得月院の文化財

■得月院の文化財

▶得月院五輪塔

 本堂裏墓所中央付近に建つ本院の開墓となった妙印尼の墓碑。妙印尼は、牛久城主由良国繁の母で「智徳兼備文武二通ジ賢ノ誉レ高ク婦人ノ典型(本堂庫裡再建記念碑)」であったという。

 文禄三年(一五九四)十一月六日、牛久城内長屋得月亭で死去。法名は得月院殿月海妙印大姉。

 五輪塔の風輪部は欠けているが、高さは一メートル十六・五センチである。そのうち、地輪部は縦二八センチ、火輪部は縦三一センチ、空輪部も同じく三縦一センチで、牛久市指定分化財東林寺五輪塔(牛久市新地町)に似て、地輪部が高く水輪部はほぼ円形、火輪部の勾配は比較的大きく均整のとれた作柄である。

 なお、地輪部正面左側に「文禄三口霜月口日」の死去年月が刻されているのも珍しく、牛久市文化財に指定されている。

▶天然記念物 榧(かや)の大木

 境内本堂脇に見られる榧は、幹周約五メートル、推定樹齢三〇〇〜三五〇年の大木で、牛久市指定の文化財(天然記念物)となっている。地元牛久市城中出身の近代日本画壇の巨匠小川芋銭は、日本美術院同人となった二年後の大正八年(一九一九)に、この榧とその隣にある椎の二本の大木をモチーフとした作品「樹下石人談」を制作、第六回院展に出品した。当時、芋銭の院展出品作は批評界から冷遇され続けていたが、この作品は芋銭にとって自信作であったようで、友人の西山泊雲に「自分には昨年のよりは稍(やや)宜敷(よろしく)つもりなるも世間は余り見てくれず、場裏にてはかの木の端に譬へられたる法師のごとくあるかなきかの石人語御一笑下されべく候」と書き送ったほどであった。今日では、この作品は芋銭の水魅山妖画の開門作として見直され高く評価されている。

▶十六羅漢画像

 竜ヶ崎市若柴町金竜寺歳「十六幅の十六羅漢像」は、大正六年(1917)国の重要文化財に指定されているが、これが1幅にまとめられて描かれたものが当院所蔵の「十六羅漢像」である。これには、「清和源姓新田義貞開期常陸国河内郡若柴駅太田山金龍寺口物有請彫十七軸乎一紙者告新田嫡流由良氏及横瀬氏三家嘱累流布」、また、「模写以口口」等の付記があり、これから見て近世紀に模写されたものと考えられる。

 得月院は、前出の通り金竜寺の末寺(太田市・竜ヶ崎市)であるが、牛久、城主由良国繁母妙印尼の開墓であり、由良氏の菩提所金竜寺とはきわめて縁の深い寺であるから、このようなものがあっても不思議ではない。金竜寺蔵の「十六羅漢像」との関連については、今後の研究課題となろう。

 

▶閻魔王座像

 この座像は、境内の山門近くにある閻魔堂内に安置されている像高一メートルの木彫である。首部に「宝永四年(1707)丁亥七月五日、施主大崎三兵衛、為一家諸生口、仏工佐藤舌夫口」の墨書銘が見られる。宝永四年は、今から約三百十○年前の江戸時代中期で、さして古い作品ではないが、この種の作は当地方では数少なく、また墨書銘のある点で貴重な文化財の一つといえよう。芋銭も関心があったらしく、大正三、四年頃のスケッチ帖に正面から見た閻魔堂と安置されている閻魔王像および葬頭河婆像を描き残している。