東京大空襲写真集
■解 説
山辺昌彦(東京大空襲・戦災資料センター学芸員)
■はじめに
東京空襲に関しての調査・研究が始まったのは、1970年「東京空襲を記録する会」が作られ、東京都の助成を受けて1973〜4年に『東京大空襲・戦災誌』全5巻を刊行してからである。その後、すでに戦争体験の風化が言われていた戦後40年の1985年から、空襲被害などの悲惨な戦争体験を伝える努力が、地域の博物館や市民団体により本格的に始められる。節目の戦後50年に最大の盛り上がりを示し、さらに戦後60年と取組が重ねられてきた。
しかし一方で空襲を体験した方たちは高齢となり、戦後70年、東京大空襲70年は、空襲体験者とともに体験を伝える最後の機会といえよう。この時に、空襲体験者の協力を得て、空襲の実相を明らかにし、それを誇張するのでもなく、隠すのでもなく、正確に伝え続けるためのしっかりとした基盤を作ることが必要である。
空襲体験者の話が直接聞けなくなった時には、空襲被害写真が今以上に、空襲や戦争が一般の人にどれほど大きな犠牲と被害を与えるかということを伝える役割を担わなければならなくなるであろう。しかし、これまでの東京空襲の写真集は、一部の撮影者の、それも限られた写真を収録するものでしかなかった。大型の写真集もあったが、写真の説明が的確でないものも多かった。これらも含めて、今では東京空襲の写真集の多くは品切れになり入手が困難になっている。このような中で、研究に裏付けられ、網羅的に東京空襲の被害写真を収録する本写真集が刊行されることには大きな意義があると考える。
▶経過と収録範囲
この写真集には戦時中に警察や軍関係者が撮影した空襲被害写真をできるだけ網羅的に収録している。警察や軍関係者以外にも、民間人や学校・駅などの施設関係者が撮影した空襲被害写真も残されている。しかし、「東京大空襲・戦災資料センター」のこれまでの研究により所在が確認され、写真提供が可能となったものに絞らざるをえないため、焼跡での市民の暮らしを撮った写真について省略したものもある。もちろん、戦時中公然と空襲被害写真を撮影できたのは警察や軍関係者のみであったといってよい。
今回収録したもの以外にも、軍の命令で同盟通信社や朝日新聞社などによって組織された国防写真隊が撮影した東京空襲被害写真が存在していたこともわかっている。報道機関に対しては、すでに1942年4月18日の初空襲を受けて空襲被害の写真に対し規制が設けられていたが、国防写真隊は例外であったと思われる。しかしそれらの写真は空襲で焼けたり、敗戦直後に焼却され、残されていないと言われている。国防写真隊については、今回収録する日本写真公社の国防写真隊が撮影した東京空襲被害写真の存在が確認されるのみである。また、戦後に東京空襲の焼跡を撮った写真は、東方社の後身の文化社を始め、占領軍、通信社、新聞社のものなど数多くある。これらを網羅的に収録することは無理であり、今回も収録対象にしていない。
戦時中に警察や軍関係者が撮影し、残された空襲被害写真を網羅的に収録することができたのは、「東京大空襲・戦災資料センター」の共同研究に負うところが大きい。「東京大空襲・戦災資料センター」は1999年の東京都平和祈念館建設凍結を受けて、「東京空襲を記録する会」と「財団法人政治経済研究所」が呼びかけた募金により建てられ、2002年に開館した施設である。「財団法人政治経済研究所」は戦中に設立された「東亜研究所」を引き継ぐ民間の研究所である。文部科学省の学術研究機関に指定されており、科学研究費の助成を受けることが可能な機関である。「東京大空襲・戦災資料センター」はこのような民間研究所の付属博物館であり、「東京空襲を記録する会」が収集した資料を引き継ぐとともに、新たに資料を収集し、東京空襲の実相、特に民間人の被害を明らかにし、その成果を報告書や論文で公表するとともに、常設展や特別展での展示によりさらに広く伝える活動も行っている。
