この作品も《アッツ島玉砕》も、その悲惨さゆえに、ときに藤田の厭戦意識の表れと言われることがあれば、いやこれらは戦中期には殉教図として拝まれていたと反論がなされる。つまるところ、藤田の戦争画が見ようにょって戦意高揚画にも反戦画にもなりうるのは、これらが軍からの課題に屈しておらず、作品として自立しているからだろう。《サイパン島同胞臣節を全うす》は、東京大空襲のため一カ月遅れでの開催になった陸軍美術展(第三回)に本当に出品されたのかはっきりせず、戦中この絵を観た者はほとんどいないと半ば伝説化されているが、この展覧会は仙台市、福島市、山形市、秋田市、盛岡市、青森市、弘前市を巡回しており、本作は「サイパン同胞最期の絵は全くつらい、戦争には絶対負けられないよ」(福島会場)と、観者を感動させている(平瀬礼太「「陸軍」と「美術」」『軍事史学』二〇〇八年六月)。弘前市での最後の展覧会は昭和二十年七月のこと。作戦記録画は終戦直前まで、全国を回り続けていたのである。

大東亜戦争陸軍作戦記輌観(陸軍美術協会 昭和18〈1943〉年9月)昭和17年の第一回大東亜戦争美術展に出品された、陸軍作戦記録画23点を収録する画集。本の形態ではなく、1枚ずつ額装できるようになった、青草本である。別冊の解説書には、記鐘画を担当した画家自身による解説が収められている。(迫内)

■終戦、その後

 猪熊弦一郎は、比較的早い時期にこのことについて発言している。「戦争画、あれは一つの記念塔だと思ひます。記録画は、一つの世紀の記録になる。しかし戦争によって絵画全部が進展したといふことはいへませんね。みんな出直しです」(「これからの絵画」『婦人朝里昭和二十一(一九四六)年四月号)。

 

 戦後に現れた、香月泰男の《シベリア・シリーズ》や浜田知明の《初年兵哀歌》は、反戦を目的としたものではなく、「戦争」という個人的体験を深化させた作品だった。では「戦争画」が戦後に実らせたものはなかったのだろうか。

 昭和十八(一九四三)年七月に宇都宮市に巡回してきた大東亜陸軍聖戦美術展を観た画家の武藤玲子(一九二九〜)は、このときが初めて油絵を観た機会であり、「展覧会は戦意高揚を目的としたものだったけれど、あれだけの本物の油絵を見せてくれたことには、感謝している」と、自分の洋画体験として筆者に語ってくれたことがある。また美術家の菊畑茂久馬(一九三五〜)は、自分が小さい時から絵が好きになった理由として、「防空頭巾をかぶって戦争画の大展覧会を観た。そして戦争画の大画面の前に立った時、その絵たちがどんなに私を勇気づけたか、どんなにつらく淋しい胸を抱きしめてくれたか」と語る(「有畑茂久馬著作集1』平成五(一九九三)年 海鳥社)。菊畑が、戦後早い段階から戦争画について発言してきたのは、美術家としての自分の出発点になった「戦争画」とは一体何だったのだろう、という自己への問いかけから始まったものに他ならない。

 戦争画が少年少女に良い影響を与えたなどと言いたいわけでは無論ない。ただ戦争美術展の地方巡回が、内容に思想的な問題があったとしても、画家を夢見る地方の少年少女らにとって、一流の画家たちの作品を見る機会であったということ。戦争画を否定していくだけでは戦後の美術が見えてこない、ということだ。「戦争画とは一体何だったのだろう」という問いかけは、個人ではなく、いまなお美術史全体に投げかけるべき問題なのだろう。

(さこうちゆうじ・小杉放奄記念日光美術館学芸員)


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