建築と庭(禅の美術)

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■禅宗伽藍の特徴.

  鎌倉時代初頭、南宋から本格的な禅とともにとり入れられた禅院の伽藍は、禅僧の修業のあり方に対応するとともに周辺の自然環境との調和をめざす、禅の思想を体現するものだった。

▶混在する顕密仏教の建築

 平安時代、延暦寺では円(法華教学)・密(密教)・禅・戒を修学していたように、禅は古くから顕密(けんみつ)仏教と兼学されていた。鎌倉時代、栄西が南宋の禅を体系的にとり入れることで

■一直線に諸堂が建ち並ぶ

輿聖寺を創建したとき「僧堂最も切要なり」としたように、禅院においてもっとも垂

日本における禅宗の基礎が築かれるが、このときも禅は顕密仏教と無関係ではなかった。

栄西が帰朝後に創建した建仁寺真言・止観(しかん)・禅を兼修しており、南北朝時代の古絵図によれば、伽藍の南東に別院として真言院と止観院があった。また、九条道家が栄西の弟子円爾弁円(えんにべんえん)を開山として創建した東福寺も、仏殿をはじめ法堂、東西回廊、僧堂、衆寮、方丈、浴院、東司(とうす)など禅院としての建築をそなえる一方、密教の五智(ごち)如来(金剛界五仏)を安置する五重塔、両界曼荼羅を並び掛けた港項堂など顕密仏教の建築が混在し、禅僧とともに天台・真言の僧がおかれた。

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▶本格的禅宗伽藍配置とは

 南宋の五山にならった本格的な禅院は、建長五年(一二五三)北条時頼が宋から蘭渓道隆を迎えて創建した建長寺に始まるとされる。建長寺指図(さしず)をもとに禅院伽藍とその建築をみていくことにしよう。

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 伽藍は奥に深い形態をとり、総門を入ると、中軸線上に三(山)門・仏殿・法堂・方丈が並ぶ。三門は二階があるのがふつうで、東福寺三門では二階に宝冠釈迦と十六羅漢を祀る。仏殿は本尊を安置し、古代伽藍の金堂に相当する建築であり、法堂は住持が僧衆に説法する建築である。法堂の背後には、住持の居所である大客殿(方丈)がある。

 仏殿と三門は回廊でつながれ、右の回廊に庫院(庫裏・くり)、左には大徹堂 (僧堂・禅堂)がとりつく。僧堂は僧衆が坐禅から就寝・食事までをおこなう建築で、道元が京都の深草に興聖寺(こうしょうじ)を創建したとき「僧堂最も切要なり」としたように、禅院においてもっとも重要な建築のひとつで、東福寺禅堂(重文、室町時代初期)がその代表的建築である。大微堂の奥には、看経(かんきん)すなわち教典を読むための建築である衆寮がある。庫院は寺務や食事の用意をおこなう場所で、指図からも釜が並ぶ様子がわかる。

 三門の左右では前方にも回廊が延び、右に浴室、左に東司(便所)がとりつく。東福寺東司(重文、室町時代前期)浴室(重文、長禄三年(一四五九))は、同寺の三門・僧堂とともに、部分的ではあるが中世の禅院伽藍の姿を今日に伝える貴重な建築である。

 禅院において僧衆は、清規(しんぎ)と呼ばれる規律に従って修行する。その規律は坐禅から食事、さらには入浴・用便にいたるまで、生活全般におよんでいる。道元は宝慶記(ほうきょうき)』 において、中国の禅院は建築と規律が必要十分なものをそなえていると賞賛する。伽藍・建築そしてそこでの修行をあわせて、南宋の禅院の空間が日本に移入されたのである。

