牛久助郷一揆

■一揆の経過  口語訳

 文化元年の十月下旬、水戸街道牛久、荒川(荒川沖)の人馬の定員を増やし、徴発対象の村の範囲を拡大したいという願いを牛久宿麻屋が代表として願出ていたが、かなわなかったところ、阿見村権左衛門、久野村和藤次が願い出て認められた。そのため幕府役人鈴木栄助・太田幸吉が対象となる村むらの状況を調査するために牛久に釆ているとき、対象となっている村むらのうち街道東側の五〇村が女化原に集まり、周辺の村むらの高札場に張り紙をした。そこには「このたび牛久と荒川宿の助郷人馬増員の件が認められたが、近村でさえ助郷を勤めることは大変なのに、なおさら遠くの村にとっては迷惑である。

 遠村は人馬の代りにその代金を差出すことになるだろうが、これを見込んで出願者たちは金銭を貪り横領しょうと悪だくみをしている。この三人の家財産を打ち壊して、悪だくみを阻止しょう」(中略)翌二十一日朝五ツ時、久野村和藤次方に押寄せた。その姿は銘々晴子の鉢巻(これは味方同士が打ち合わないようにするためである)、手には竹槍・絨・斧・鋸・鳶ロ・棒の類とほら貝を吹き、ときの声をあげ一度に大勢が押し出し、そのさまは多くの雷が一度に落ち山も崩れるようであった(中略)戸や障子を全部斧・絨で打ち壊し、畳は屋外に一面敷いて大勢で踏みつけ引き裂き、台所に廻り大釜・小釜計七個を大鍼で微塵に打ち砕き、箪笥・長持などは鳶口や斧で打ち壊し、衣類は残らず裂き、さらに土蔵を打ち破り穀物の俵を残らず持ち出し井戸のなかに投げ込んだ(後略)

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■解説

 この一揆は文化元(一八〇四)年、十月十八日から二十二日にかけて、水戸街道牛久、荒川沖両宿の足助郷村への組み入れに反対して、周辺五五力村の農民六〇〇〇人余りが参加して起こしたものである。

 水戸街道の宿駅の人足と馬は、それぞれ二五人と二五匹と定められ、その後増やされていたが、徐々に増加する通行量に対応できなくなっていた。不足分は牛久宿七力村、荒川沖宿三力村に割り当てられ農民が動員された。さらに遠くの村むらにも割り当てが行われたが、この場合は、人馬の代わりに金銭を納めた。その金銭により請負業者が人馬を雇い、助郷を勤めたのである。

 この一揆では、請負業者である久野村(今の牛久市久野町) の和藤治と牛久宿問屋♯屋治左衛門が、農民たちによって打ち手しにあっている。日頃からの両者に対する不信感がその背景にあり、きっかけは麻島から幕府に出された肋郷村増加を求める_書であった。

 十月十八日、女化憤に集まった農民たちは女化稲荷に加護を祈った後、十九日には和‡治宅、二十日には麻屋を打ち壊し、二十二日には彼らの仲間と目された阿見村の権左衛門宅も打ち壊した。鎮圧には暮府はじめ佐倉藩、土浦藩などが動員されたが、実際には一揆勢は事前に解散したため衝突はなかった。

 一揆の指導者三人は江戸に送られ厳しい来り萌べの末、いずれも獄死した。一方、一書は当初予定されていた無期限から、十手という期限付きにされた。

■一揆に参加した村むらについて見てみよう

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■一揆参加者の供養塔39-1 38

■塔養供

じっこく   文化二丑正月二十三日 小池村 俗名 唯願本誓居士 古壷郎

こいけ    文化二丑正月九日  同 村 俗名

 一揆から一九年後の文政六(一八二三)年、打ち壊しを受けた牛久宿問屋麻屋治左衛門が、一揆の指導者、すなわち小池村(今の阿見町)の勇七と古壷郎、桂村(今の牛久市) の兵右衛門の三人の戒名を刻んだ供養塔を、阿見原(今の阿見町)の四つ角に建てた。高さ一メートルほどのこの石塔は道標も兼ねている。

■史 話

 百姓一揆のいでたち 牛久助郷一揆の記録には、参加した農民たちのいでたちについての記述が見られる。それは、蓑笠に縄か晒の鉢巻や縄のたすきというものであり、これは当時の百姓一揆に共通したものであった。このようなスタイルとなった理由には諸説あるが、「百姓身分を強調したもの」という見方が有力である。また、彼らが手にしたものは、竹に紙の旗を付けたもののほか、鍬、鎌などの生産道具が中心であった。

 この道具は人を傷つけるものではなく、打ち壊し(仲間制裁という意味がある)のためのものであったのである。竹槍にしても、まず旗や峨を立てるための竹竿として使われ、鉄砲も威嚇や意識の高揚のために使われ、人を殺傷するためのものではなかった。また、鎮圧する側もなるべく武器の使用は思いとどまるのが普通であった。なお、一揆につきものとされる筵(むしろ)旗は、明治初期の一揆にはじめて登場したものであり、江戸時代にはなかったとされている。