永平寺の建築

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日向(ひゅうが)進

 永平寺の伽藍は、創建以来、焼亡と再建を繰り返してきた。一山の多数の建物を失った火災は、江戸時代だけでも数度が記録される。江戸時代後期までは、大半の建かや物の屋根が槍皮や板、茅という植物性の材料で屋根が葺かれていたことに加えて、主要な建物を結んでいた廻廊が煙突の役割をして火勢を拡大することにもなったのであろう。

 伽藍の復興、整備はときどきの住持のもとでさまざまな困難を乗り越えながら成し遂げられてきた。高祖(闘えじょう おんき山)・道元、二祖・懐契の遠忌は復興の大きな契機となった。以下、紙幅の都合もあるので、近世(江戸時代)以降の伽藍の変遷と特色、主要な建物について概観する。

▶伽藍の変遷

 本格的な伽藍が整うのは「本朝曹洞第一道場」の勅額を賜った室町時代中期とみられているが、一向一揆の焼き討ちを受けるなど、十六世紀末には大部分の建物を失っていた。その復興は、慶長七年(一六〇二)に高祖三百五十回忌を迎えるにあたり、彦根藩の援助を得て行われた山門の再建が端緒となった。

 寛永十八年(一六四一)正月にも火災があり、「客殿」 じょうよう「小庫裡」「御影堂」「承陽」などを焼いた。「客殿」は方はっとう丈(現在の法堂)にあたる建物とみられる。この火事の発生は一月十七日であったが、三月七日に復興工事を始めて六月六日には「内殿、外殿共ニ」再建されたという。

 寛永の火災から約十年後の承応元年(一六五二)には ただ高祖四百年忌を迎えるにあたり、若狭小浜藩主・酒井忠かつ ぷつでん勝は仏殿と経蔵を寄進し、経蔵に一切経(天海版)を納めている。また山門、僧堂、浴室などが「新造」「修造」された。慶長に再建されたという山門は軍水に焼けていたのか、完成が承応まで持ち越されていたのかは不詳。宝暦七年(一七五七)に行われた経蔵修理に際して見出された棟札によれば、経蔵が竣工したのは明暦四年(一六五八)であった。再建された僧堂は、その後ほどしかなく案文初年頃(一六六一年頃)に知客寮から発した火により、庫裡(台所)とともに失われた。

 正徳四年(一七一四)三月一日に発生した火災は、仏殿、祖堂、僧堂、方丈、山門をはじめとする伽藍のほとんどの建物を焼き尽くした。再建はすぐには始められず、宝暦二年(一七五二)の高祖五百回忌を目標として国中に勧化が呼びかけられた。このとき再建された建物で唯一今に偉観を伝えているのが、延享四年(一七四七)に上棟した山門である。

 正徳大火以前の伽藍の様子を伝えるのが、およそ延宝年間(一六七三〜八一)前後の寺観を描いているとみられる「吉祥山永平寺全図」(52)である。

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挿図1大光明蔵の外観永平寺の建築 『己所が建っている挿図2 大光明蔵の照明器具

 吉祥山を背にした南向きの斜面に石垣を積んで階段状に平地を造成し、南北の中心軸線上に、山門、仏殿、大殿が南から北に並び、山門の左右から大殿の左右に廻廊がいたっている。廻廊前半部の左右(東西)に接続して大庫裡と僧堂が対向し、山門前の伽藍外縁に浴室と東司(とうす・便所)が建っている。西回廊から枝分かれした回廊が連絡する「開山堂」は、高祖・首元を祀る祖唐(承陽殿)である。東側の高所には福井藩主・松平家の廟所がっくられている。本図には瓦葺きとみられる建物は見あ こけらたらない。山門と仏殿は槍皮葺きか柿(薄板)葺き、そたっちゅうの他は茅葺きとみられる。塔頭(山内の子院)のなかには、板葺きで石をのせた山間の民家と変わらないものもみられる。

 禅宗寺院としてそなえるべき七つの主要な建物−山門(三門)・仏殿・法堂・僧掌庫裡(庫裏)・浴室・東司−  しちどうがらんを「七堂伽藍」と呼んでいる。坐禅はいうまでもないが、 しょうぼうげんぞう『正法眼蔵』に善かれているように、食事や洗面、入浴、用便にいたる日常の立ち居ふるまいすべてが修行とさ しんぎれ、作法が「清規」という規則に定められる禅宗寺院では、浴室や東司が重要な建物として山門の近くに配されるのである。

 さて「吉祥山永平寺全図」では、仏殿と大殿の間に「法堂」の書き込みがあるが空地になっていること、現荏は山門と仏殿の間の大庫院と僧堂を結ぶ廻廊の中間に  ちゅうじやくもん建っている中雀門と呼ばれる門がないないことなどは、寛永と寛文の火災を経て再興が進行中であった時期が描出されているからであろう。現在の法堂の位置にある大殿は臨済宗寺院における方丈にあたる。方丈と曹洞宗の古規法堂が一体化して、現法堂にみられる同宗固有の法堂形式(一般末寺での本堂)が成立したのであろう。