▶伽藍と自然が一体化した美

 以上にみてきた建長寺をはじめ、多くの禅院で伽藍は左右対称の人工的な形態をとる。しかし、そこでは建築にくわえ池や峰・岩などの自然景観から十境(じゅっきょう)が選ばれ伽藍と自然が一体になった美が求められた。このことはたとえば、夢窓疎石(むそうそうせき)が天龍寺十境を選んで詩を詠み、また同じく夢窓が創建した岐阜県永保寺の伽藍が、土岐川渓谷の豊かな自然環境のなかに、観音堂(国宝、南北朝時代)を中心として、その前の橋廊の架かる池や、背後の自然の姿の岩山をそなえた庭園とともに展開していることによくあらわれている。

■禅宗建築の特徴

 禅とともに南宋から伝わった禅院の建築は、独自の様式や技法を有する一方、日本の伝統的な建築と併存するなかで融合し、後世に大きな影響をあたえることになる。

▶禅宗様の伝来

 禅院においては、伽藍構成とともに南宋の建築様式もとり入れた。その様式は禅宗様からよう(唐様・からよう)と呼ばれ、日本の伝統的な和様とはことなった独特のものである。円覚寺舎利殿に、その意匠・技法をみていくことにしよう。

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 まず、内部は土間とし、磚(せん)と呼ばれる方形の煉瓦を敷く。柱は礎石の上に礎盤をおいて立て、和様では組物(くみもの)は柱の上にだけおくが、禅宗様では柱の上に台輪という横材をおいて、柱と柱の間にも隙間なく組物を詰め込んだ詰組(つめぐみ)という様式をとる。組物のなかには長い尾垂木(おだるぎ)が差し込まれ、それが天秤のように外と内の垂木を受けている。垂木は平行に並べるのではなく、扇を広げたような扇垂木とする。窓など開口部の上辺を独特の曲線とする花灯窓(かとうまど)や、波のような曲線を描いた格子を入れる弓欄間(ゆみらんま)などの意匠も特徴的である

▶伝統的な日本建築と融合

 外観は二階建てのようにみえるが実際には一階で、下の屋根は裳階(もこし)と呼ばれる付属的な部分である。裳階柱と建物本体とをつなぐ海老虹梁(えびこうりょう)の形に特徴がある。内部では大虹梁や組物扇垂木などが独特の空間をつくりだしている。鏡天井を張った母屋(もや)を受ける四本の柱のうち、前方の二本の下部を切り取り、大瓶束(たいいづか)と呼ばれる部材として大虹梁で受け、本尊の前面を柱のない広い空間としている。

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 こうした禅宗様の意匠や技法は、同じく鎌倉時代初頭に導入された大仏様とともに、日本の伝統的な建築と融合し、禅院以外の建築にも広がっていった。

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■禅宗寺院におげる塔と塔頭

 五重塔をはじめ、塔というと禅とは結びつきにくいが、じつはかつて多くの禅院に塔が建っていた。また、禅各円派の拠点となった塔頭(たっちゅう)の方丈には、日本の伝統的な住宅建築のスタイルが継承された。

▶伽藍から離れた場所に建つ塔 

 建長寺指図に描かれた伽藍は寺院の中心部で、実際にはそれをとりまくように「華厳塔(けごんとう)」と呼ばれる七重塔や、多くの塔頭(たっちゅう)があった。

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 東福寺五重塔・建仁寺三重塔をはじめ円覚寺・下野雲厳寺の華厳塔など、かつては多くの禅院で塔が建立された。足利義満が創建した相国寺には、高さ一一〇メートルともいわれる七重塔が建っていた。しかし、これらのほとんどが失われ、安楽寺三重塔は数少ない現存事例である。禅院の塔は、古代の伽藍とはことなり、中心から離れた場所や塔頭のなかに建立された。安楽寺の塔もやはり伽藍の背後、山をさらに登った場所に建つ。

▶墓所から門派の拠点へ

 一方の塔頭(たっちゅう)は、もともと開山などの高僧の墓所を指し、墓塔(卵塔・らんとう)とそれを礼拝するための昭堂(亭)からなる。そして住持が退院(ついいん)した後の居所が塔頭と呼ばれるようになり、居住施設として客殿(方丈)庫裏(くり)がもうけられ大規模な塔頭では仏堂や僧堂・経蔵・塔などをそなえるものもあらわれた。