2011年からは、「青山光衛氏旧蔵東方社・文化社関係写真コレクション」(略称「東方社コレクション」)の寄贈を受け入れて、3年間の科学研究費の助成を受けた共同研究「戦争末期の国策報道写真資料の歴史学的研究一国防写真隊と東方社を中心に」(研究代表者・山辺昌彦、課題番号・23520853)により整理した。「東方社コレクション」は東方社旧社屋に残された東方社とその後継組織の文化社のネガフィルムで、旧社屋を買い取られた青山光衛氏が保存されてきたものである。このフイルムは戦後東方社のネガフィルムを撮影者に分けた残りであると考えられる。合わせて、日本写真公社の寄贈写真の再整理も行った。これは旧情報局関係者から「東京空襲を記録する会」に寄贈され、「東京大空襲・戦災資料センター」に引き継がれたものである。
「東方社コレクション」の共同研究を継承し、発展させる形で、2014年から3年間の予定で科学研究費の助成を受ける共同研究「戦中・戦後の「報道写真」と撮影者の歴史学的研究一束方社カメラマンの軌跡−」(研究代表者・井上祐子、課題番号・26370810)が始まった。そこでは、東方社のカメラマンであった菊池俊吉、林重男、濱谷浩、別所弥八郎、後藤種吉らの写真資料を調査している。関連して、石川光陽の資料調査も実施している。石川光陽は警視庁のカメラマンで、東京空襲を系統的に撮影し、写真帳にまとめており、空襲写真の撮影について記録した日誌も書いている。これらの資料を遺族から借用し、研究を進めている。
これらの調査により、警察や軍関係者が撮影した東京空襲関係写真の所在が判明した。東京空襲の被害写真を網羅的に収録する本写真集は、出版社から提案されたものであるが、「東京大空襲・戦災資料センター」のこれまでの調査・研究及びカメラマンたちのご遺族のご理解とご協力の上で、刊行が可能になったものである。
▶撮影者の紹介
■石川光陽
石川光陽(生没年、以下同じ、1904〜1989)は警視庁のカメラマンで、B29爆撃機による東京への本格的な空襲が始まった1944年11月24日の直後に、警視総監から特別の指示を受けて、1945年5月の山の手大空襲まで東京空襲の撮影をしていた。その後も8月の八王子空襲、板橋の空襲を撮影している。
「東京空襲を記録する会」に協力し、撮影した写真を提供したことで、一般に知られるようになり、石川光陽の写真は『写真集 東京大空襲の記録』(東京空襲を記録する全編、1982年、三省堂刊)などさまざま写真集や展示などで広く使われた。しかし、『写真集 東京大空襲の記録』でも、空襲写真の場所や日の説明が間違っているものがかなりあった。『グラフィック・レポート 東京大空襲の全記録』(森田写真事務所編、1992年、解説・波書店刊)でほとんどの空襲被害写真の場所と日時が正確にされたが、すべてが完壁というわけではなく、今回一部補足・訂正をした。
また、『グラフィック・レポート 東京大空襲の全記録』では、ベタ焼きのみで、引き伸ばされた写真が掲載されていないものも多い。
他の陸軍関係のカメラマンに比べると、石川光陽の写真には、1942年4月18日の初空襲から1945年8月の空襲までの全時期を撮影していること、1か所の撮影カット数が少ないこと、遺体を撮影していること、撮影日誌が残っていることなどの特色がある。日誌によれば、石川光陽は初空襲での品川区の被害、1944年11月24日の中島飛行機武蔵製作所へのB29の初空襲、1945年3月10日の下町大空襲の日の夜明けから正午少し前に警視庁へ戻るまでも、空襲被害写真を撮影したと書いているが、これらはいずれも現在は所在がわかっていない。
■東方社のカメラマン