 天明六年(一七八六)にも小庫裡から発した火により客殿(法堂)、方丈などを焼失した。安永二年(一七七三)の「永平寺図」(『新訂越前国名蹟考』所載)は、この火災以前の伽藍の姿を伝えるものである。再建を担うことげんとうになった五十世・玄透は、享和二年(一八〇二)の高祖五百五十回忌を迎えるにあたって、宋・元時代の古規則復古を主導して伽藍の刷新を推進する。この頃の伽藍 ていはけんぜいきずえの姿をよく伝えているのが『訂補建噺記図会』の付図や「永平寺全図」(53)である。

 玄透の改革で特筆されるのが、天明の火難からは免れ みんていたものの明(中国の当代)風化していた禅堂を取り壊し、一切の修行が行われる根本堂としての僧堂を新造したことである。坐禅・食事(行鉢)・睡眠(打眠)のための道場としての古規僧堂のあり方がここに定められる ことにみ≠った。いんねんでん

 天保四年(一八三三)には、因縁殿(二祖五百五十回忌を記念して文政十一年(一八二八)に建立されていた)こうみょうぞうから出火、法堂、光明蔵など六棟が失われた。天保十三年に再建上棟されたのが現在の法堂である。そして嘉永五年(一八五二)の高祖六再回忌にあわせてこの間に建てられた中雀門、勅使門、経蔵、舎利殿なども現在に伝えられている。

 近代を迎えた永平寺では、昭和初期にかけて大きくは三度にわたり整備、拡張される機会があった。明治十二年(一八七九)に焼失した祖廟(承陽殿)関連施設の再建、同三十五年(一九〇二)の高祖六百五十回忌関連工事、昭和五年(一九三〇)の二祖六百五十回忌関連工事である。 高祖六百五十回忌事業では、伽藍の主要堂舎である仏殿、僧堂、庫院や廻廊が再建、新築された。現在の仏殿、僧堂はこのときの建物である。

挿図3,4 山門 伽藍

 二祖六百五十回忌事業では、傘松閣や現在の大光明 だいくいん しどうでん蔵(挿図1)、大庫院、繭堂殿などが建てられた。傘松閣のごうかわいぎょくどうやまもとしゆんきょ格天井には川合玉堂、山元春挙らが彩管をふるつている。現在の傘松閣は平成七年の再建であるが、花鳥の彩色画は元通りに復されている。また、山上に貯水池を設けて山内の給水機構を近代化し、高低差を利用して水を圧送する「ハイドラント式」と呼ばれる消火栓装置を設ける防火工事も行われた。永平寺口駅(現えちぜん鉄道・東古市駅)から永平寺門前までの鉄道が開通し、永平寺門前駅から本山までの県道が拡張されるなど、大量参拝の時代を迎えて交通網も整備された。

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 永平寺門前には本山の建築を担当する大工が集任する大工村があり、江戸時代中期には五十〜七十人の大工がい  しひたことが知られている。彼らは「永平寺大工」とか「志比大工」と呼ばれ、本山の諸建築をはじめ、末寺や他宗派の寺  おおたき院、大滝神社本・拝殿(旧今立町、重文)、木下家(勝山市、ぎhソよう重文)など各種の建築にすぐれた技傾を発揮してきた。活動の地域も、越前にとどまらず、越中、加賀、近江など広い範囲に及んだ。近代以降もその活動は継続するが、明治三十五年(一九〇二)の工事からは門前大工以外の建築請負業者や建築家も参入する。昭和三年(一九二八)上棟の大光明蔵は、古建築を熟知したモダニズムの建築  たけだごいち家・武田五一(京都帝国大学教授)の設計・指導による。外観は伝統的な和風の表現だが、照明器具(挿図2)に武田五一の意匠感覚を読み取ることができる。

▶伽藍の構成と主な建物

 永平寺伽藍の顕著な特色は、深い山中にあって山を背にした傾斜地に建っているところにある。法堂に向かって左方(西)の高所に祖廟承陽殿の一画を構えるのも祖山ならでは格といえよう。

 現在の伽藍を構成する建物のうちでは山門を最古とし、法堂や中雀門などを除くと多くが明治以後の建築であるが、伽藍配置は草創以来の旧規をよく伝えているとみられている。すなわち、山門、仏堂、法堂が南北の中軸線上に並び、山門の左右から階段の廻廊が僧堂と大犀院(庫裏)を結んで最高所の法堂に達するという構成である。そして山門と仏殿との中間を横切る僧堂と庫裏を結ぶ廊下(廻廊)の中央に中雀門を配するというところに、永平寺式ともいうべき独自性を指摘することがでの制を伝承するとも推考されているが、その起源や役割についてはよく分かっていない。

