遺伝子組換え植物(text)

はじめに(このパンフレットを作った理由)

 10年ほど前、ごく親しい人から「何と言われても遺伝子組換え食品は食べない」と言われ、複雑な気持ちになりました。なぜなら、その人(だけでなくおそらくすべての日本人)は、すでに日常的に遺伝子組換え食品を口にしていたからです。ここでいう遺伝子組換え食品とは、遺伝子組換え植物を原料に用いた食品です。現在(2015年)、日本が輸入している主要農作物の重量比にして半分程度が遺伝子組換え技術を利用して作られた品種です。これらの農作物は家畜飼料にも多く使われるので、すべてを私たちが直接食べるわけではありませんが、日本の現在の食生活は遺伝子組換え植物抜きには成り立ちません。

 大量に遺伝子阻換え植物を消費している一方で、ある調査によれば日本では7割の人が遺伝子組換え植物に不安を抱いています。食品としての安全性を心配している人もいれば、環境への影響を心配している人もいます。私は学生時代から現在まで遺伝子組換え植物を研究に使っています。その観点から言えば、私は遺伝子組換え植物についての専門家と言えるかもしれません。「遺伝子組換え食品は食べない」と言われたとき、私はその理由を聞くことをしませんでした。「嫌なものは、嫌」といった感情的な答えが返ってくると予想したからです。そして、世の中の見渡すと「嫌だ」、「不安だ」と一般の人(ここでは、遺伝子阻換え植物の専門家でない人を指します)が感じるのは無理もないと思いました。同時に、大量に消費しておきながら、「嫌だ」、「不安だ」と多くの人が感じる社会に違和感を覚えました。すでに大量に食べているから安心だというつもりはありません。もし遺伝子組換え植物が健康や環境に悪いものなら、私たちは真剣に避ける努力をした方がよいでしょうし、悪いものでなければ、いたずらに不安を感じる必要はありません。

 その後、私は一般の人に「遺伝子組換え植物」について知ってもらう試みを始めました。多くの場合、不安を抱く最大の原因は情報不足だと考えたからです。この10年ほどの間、私は多くの一般の人に「遺伝子組換え植物」について話をし、その人たちの考えを聞くことができました。これらの機会は私にとっても非常にためになりました。専門家と一般の人では問題のとらえ方が大きく異なり、「遺伝子組換え植物」についての不安や疑問の多くは、私が専門とする科学的な問題に起因するのではないことがわかりました。一言で答えるのが難しい疑問も少なくありませんでした。例えば、「絶対に安全なのか?」、「なぜ開発する必要があるのか?」、「自然への冒とくではないか?」「食料が支配されるのではないか?」「子孫への影響はないか?」、「遺伝子組換えは完成された技術か?」などといった疑問です。私は遺伝子組換え植物を実験に使いますが、食品や法律、経済の専門家ではないので、こうした疑問について自分でもよく考え、勉強しなければなりませんでした。科学者の間でも議論しましたが、メディア、行政、消費者団体、生産者(農家)、開発企業、高校教員、遺伝子組換えに反対している人、など多くの人たちと対話する機会を多く持つことができました。こうした人たちの中には、遺伝子組換え植物のある側面については、私より「専門家」である人もたくさんいました

 私が提供する情報をもっと多くの人に伝えてほしいというご意見をいただくことが少なくありません。遺伝子組換え植物に関する詳しい情報はインターネットや書籍を調べれば知ることはできますが、わかりやすい情報は必ずしも多くありませんし、忙しい多くの人たちが、自分で調査し情報を整理することに時間を費やすのはたいへんだと思いました。そこで、一般の人に知っていただきたい「遺伝子組換え植物」に関する情報のポイントをこのパンフレットにまとめました。少しでも「遺伝子組換え植物」に関心を持っていただくきっかけになることを願っています。専門家から見ると、説明が不十分な点も多いと思いますが、一般の人とのコミュニケーションのツールに使っていただきたいと考えています