東方社は、陸軍参謀本部のもとで写真宣伝物の制作を主な目的とする団体として、1941年春に設立された。同社では大判の対外向けグラフ雑誌『FRONT』を編集・発行するほか、多くのパンフレットやビラ、ポスターなどを制作した。それら宣伝物に使う写真を撮影する写真部があり、木村伊兵衛が部長であった。写真部は雑誌などに使う写真だけではなく、陸軍が必要とする写真を広く撮影するようになり、陸軍の学校や行事、新鋭飛行機などとともに、東京などの空襲被害も撮影した。
渡辺勉(1908〜1978)は木村伊兵衛、風野晴男とともに、設立時の中心メンバーであった。菊池俊吉(1916〜1990)は東京工芸社から、関口満紀(1917〜1948)は読売新聞社から、光墨弘(1909〜1977)は国際報道写真協会から、それぞれ、設立直後に入社した。林垂男(1918〜2002)は横浜キネマに勤めていて出征し、1943年1月に復員したあと、東方社に入社した。
後藤種吉(1907〜2001)と小山進吾(生年不明〜1968)は写真機材商で、カメラ雑誌の懸賞に何度も入選していた。戦時統制が強まる中で、店をたたみ、東方社に入った。
東方社が空襲被害を撮影した目的は、空襲の記録を残し、戦史の参考にすることにあったと思われるが、それだけにとどまらず、アメリカ軍の空襲が非軍事施設を爆撃する無差別爆撃であることや、空襲被害にもめげずに焼跡で生活していることを宣伝するための材料として撮影することもあったといえよう。実際、讐葉高等女学校の聖堂の被害写真が、中国向け壁新聞ポスターのなかで、“アメリカ軍の空襲が平和地区や文化施設を目標としており、キリスト教会を爆撃している’’との説明をつけて掲載されている。
東方社は他に比べて相対的にフイルムを豊富に持っていたと思われ、1か所の被害地で複数のカメラマンが、火災、片付け、復旧などの流れに沿って多くのカットを撮影している場合もある。また、同じ対象を2カットずつ撮影している場合もある。しかし、ネガシートホルダーの一部に簡単な書き付けがあるだけで、撮影日誌や撮影メモなどが見つかっておらず、多くは撮影内容から場所・日付などを確定して行かざるを得なかった。
東方社では本写真集に収録した写真の撮影者以外に、別所弥八郎が仮設風呂屋や罷災者接待所など、焼跡での暮らしを撮影していることがわかっている。また、それ以外のカメラマンにもネガフィルムが戻されており、その中に東京空襲被害の写真もあったと思われるが、それが残っているかどうかは不明である。
東方社の焼跡の暮らしの写真には、めげないで復興に取り組んでいることを強調するために演出された写真もあるが、それらの写真を通しても空襲被害の酷さが伝わってくる。
■日本写真公社のカメラマン
内閣情報部の外郭団体として1938年に設立され、宣伝用写真の撮影・複製および販売をしていた財団法人写真協会の後継団体として、財団法人日本写真公社は1944年6月に発足した。日本写真公社は、軍や情報局などの関係官庁、東方社など写真宣伝に関わる諸団体や写真資材メーカー、同盟通信社や各新聞社の写真部など、写真に関係する官民諸機関を網羅し、“写真宣伝の中枢機関’’として設立された。政府の写真広報雑誌『写真週報』に写真協会や日本写真公社が撮影・収集した写真が多く掲載されている。その中には防空、空襲被害、焼跡での暮らしなどの写真もある。
東部軍国防写真隊は1943年11月19日に結成された。当初は朝日新聞社、毎日新聞社、読売報知新聞社、同盟通信社、日本ニュースのカメラマンが組織され、のち、日本写真公社の国防写真隊もできた。国防写真隊の目的は空襲と空襲被害の記録写真を撮り、それを将来の国土防衛上の参考資料とすることにあった。
日本写真公社国防写真隊は空襲最中やその直後の被害写真を撮影している。一方、数日後に焼跡での暮らしの様子を撮影した写真は、日本写真公社の通常業務によって撮影した写真である。なお、日本写真公社が撮影した焼跡での暮らしの写真は、「東京大空襲・戦災資料センター」所蔵以外にも、「東京都写真美術館」が所蔵しているものがあるが、今回は収録を見合わせた。