 禅宗寺院にあって、塔頭を重視する傾向の強い臨済宗寺院においては廻廊を有するものは現在みられない。それに対して曹洞宗寺院では、宋様式を伝承して廻廊を備 ぎかいえている例が多い。永平寺三世・義伶(義介)の開創に はっすじょうきん    そうじじなる大乗寺(金沢市)、義仲の法嗣・紹瑳が開いた繚持寺 ずいhリゆうじ(祖院、輪島市)、「伽藍瑞龍」と称せられた瑞龍寺(高岡市)など、その好例である。深雪地に営まれている永平寺の廻廊が半開放的な構造をもっていることは、廻廊の機能、構造が、単に風雪を凌ぐことだけに起因するものでなく、本来は一般諸人の寺内参入を制限した装置であったことを示唆している。

 禅宗の建築がもたらした建築様式の一つが、上部がくりがた かとうまど繰形をなす曲線からなる火灯窓(花頭窓)である。永平寺でも仏殿の正面などに設けられている。一方、山門や たてがまち廻廊をはじめとする大半の建物では脚(竪柩)の先がひらいてしまって頂部の尖頭形をとどめないアーチ状の窓やまみちかとうが連続してあけられている。「山道火灯」と呼ばれるこの火灯窓は、遺構がない中世は不明だが、近世における曹洞宗寺院を特徴づける外観意匠であったと思われる。明治三十五年(一九〇二)に再建された僧堂の設計者・伊藤守房の図面には「雲形マト」と書き込まれている。

▶山門(福井県指定文化財、挿図4)

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 正徳大火から三十年をかけて再建された、山内最古の建物。(禅宗寺院では山門は「三門」と表記されること ねはん げだつが多い。この門を捏磐の境地に至るための三解脱門−空門・無相門・無作門−とみなし、正面柱間を五間として中間の柱間三間には扉を装置する−「五間三戸」−のを正式とするからである。)永平寺の現・山門に扉は挿図5 山門の挙鼻(撮影:大田精一氏)永平寺の建築12βーRJ3く、さいる。の左右に四天王を通路に対して向かい合うようにし、上層には釈迦三尊を中心に十六羅漢、五百羅漢ほかの諸仏が祀られている。

 下から見上げても識別することはむずかしいけれど、こぶしばな細部は実に手が込んでいる。上層の軒廻りに拳鼻という、名前の通りゲンコツ状の部材がある。左右両面には様々な図柄の彫物が施されているのだが、それらのすべての図柄が異なっているのである。雲龍、唐獅子といっさぎえた定番的なものに加えて、海老(挿図5)、蛸、栄螺などの海産物や大根、蕪などの野菜(挿図6)ありと、実に多彩である。海産物は「水」との連想から「火防」を、野菜は「豊穣」を祈念しての造形であろうか。

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▶中雀門(福井県指定文化財、挿図7)

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 木割は繊紳で、下層の屋根の前後に唐破風をもった特異な形式をそなえている。文政版の古図には、中雀門の位置に上層に高瀾をめぐらした楼門が建っていて「鐘楼」と書き込まれている。嘉永の大遠忌に際して梵鐘が新鋳されるとともに鐘楼が山門の左手前(現在の鐘楼の位置)移されたことに伴い、鐘楼としての機能はなくなったのであろうか。嘉永の造営に関する記録に「輪蔵(経蔵)再建」「僧堂修復」などと書き上げられるなか、「中雀門造替」「中雀門左右廻廊再建」と記されている。「再建」「修復」「造替」という字句が使い分けられていたとすると、中雀門は、鐘楼とは別の役割をもつものとして「造り替えた」というように解釈されるが、役割や起源についてはなお検討を要する。

▶承陽殿

 法堂に向かって左方の高所に東向きに建つ一群の建物は道元禅師の祖廟・承陽殿で、左右に廻廊(現在は縮小されている)のついた門(「承陽中雀門」「一天門」と呼rl tレヽlながれている。明治十二年(一八七九)五月に焼失、同十四年九月に再建されたのが現在の建物である。

▶法堂(挿図8)

 左右の廻廊に導かれて最高所に建つ。本来は土間式しゅみだんで、中央に住職が上がって説法をする法座(須弥壇)が設けられる。「吉祥山永平寺全図」(52)には前面に土間をもつと推測されるように描出されているが、現在の法堂は堂内すべて畳敷きである。書院造り住宅風の意匠を基調とする一方、堂内の柱は円柱である。三室が前後二列に配列された、建具のない開放的な六間取りの方丈形式をもつ。四周の緑も畳敷きとして堂内に取り込み、全休で三百八十帖を数える広さは、江戸期の法堂として宗門最大を誇る。

▶大庫院

 修行僧や参籠者の食事をまかなう厨房、来客を接待する瑞雲閣などがおかれている。和風意匠になる木造建築であるが、地下一階は鉄筋コンクリート造、地上一階から三階は木造の混構造である。OT−S社製のエレベーターは現役で稼働している。設計・施工は武生(現・越もろたとうりょう前市)の師田観である。伝統的な棟梁に出自し、組織を近代化するとともに近代的な構法、技術を積極的に導入した師田組が、その能力をいかんなく発揮したのが二祖六百五十回忌事業であった。

(ひゅうが・すすむ 京都工芸繊維大学名誉教授)