■白川郷・五箇山の合掌造り集落 (世界遺産登録年:1995年)
白川郷の集落は大型の木造民家群から構成されています。茅葺きの合掌づくりの大きな屋根の下は3~5階からなり、1階は広い居室空間、2階以上は屋根裏部屋の寝室あるいは作業空間となっています。1棟には数十人からなる大家族が住むのが一般的でした。
この種の18・19世紀の民家約50棟が集中して残る荻町地域は、山間の田畑のなかに位置し、周囲を広葉樹林が囲み、民家は中央の谷筋の方向に平行して棟を並べ、急勾配の茅葺屋根とあいまって、独特の集落景観を構成しています。
白川郷は本州のほぼ中央の山間部にあります。この地は17世紀末期から江戸幕府の直轄支配下にあり、住民の多くは農耕のほかに山林樹木の伐採・搬出や養蚕を生業としていました。民家内の屋根裏部屋では、養蚕の作業なども行なわれていました。
また、「結」と呼ばれる住民の相互扶助組織があり、屋根の蓑き替えなどの家屋維持を共同して行なう慣習が残る点も興味深いものです。居住と作業のための大規模な空間をもち、大家族が暮した民家の連なる白川集落は、世界的にもユニークな景観を成しています。
■歴史的根拠
集落は、険しい山岳地帯にある農村で、この地方独特の「合掌造り家屋」を中心とした伝統的な集落景観と周辺の自然環境をよく残している。合掌造り家屋は日本の他のどの地方にも見られない特異な形態を示す貴重な民家であり、それらが群として残る3集落は世界遺産条約第1条に定める文化遺産の種類「記念工作物」「建造物群」「遺跡」のうち「建造物群」に該当している。なお合掌造り家屋の構造と特色は、補論「合掌造り家屋の概要」に詳述している。
▶地理
3集落は、白川郷と五箇山地方に所在する。この地方は、日本の代表的な高山の1つである白山(白い山の意味。1年のうち半年以上が雪に覆われ、また、その姿が美しいのでこの名がつけられた。休火山:標高2702m)を中心とする深い山岳地帯であり、しかも、日本有数の豪雪地帯である。1950年代まではこの地域の集落と地域外との交渉は極めて限られ、そのために合掌造り家屋によって特色づけられる独特の文化が形成され、継承されてきた。日本全国に交通網の発達した今日の日本でも、最もアプローチの困難な地域の1つに数えられ、かつては「日本に残された最後の秘境」とまでいわれたこともある。
この地域の中心には、南の山々にその端を発し日本海へと注ぐ庄川が、1500m前後の山並みを縫い、深い渓谷を刻みながら南北に流れている。山地は全て急峻な地形のため、この地域のほとんどの集落は、庄川流域に形成された狭い段丘面に所在している。荻町、相倉、菅沼の3つの集落もそうした集落である。
▶歴史
白川郷と五箇山地方は、8世紀頃から始まった白山を信仰の対象とする山岳信仰の修験の行場として開かれ、長い間、仏教の一宗派である天台宗教団の影響下にあった。また、人里離れた深い山間の地であることから、12世紀後半の源氏と平家の二大武家勢力の争いによって敗れた平家の落人の伝説が、いまでもこの地域の多くの集落で語り継がれ、信じられている。13世紀中期以降になると、仏教の一宗派である浄土真宗がこの地域に浸透し、各集落に寺や道場(布教所)が設けられた。現在でも、この地域の人々の多くは浄土真宗の信仰に篤く、寺や道場を中心として行われる各種の宗教行事は伝統に則って行われていて、地域社会の強い精神的結びつきの拠り所となっている。
「白川郷」の地域名が文献で初めて確認されるのは12世紀中期であり、「荻町」の集落名は15世紀後期、「五箇山」は16世紀初頭、「相倉」は16世紀中期、「菅沼」は17世紀前期であり、これ以前にそれぞれの集落が成立していたことがわかる。