日本写真公社国防写真隊の写真はオリジナルプリントが残っており、撮影記録がその真に貼られているものが多い。そのため、撮影場所、撮影者だけでなく、撮影した時間までわかる場合がある。「東京大空襲・戦災資料センター」には1945年1月27日までのものしか所蔵していないが、途中ネガ記号・番号コA12〜17の写真群が欠けていることもあり、収録したもの以外にも空襲被害写真を撮っていたと思われる。しかし、これらも残っているかどうかは、わかっていない。日本写真公社撮影の焼跡写真のうち、浅草仲見世と吾妻製鋼所を撮影したものが『写真週報』第364・365号、1945年3月28日号の東京大空襲の記事に使われている。
■東京空襲とその被害
■全 体
まず、東京空襲の全体についてみると、東京の区部が被害を受けた空襲は60回を越える。死者が出た空襲は56回で、約10万5400人の遺体が確認されている。これは原爆を除く日本本土空襲死者の約半分である。羅災者は約300万人、雁災住宅戸数は約70万戸であり、これも日本の都市で最大である。焼失面積は約140血iで、区部の市街地の約50%、区部面積の約25%に当たる。東京への本格的な空襲は1945年3月10日の下町への大空襲を境に区分される。
■初期の空襲
アメリカ軍による日本本土への初空襲は1942年4月18 日に行われたが、それは空母から陸上爆撃機B25を発進させた奇襲攻撃であった。東京では品川区、荒川区尾久などが爆撃され、被害を受けたが、それ以外にも牛込区の早稲田中学や葛飾区の水元国民学校高等科の生徒も銃撃により死亡した。それ以降約2年半の間、東京の区部への空襲は なかった。
B29爆撃機による東京への本格的な空襲は、1944年11月24日に始まった。1945年3月10日より前の空襲は、飛行機工場と産業都市を重点とする戦略爆撃であった。東京の場合、航空機工場の中島飛行機武蔵製作所を第一目標とする精密爆撃が行われていたが、その爆撃ができない時には、第二目標とした東京の市街地を無差別に爆撃している。11月24日からすでに荏原区などの市街地が空襲された。11月27日には中島飛行機を全然爆撃しないで、渋谷区の原宿などを空襲している。11月29日から30日にかけては市街地への夜間の集束油脂焼夷弾を使った空襲がすでになされている。1945年1月27日には繁華街の銀座や有楽町が空襲された。2月19日も中島飛行機は爆撃しないで、100機を超えるB29が市街地を爆撃している。2月25日は、マリアナの基地を飛び立つ前に中島飛行機を爆撃できないことがわかり、第一目標を東京下町の市街地に切り替え、爆弾を焼夷弾に積み替えて空襲した。この日の空襲は、後期に実施される区部の市街地に対する焼夷弾爆撃の実験的な空襲となった。3月4日も150機を超えるB29が東京区部の市街地を広範囲に爆撃した。1944年11月から1945年3月4日までの空襲により、区部で2000人以上が亡くなっている。
■1945年3月10日の下町大空襲
画期になったのは1945年3月10日の下町大空襲である。すでにアメリカ軍は、都市の中で、住宅が密集し人口密度が高い市街地を、焼夷地区1号に指定していた。そこをまず焼夷弾で焼き払う絨毯爆撃が、この日から始まった。住民を殺致し、それによって戦争継続の意思をそぐことが、主な目的であった。また、市街地を焼き払うことで、そこにある小さな軍需工場を焼くことも合わせてねらっていた。アメリカ軍は春一番のような大風の吹く3月に焼き払d 解 説い空襲を開始することを目指して、日本向けの油脂焼夷弾を開発し、B29とともに大量生産をしていった。