 ちなみに、10年前に遺伝子組換え食品は食べないといった知人は、現在では、どうすれば一般の人が遺伝子組換え植物に関する適切な情報にアクセスできるかについてアドバイスをくれます。2013年に作成したものに微修正を加えました。

2015年3月 小泉 望

■安全と安心、絶対安全(つまりゼロリスク)

▶本題に入る前に安全について少し考えてみましょう

 安全・安心という言葉をよく耳にしますが、安全と安心は違う概念です。安全は客観的、科学的に評価できますが、安心は主観的な心の持ち方です。実際には安全なものであっても、安心できない、つまり不安を抱くことは少なくありません。特によく知らないものに、私たちは不安を感じます。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」ということわざがありますが、正体がわかればこわくないのに、得体(えたい)の知れないものに不安を感じるのは本能として正しいそうです。危険「かもしれない」情報に注意しなければ、場合によっては命にかかわるからです。一方で、枯れ尾花をいつまでもこわがる必要はないでしょう。

 ここで、(なるべく答えを見ずに)以下の2つのクイズに挑戦してみてください。

○クイズ1

 Aという物質は次のような性質を持っています。酸性雨の主成分である。温室効果を引き起こす。ひどいやけどの原因となりえる。窒息死を引き起こすかもしれない。多くの物質の腐食やさびを進行させる。電気事故の原因となり、自動車のブレーキの効果を低下させる。工業用の溶媒、冷却材として使われる。原子力発電所で使われる。防火剤として使われる。末期がん患者の悪性腫瘍から検出される。各種の残酷な動物実験に使われる。農薬の散布に使われる。

さて、Aの使用を法律で禁止すべきでしょうか?

○クイズ2

 Xという元素は次の性質を示します。各種のジャンクフードに添加されている。地形の浸食を引き起こす。

 非常に反応性の高い金属で、水に固体を投げ込むと反応熱で溶融し爆発する。空気中で生じる酸化物は、アルカリ性が高く素手で触れると皮膚をおかす。

 一方、Yという元素は次の性質を示します。 常温常圧では特有の臭いを有する黄緑色の気体で強い毒性を持ち、人類初の本格的な化学兵器として使われた。有機物と反応すると発がん性が疑われる多数の物質を生じる。

▶2つの元素からなるXYという化合物の食品への添加を認めても良いでしょうか?

 クイズの答え 2つのクイズは一種のジョークです。クイズ1はアメリカで考えられたものに少し変更を加えました。物質Aは水です。クイズ2の元素Xはナトリウム、元素Yは塩素で、化合物XYは塩化ナトリウムつまり食塩です。この2つのクイズは、問いかけの方法(あるいは情報提供のあり方)によって、不安を感じる例です。

▶飛行機は安全な乗り物でしょうか?

▶飛行機が安全かと聞かれたら、どう答えますか?

 完全に安全とは言えないでしょうが、それでは飛行機は危険な乗り物でしょうか?飛行機が事故を起こすリスク(危険性)はゼロではありませんが、ベネフィット(利点)も多いので、多くの人が飛行機を利用します。つまり、リスクとベネフィットを考えながら私たちは生活していますも 多くの人は安全かどうかを聞きたがりますが、絶対安全(つまりリスクがゼロ)と答えることは簡単ではありません。食品に関してもゼロリスクはありえません。食塩も取りすぎると健康に良くありませんし、多くの食品に天然の発がん物質が含まれます。

■品種改良(育種)

▶人類はその歴史の中で植物の性質を変えてきました

 現在、私たちが目にする農作物や家畜のほとんどは自然にあったものではありません。人類は、植物や動物の性質を自分たちにとって都合のよいように変えてきました。そして、私たちの生活が豊かになりました。作物や家畜の性質を変えることを品種改良あるいは育種と呼びます