白川郷は江戸時代の初めは高山藩領であったが、17世紀末以降、明治維新に至るまで江戸幕府の直轄領であった。五箇山は江戸時代を通じて金沢藩(加賀藩)領であった。明治時代になると、白川郷の41集落のうちの23集落が岐阜県白川村に属することになり、荻町集落も白川村の一部となった。また、五箇山の70集落のうちの25集落が富山県平村、19集落が上平村に属して、相倉、菅沼の各集落もそれぞれの村の一部となり、近代的な行政組織に組み込まれて現在に至っている。
a) 合掌造り家屋の形態と構造
合掌造り家屋の大きな特色の1つは、柱や桁、梁で構成される軸組部と叉首台(ウスバリと称する)から上の小屋組部が、構造的にも空間的にも明確に分離されていることである。
日本の一般的な民家では、上部の構造を支える束が軸組部を構成する桁や梁から立ち、あるいは柱や桁に仕口を造って組まれた梁が叉首台を兼ねるなど、軸組部と小屋組は構造的に繋がり、明確には分離されていない(図6-2、3、4)。また、土間や居室では、天井を設けずに軸組部の空間が小屋組部まで吹き抜けとなっていて、下から小屋組と屋根裏が見えるものが一般的である。これに対して、合掌造り家屋では、下屋を除く主軸部の上部は桁と梁で一旦、平坦に組み上げられ、その上に叉首台を置き並べて叉首を組む構造であり、軸組部と小屋組は構造的に明確に分離されている(図2-1、2、3)。また、土間の上部や居室の上部を吹き抜けにすることはない。これらのことは、他の地方に見られない合掌造り家屋の大きな特色である。
この軸組部と小屋組部の構造的な明確な分離は、合掌造り家屋の建築の方法に関わっている。つまり、この地方では、軸組部は専門的な技術を持った大工の仕事であるが、礎石の据え付けと小屋組部と屋根の材料の確保、加工、組み立て、葺き上げは、伝統的な互助制度である「ユイ」で行われることによっている。したがって、軸組部の部材は台鉋等によって丁寧に仕上げられ、多種の仕口や継手によって組み立てられるが、小屋組と屋根は、丸太材のままか斧や手斧による粗い仕上げとなり、部材の組み立ても稲縄やマンサクの木や蔓のようなもので結ぶだけとなっている。
軸組部については建築の費用が必要であるが、小屋組と屋根については費用が必要でないという制度は、現金収入を得ることの少なかった山村の経済的条件から生じた生活の知恵である。こうした、専門的な仕事と相互扶助による仕事の明確な分離も、この地方独特のものであり、他では見られないものである。なお、この地方のような山深い山村では、大工が独立して生計が立てられるほどの経済的な余裕はなかったので、専門的な大工は存在せず、家を建てるときには、他の地方から大工を呼び寄せて造らせていた。
b)軸組部の構造
基礎は自然石の礎石とし、その上に角柱をひかり付けて、1間または1間半間隔で密に立て、頂部を桁と梁で固め、途中に多くの貫と差し鴨居を入れて、軸部を強固に固める。上屋の梁間(ここでは叉首の下弦材となるウスバリの長さ)は一般に3間から4間であるが、規模の大きなものでは6間以上に及ぶものもある。多くの場合、片側または両側に半間の下屋を設けて梁間をさらに拡張している。この場合、梁間中央付近に桁行方向に架かる牛梁と側柱の間に、チョウナバリと呼ばれる根曲材の梁を架けて、上屋柱を抜いて下屋を室内に取り込む工夫をしている(図3)。
チョウナバリは、雪深い急傾斜地のために根元が曲がって成長した樹木を利用したものであり、土地の気候風土によって得られる資材を有効に活用し、また、構造力学的にも優れた利用法であると評価できる。このような梁の利用は、北陸地方を中心とする豪雪地帯の民家にも見られるものであり、必ずしも白川郷と五箇山地方に限られたものではないが、合掌造り家屋の構造的な、あるいは室内の空間構成の特色の1つとすることはできる。