3月10日の下町大空襲は夜間に低高度から1665トンに上る大量の焼夷弾を投下した空襲であった。木造家屋の密集地に大量の焼夷弾が投下され、おりからの強風で大火災 となったこと、国民学校の鉄筋校舎、地下室、公園などの避難所も火災に襲われたこと、川が縦横にあって安全な避難場所に逃げられなかったこと、空襲警報が遅れて警報よ り先に空襲が始まり、奇襲となったこと、踏みとどまって消火しろとの指導が徹底されて、火たたき、バケツリレーのような非科学的な消火手段がとられ、火災を消すことができないで、逃げお〈れたことなどの要因が重なり、焼死、窒息死、水死、凍死など、9万5000人を超える方が亡〈なった。これは1日の即死者としては原爆を超え、最大である。膨大な数の死者が出て、通常の埋葬ができないので、公園や寺院の境内などに穴を掘って遺体を埋める仮埋葬がなされた。その数は4月以降の山の手大空襲などを含めて、約9万4800人であり、そのうち約8000人のみは名前がわかり個別に埋葬されたが、それ以外は合葬された。火災は、本所区、深川区の北部、浅草区、下谷区東部、神田区、日本橋区、荒川区南部の本来の目標地域をこえて、東や南にも広がり、城東区の全域、向島区の南部、江戸川区の荒川放水路より西の部分も含めて、下町の大部分を焼き尽くした。
■後期の大空襲
4月、5月の山の手大空襲は、爆撃の規模や焼失面積は3月10日の大空襲を上回るものであり、約7000人が亡くなった。規模の割に死者が少ないのは、逃げやすい地形であったこともあるが、3月10日の惨状を見て、人員疎開が進んだこと、消火をしないですぐ逃げるようになったことも影響している。4月13〜14日の城北大空襲について、アメリカ軍は王子区の陸軍兵器工場をねらったとしているが、実際はそれより南の豊島区、滝野川区、荒川区などの住宅地が焼かれた。4月15日の大空襲では蒲田区などの東京南部から川崎にかけての工場地帯と住宅地が空襲された。
5月24日の大空襲では、4月15日の空襲地域の北側の荏原区、品川区、大森区、目黒区、渋谷区などの住宅地が空襲された。この日の空襲では、520機のB29が3646トンの焼夷弾を投下しており、来襲したB29の機数、焼夷弾の投下トン数とも最大である。5月25〜26日の大空襲では、24日の空襲地域の北側の、政府機関、金融・商業の中枢携関が集中する都心地域と、都心から杉並区にかけての西部住宅地が空襲された。宮城(現・皇居)内の宮殿も焼失した。この地域の空襲では、高層のコンクリートの建物もあるため、油脂焼夷弾だけではなく、貫通力の強い焼夷弾も使われた。
4月1〜2、4日、6月10日、8月8、10日など、4月以降8月まで航空機工場などの軍需工場や飛行場に対する爆撃が続き、周辺の住宅地も被害を受けた。5月29日には、昼間の横浜大空襲の余波で、東京の南部でも被害が出ている。原爆の模擬爆弾は7月20日に東京駅八重洲口近くの堀に投下された。
また、人の殺傷を狙った機銃掃射もなされ、山の手大空襲以外の空襲で、4月以降約1000人が亡くなっている。
■三多摩地域の空襲
東京の三多摩地域への空襲は40回ぐらいである。武蔵野町の中島飛行機武蔵製作所や立川市などの航空機関係の工場や飛行場に対する爆撃が、1944年11月から1945年8月まで続いた。8月2日に八王子の市街地が焼き払われ、8月5日には中央線列車への機銃掃射により大きな被害を受けている。
40回の空襲のうち30日間に、約1500人の死者が出ているが、1945年4月24、25、29、30日、7月6、28、29、30日、8月2、5日の10日間は区部では死者がなく、多摩のみである。
■終わりに
これらの空襲被害写真は、アメリカ軍の東京空襲が軍需工場などの軍事施設のみでなく、教育機関、病院、神社、寺院、教会、繁華街、商店街などの非軍事施設をも破壊し、住宅地を焼き払い、女性や赤ちゃんなどの民間人・非戦闘員を殺致するという非人道的なものであったことをよく示している。戦争が一般民間人に、それも社会的立場が弱い人たちに、大きな犠牲をもたらすことも物語といえよう。
Top