▶栽培化と品種改良

 私たち日本人の食卓に欠かせないお米(イネ)にはさまざまな品種があります。コシヒカリやササニシキという品種名を多くの人がきいたことがあるでしょう。しかし、人類が農業を始めた時からコシヒカリやササニシキがあったわけではありません。

おそらく8000年ほど前に今の中国で、イネの祖先(野生イネ)が栽培されるようになったと考えられています。現在、私たちが目にする栽培イネと野生イネには大きな違いがあります。例えば、野生イネの穂に実る種子(お米の粒)は、熟すると地面に落ちてしまいます。この性質を脱粒性といいます。野生の植物の多くにとって、種子を遠くにまで運び子孫を広げるために脱粒性は重要な性質ですが、種子がこぼれ落ちる脱粒性は人間が農業を行う上では都合の良くない性質です。脱粒性を失ったイネは突然変異の結果、偶然見つかったものと考えられます。数千年の農業の歴史において、品種改良は計画的に行われたのではなく、多くの場合、自然突然変異により農業生産に都合がよい性質を持つものを見つけ出し、それを伝えることだったと考えられます。

 有名なメンデルの法則は1900年に広く認められました。つまり、今から100年少し前に遺伝の原理が明らかになり、それ以降メンデルの法則に基づいた計画的な品種改良(育種)が行われるようになりました。異なる性質を持つ品種どうしを交配(交雑)させることで、新しい性質をもつ品種や優れた性質をあわせ持つ品種を作り出すことが行われるようになりました。交配による品種改良は今もさかんに行われています。品種改良は高度な農業技術です。日本の品種改良のレベルは高く、おいしいお米や果物がたくさん開発されています。例えば、りんごの「ふじ」は世界的にもたいへん優れた品種です

 品種改良は生物の性質を決める遺伝子の組み合せを変えることとも言えます。品種改良の可能性を広げるには、多様な遺伝子を使うことが効果的です。メンデルの法則が発見された当時、遺伝子の本体は分かっていませんでしたが、1944年、エイブリーらの実験により遺伝子の本体がDNA(下図・G.A.T.Cの遺伝子)であることが証明されました。

 つまり、DNAの多様性が重要であると考えられるようになりました。離れた場所に生えている植物間のDNAの多様性は大きいと考えられるので、DNAに多様性を与えるために自然には交雑しないような遠く離れた場所の植物を交雑させたり、植物に放射線を照射したり、変異剤を与えたりしてDNAに変異を与えることが行われるようになりました。例えば病気に強いなし品種の「ゴールドニ十世紀」の育成には放射線照射が利用されました。

▶緑の革命

 1940年から1960年にかけて、収量の多い小麦やイネの品種改良が進みました。新しく開発された品種は、草丈が低いため多くの窒素肥料を与えても倒れにくいという性質をもっていて、窒素肥料の投入により多収が可能となりました。その結果、20世紀半ば過ぎから、メキシコや東南アジア等の国々で穀物生産が飛躍的に増加し、多くの国が穀物輸入国から輸出国へと転じました。この農業の変革は「緑の革命」と呼ばれ、中心的な役割を果たしたポーローグは多くの人の命を救ったという理由で、1970年にノーベル平和賞を受賞しました(緑の革命については、従来の農業体系を破壊したといった批判も少なくありません。この議論は、郊外型のショッピングモールによって、昔ながらの商店街がさびれてしまうといった問責と似ているかもしれません)。

▶トマトとイタリア料理

 トマトなしのイタリア料理を想像することは難しいかもしれません。しかし、トマトはジャガイモと同様、南米(アンデス)原産で、コロンブスの新大陸発見より前にヨーロッパにトマトはありませんでした。野生のトマトには毒性の強いアルカロイドが多く含まれていて、ヨーロッパでトマトが食べられるようになったのは18世紀以降とされています。少なくともレオナルド・ダ・ピンチやミケランジェロはトマトを食べていないでしょう。日本でもトマト(特にミニトマト)の品種改良はさかんで、次々と新しい品種が店頭に姿を見せています。