桁より下の構造的な特色としては、一般的な民家に比較して柱や梁等の部材が太く、また、時代が下がるものでも側廻りや部屋境の柱は1間または1間半毎に立て、貫を密に入れるなど、全体に堅固に造られていることである。これは、大きな屋根とそこに積もる雪の荷重に耐えるためのものといえる。
c)小屋組の構造と屋根
小屋組は、水平に組まれた桁と梁の上に1間毎に叉首台を並べ、その上にそれぞれ1組の叉首を組む。叉首尻は細く削って叉首台の両端部にあけた穴に差し、先端の組み手は相欠きとしてマンサクの木で縛り、組手の上に棟木を乗せる。勾配は60度に近い急勾配とするが、建築年代の古いものほど勾配は緩く、新しいものほど急になる傾向がみられる。叉首台上には木や竹の簀子、あるいは板を並べて床を造り、小屋内が利用できるようにしているが、さらに、叉首によって造られる三角形の空間を2-3層、規模の大きな家屋では4層に分けて、高度な利用を図っている。小屋内の利用は主に養蚕の作業場にあてるためである(図4)。
小屋内に層を造る場合には、ガッショウバリと称する水平材を叉首に差して鼻栓で留め、その上に簀子を並べて床を造る。妻は板壁としているが、通風と採光のために窓を開けて明り障子などの建具を建てる(白川郷では妻の壁はやや外側に傾斜して造るが、五箇山地方では垂直に立てるのが普通である)。叉首の上には丸太の横材(ヤナカ)を置き、垂木を並べ、葭簀を張って茅葺きの下地とする(図2-4)。なお、切妻造り屋根の構造上の弱さを補うために、叉首の外側または内側に大小の数組の筋違いを襷に入れている(図2-4)。
以上の小屋構造を日本の一般的な民家と比較すると、その特色は次のようになる。
日本の農家では、寄棟または入母屋造りの茅葺き屋根とするのがほとんどである(図5-1、2、3、図6-1)。切妻屋根とする場合には、棟方向の外力に耐えるために、小屋貫で固めた小屋束で棟木と母屋を支える構造とし、叉首構造を採用しないのが普通である。この場合、勾配は20度以下の極めて緩いものとなり、したがって、茅葺きではなく板葺きとする(図6-2)。これらのことからすると、切妻造りでありながら、叉首構造を採用し、茅葺き屋根としている合掌造りの家屋は極めて特異な存在といえる。
合掌造り家屋が叉首構造を採用したのは、豪雪地帯で屋根勾配を急にする必要があったためでもあるが、小屋束や小屋貫に邪魔されない広い空間を小屋内に確保したかったからでもある。同様に、一般的な日本の茅葺き屋根の民家では、屋根の勾配は45度以下とする場合がほとんどであるが、合掌造り家屋では60度に近い急傾斜の屋根としているのも、豪雪と小屋内の利用のためである。
叉首構造の構造上の弱点がありながら切妻造りとしたのも、小屋内を養蚕の作業場とするために妻からの通風と採光が必要であったからであるが、この構造上の弱点を屋根野地面に筋違いを入れることによって解決していることは、合掌造り家屋にのみに見られる独特の工夫であり、他の地方の民家には見られないものである。
以上のことから、日本の一般的な農家が、軒の低い地に伏せるような屋根で、周囲の自然に調和し、融け込むような外観(図5-1、2、3)であるのに対し、合掌造り家屋は、地面から立ち上がり、厳しい自然に対抗するかのようなイメージの外観(図1-1、2)となっていて、日本の他の地方ではみられない極めて特異な形態を持つ民家といえる。
なお、日本の一般的な民家では、小屋内は全く利用しないか、あるいは利用したとしても藁や茅などの資材をストックするといった消極的な利用であるが、これに対して、さまざまな工夫をして小屋内を養蚕の作業場などに積極的に利用している合掌造り家屋は、極めて特異な存在である。