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 永保寺開山堂は、同寺の開山である元翁本元(げんのうほんげん)の塔所(たっしょ)で、祀堂と昭堂を相の間でつなぐ構成をとる。祀堂は万一問に裳階(もこし)を廻した形式で、堂内には元翁の墓塔がある。昭堂は祀堂の礼堂に相当する建築で、大虹梁(こうりょう)を架けて内部の柱を省略するという禅宗様建築に特徴的な技法をもちいて、相の間と一体になった広い空間をつくりだしている。

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 東福寺龍吟庵は、同寺三世無関普門(むかんふもん)の塔所で、その方丈は内部が前後二列に別れ、さらに各列は三室に別れた計六室からなる。全体に床板を張り、前面に吹放しの広縁を設け、その東端に玄関が付属する、方丈建築に典型な構成をとる。

 塔頭(たっちゅう)はしだいに門派の拠点となり、方丈はその中心建物として重要な意味をもつようになる。大徳寺七十六世古岳宗亘(こがく そうこう)の塔所である大仙院の本堂(国宝、永正十年〈一五一三))は、室中(しっちゅう)奥の部屋を真前(しんぜん)すなわち仏間として開山の頂相を安置する。方丈は仏間をそなえた本堂となつたのである。

 また、その東の室には座敷飾りをもうけて書院としている点も注目される。宋の建築様式を体系的にとり入れた禅院であったが、居住には日本に伝統的な形態が持ち込まれたのである。方丈は寝殿造から書院造へという、日本の住宅建築の展開のなかに位置づけられる。

■禅と顕密仏教

▶禅院での顕密仏教の併置

 鎌倉時代初頭、南宋の禅が本格的にとり入れられてからも、建仁寺や東福寺など初期の禅院では、顕密仏教が兼修されていた。こうした傾向は、京都の禅院において根深いものがあり、足利尊氏の等持寺や義満の相国寺では、顕密仏教の併置を通じて、顕密仏教勢力ひいては公家をも統括しようとする室町幕府の思惑がみてとれる。

 尊氏が暦応四年(一三四一)に創建した等持寺は、十剰の一位に位置づけられた禅院であるが、応安二年(一三六九)の『仏観禅師行状』によれば、「八宗」すなわち顕密諸宗の法会を勤行すべく建立したという。

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 その仏殿は禅宗様の仏殿ではなく、貴族や武家の住宅に近い形式をとり、公家の追善仏事にならい、歴代将軍追善の法華八講や結縁灌頂(けちえんかんじょう)・曼荼羅供という顕密仏事が修された。ここでとりおこなわれた康暦元年(一三七九)の義詮十三回忌の結縁灌頂のものと考えられる指図(醍醐寺蔵・上図)がのこる。もちろん、仏殿では看経(かんきん・禅における誦経・ずきょう)や住持の晋山(しんざん)式(人山式)での焼香など禅の仏事も修され禅院仏殿としての性格をもそなえていた。

▶武家政権のシンボル

 義満が相国寺を創建すると、五山の二位に位置づけ、禅院を統括すべく塔頭(たっちゅう)である鹿苑院に僧録を置いた。その一方で義満は、相国寺伽藍の東南の独立した一郭に、等持寺の仏殿と近い建築形式で八講堂を建立し、等持寺仏殿でおこなわれていた顕密仏事をここで修した。等持寺仏殿が担っていた禅院仏殿と顕密仏事のための建築という二つの性格が、相国寺では仏殿と八講堂に分離されたことも注目されよう。

