負の世界遺産(mook)

■ナチスに虐げられたユダヤ人の記憶

 「あなたになら、これまでだれにも打ち明けられなかったことを、なにかもお話しできそうです。どうかわたしのために、大きな心の支えと慰めになってくださいね」(深町眞理子訳『アンネの日記』文春文庫より)。

 1942年6月12日に記されたこの文章で始まるアンネ・フランクの『アンネの日記』。「強制収容所で殺される」という噂を聞きつけたアンネを含む家族8人はアムステルダムにある父の事務所を改造し、「隠れ家」での生活を送る。母や姉との葛藤、直前だった祖母の死、ベーターとの恋・・・13歳の少女アンネはその様子を生き生きと描き出した。しかし、日記は44年8月1日で突然終了している。8月4日、密告によって隠れ家は秘密警察に発見され、8人は列車でアウシュヴィッツへと送られたのである。最終的に父オットーを除く7人が強制収容所で死去アンネはベルゲン・ベルゼン強制収容所で亡くなった。

 ナチスは健康なアーリア人を優遇するアーリア人至上主義を掲げ、とくに心身に障害を持つ人や、移動を繰り返すロマ人(ジプシー)、富裕層を形成するユダヤ人を排斥しようとした。決定的なのが35年のニュルンベルク法だ。この法律によりユダヤ人の社会活動は禁止され、ゲットーとよばれる居住地に押し込められ、「ユダヤの星」を胸につけることを義務づけられた。

 40年代に入るとナチスは各地に強制収容所を作り、ユダヤ人や戦争捕虜を送り込んだ。人々は全財産をバッグに詰め、行き先も告げられずにバスや列車に乗せられ、連れ去られた。ポーランド南部の街オシフィエンチムの周辺には、ナチス最大規模を誇る三つの収容所があった。第一収容所アウシュヴィッツ、第二収容所ビルケナウ、第三収容所モノヴィツツだ。

 収容所に到着すると男女で部屋を分けられ、財産を没収。そして頭髪を剃り全身を消毒されたのち、各人に番号が振られ写真撮影が行われた。数人に一台のベッドが割り当てられ、ベッドが一杯になると狭い横穴に藁を敷き、そのなかに詰め込まれた。食事は腐りかけの野菜を煮込んだ、ほとんど具のないスープ。生活環境は劣悪で、多くの囚人がチフスなどの疾病や栄養失調で亡くなつた。



 そして囚人たちは高圧電流が流れる鉄条網のなかで毎日10時間の労働に従事した。命令に従わない者には鞭打ちの罰が与えられ、脱走を企てると連帯責任として同室の者全員が処刑された。銃殺刑、絞首刑、餓死刑、窒息刑などが収容所に到着するとすべての所持品が没収された。収容所に連れてこられると男女間わず、すぐに頭を丸刈りにされたガス室でチクロンBを撒かれ殺されると、死体の山は隣接する部屋にある焼却炉で焼かれた執行され、遺体はみせしめに放置されることもあったという。

 後年になると収容所は囚人を抹殺する「絶滅収容所」と化す。毎日数千人が殺されたといわれるが、銃殺や絞首刑では間に合わず、チクロンBという毒ガスが使われた。ナチスは囚人たちを集めて「シャワーを浴びさせる」といってガス室に送り込み、チクロンBを散布した。人々は20分にわたり苦しんだあげく、亡くなったとされる。

■150万人が犠牲になった強制労働と虐殺の痕跡

 45年1月、ソ連軍の侵攻によって収容所はようやく開放される。モノヴィッツはこのとき爆破されたが、アウシュヴィッツとビルケナウは当時の様子を今日に生々しく伝えている。

 現在、アウシュヴィッツには「働けば自由になる」と書かれた正門の奥に28棟の囚人棟が立つ。ベッドやトイレを備えた収容室から、チクロンBの空き缶の山や、頭を刈ったときに出た大量の髪の毛、髪でできた布、囚人たちの遺品、眼鏡や義手義足、顔写真等が陳列されている。「死のブロック」とよばれる11号棟には座ることの許されない「立ち牢」、囚人を亡くなるまで監禁した「餓死室」「窒息室」があり、大量虐殺の現場であるガス室と焼却炉も当時の面影を色濃く残す。

 アウシュヴィッツが囚人で一杯になったために急造した収容所がビルケナウだ。「死の門」の先に70棟ほどの囚人棟が並んでいる。木造やレンガ造りのそれはアウシュヴィッツのものよりはるかに粗末で、床もベッドもない横穴に、ウナギのように数人が押し込まれた。ガス室と焼却炉は証拠隠滅を図ったナチスによって爆破され、いまではその跡だけが残っている。一説では、これら3つの収容所で150万人が殺されたとさえいわれている。ほかの収容所も合わせると、犠牲者は600万にもおよぶという。

 79年、ユネスコは、人類史の負の側面を示す記憶すべき場所としてこれらの物件を世界遺産に登録した。この事実を未来永劫、語り継ぐために・・・。