先述したように、叉首台は桁と梁の上に置いて単にダボで横にずれるのを止めるだけとしているが、このことにより、屋根と小屋組から軸組部に伝わる力は単純な垂直荷重だけとなり、曲げモーメントは伝わらない合理的な構造となっている(図3)。 また、叉首尻を尖らせて叉首台に開けた穴に差し込んでピンに近い接点を造っていることや、引っ張り力を受けるための叉首台を薄い材料としている点などは、構造力学が明確に理解されていることを示している。このような合理的な造りとなっている叉首構造は、合掌造り家屋に限っていないが、それほど多くの例はない。合掌造り家屋が日本の民家のなかで、構造的に最も発達した形式に属する証拠の1つといえる。
d) 平面の規模と形態
合掌造り家屋は他の地方の民家に比較して、規模が大きいといえる。江戸時代末期から明治時代頃の民家の標準的規模は梁間3間〜3.5間、桁行4間〜6間程であったと考えられる。これに対して、白川郷と五箇山地方の合掌造り家屋は、小規模のものでも梁間3.5間、桁行7間程であり、庄屋クラスの大きな家屋では梁間7間、桁行12間を超える例も見られ、日本の一般的な民家に比べて規模が大きいといえる。合掌造り家屋の規模が大きい理由は、両親とその長男夫婦と弟姉妹たちが分家しないで1つの家屋で生活する大家族制のためと考えられたこともあった。しかし、大家族制はこの地方の特定の集落に見られるが、全ての集落に見られるものではないので、現在の学説では、これだけをその理由としていない。これに代わり、最も説得性のある説は、この地方で生産されていた塩硝に関わるものである。この地方では家屋の床下に穴を掘って、ヨモギなどの草を詰め、下肥などで発酵させて硝土を作っていたので、広い床面積を必要としていた。なお、養蚕の隆盛による広い小屋裏空間の要求も、家屋の規模を大きくする要因の1つになっていたと推測することはできる。
平面は土間の部分と床上部に分けられる。床上部は居間と接客室、仏間、寝室の4室から構成されるのが基本で、規模が小さい場合には居間と接客室が1室となり、大きい場合には、さらに上級の接客室である座敷や寝室、収納室などが付け加えられる。これらの部屋の構成は、白川郷と五箇山地方の間でも特に相違は見られない。
出入口の取り方と土間部の構成については、白川郷と五箇山地方では相違が見られる。白川郷の多くの合掌造り家屋では、出入口は居間の平側に設けられる。一方、五箇山地方では妻側に半間ほどの下屋を造り、その中央寄りに出入口を設ける場合が多い。そして、多くは下屋の屋根も茅葺きとし、大屋根との取り合いを葺き回すので、一見、入母屋風屋根となり、平側に出入口を設ける白川郷の合掌造りとは異なった外観となっている(図1-1、2)(現在は、改造されて鉄板葺きとなっているものが多くなっている)。
土間部は牛馬を飼う厩と炊事場からなる。炊事場では炊事の他に脱穀や紙漉きなどの作業も行われていた場所で、白川郷ではこの部分に床が張られていて、土間となる五箇山地方の場合と相違している。
合掌造り家屋の平面のうち、床上部の部屋の構成は日本の民家に一般的に見られるものであり、この地方に特色的なものではない。しかし、土間部は一般の農家では広い土間を取り、そこでさまざまな作業が行われるのに対し、合掌造り家屋の土間は狭い。これは敷地が狭い山間部の農家に共通して見られる特色であり、特にこの地方に限られた特色とはいえない。
e)合掌造り家屋の成立時期
以上のような特色を持った合掌造り家屋がいつ頃成立したかは、既に多くの家屋が消失してしまっていて、残存する家屋数が非常に少ないことと、残された家屋についても建築年代を知る史料がほとんど発見されていないことから、正確に考察することは困難である。しかし、現存する家屋では、その伝承と建築技法などにより17世紀末頃の建築と推定されるものが最も古く遡り得るものであり、また、古い平面形態を示しているので、この頃、合掌造り家屋の原型が成立し、その後、塩硝生産や養蚕が盛んになる18世紀中期から19世紀中期にかけて、規模が大きくなり、小屋裏の利用が進展したものと推測される。