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 さらに、義満は相国寺に高さ約一一〇メートルともいわれる七重塔を建立した。この七重塔は、院政期の王権の象徴ともいうべき、白河天皇の御顧寺である法勝寺(ほっしょうじ)の八角九重塔に対抗するもので、その約八一メートルという高さをうわまわる。法勝寺と同じく密教の両界曼荼羅諸尊を安置し、供養会では、御願寺になぞらえて公卿や東大寺・延暦寺なや仁和寺法親王のごとくふるまった。巨大な七重塔と八講堂をそなえる相国寺は、かつて八角九重塔が聳(そび)え立ち、白河院追善の細入講詩学七重塔は、公家と顕密仏教に対して室町幕府の権威を示すべく、禅院たる相国寺に設けられた、「室町の王権」の「御願寺」ということができよう。

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■修行と悟りを秘めた庭

 神仙蓬莱の理想郷や極楽浄土を再現した庭は、禅宗の出現により、その内容を深めていく。それはめぐり歩く庭から、鑑賞する庭へと、庭の性格の変化も意味した。

▶庭は真理探究の場

 庭園は、寺院建築とあいまって宗教的な空間を演出する重要な要素である。平安時代後期に建立された平等院は、その伽藍配置や内部荘厳の一切が庭園と一体となって極楽浄土を現実世界に再現したものであり、「極山不審(いぶかし)くば、宇治の御堂を礼(うやま)へ」と謡われたほどであった。しかし、のちに誕生する禅宗寺院の庭園は、そのような宗教的な理想郷の再現にとどまらなかった。

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 臨済宗の僧・夢窓国師(むそうこくし・夢窓疎石)は、生涯で多くの庭を残し、庭の大家と評される彼が晩年に再興した西芳寺庭園は、極楽沌伊土をイメージした既存の浄土庭園に、禅宗の厳しい真理探究の姿勢を込めたものであった。庭園は下段の池泉回遊(ちせんかいゆう)式庭園と上段の枯山水によって構成されている。夢窓は、下段庭園の池泉のまわりに、中国宋時代の公案の解説書『碧巌録(へきがんろく)』の語句にちなむ堂舎を建てることで禅の主題を吹き込み、上段庭園がある洪隠山(こういんさん)中腹を自然のなかで悟得するための厳しい修行の場とした。洪隠山の斜面に築かれた三段の枯滝山水は、いくつもの自然石が屹立(きつりつ・山などが高くそびえ立っていること)し北宋水墨画を思わせる。この石組は、ひとつの空間を枯山水としてまとめあげた最古のものであり、後世の禅の庭「枯山水」の模範となった

▶「枯山水」に込めた精神

 西芳寺庭園において夢窓は、平安時代には思いもよらなかった厳しい人間の修練の姿を庭に表現した。室町時代の作庭は、前時代に比べて格段に深い内容が表現されていくが、それは彼のような優れた宗教者が作庭に関わり、その自然観を主観的に表現したからといえる。この厳しい追求の態度は、作庭に芸術としての内容と価値を与えていった。今日的に知られる枯山水の様式は、宗教者の求道と表現の延長上に生まれたといえる。

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 水を一切使わず、限定された空間に白砂と石組のみで表現した今日一般的に枯山水と呼ばれる庭園は、応仁の乱の復興とともに誕生したわずかな空間に無限に広がる大自然の相を象徴する禅の象徴主義が庭園に発揮されている。そこには、乱で疲弊した都に、池を掘り、水を引くこれまでどおりの池泉庭園を作る経済的問題、寺が集中する都において敷地を確保する現実的な問題も作用したといわれる。さらに、方丈書院の発達とともに起こつた板の間から畳敷への生活の変化は、庭の性格を「めぐり歩き修行する場」から、「座して室内から鑑賞する作品」へと変化させた。

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 龍安寺石庭は、方丈南面の築地が囲む長方形の白砂の空間に、東方から五、二、三、二、三の五群の石組を配置しただけのものである。この石庭が、何を表現したものかについては古来多くの寓話や故事によって説明されているが、今となっては作庭者もその表現意図も知るすべはない。しかし、巧みに配された五群の石の群れが相互に生み出す均衡と緊張の美のなかに、はかりしれない禅の世界を秘めていることが、大きな魅力となっている。