解説・敗戦時期の被害記録写真

  ■第1章 1942年4月~

1942年4月18日 13機が襲来し、品川区、荒川区などで39人が亡くなっている。石川光陽撮影

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■第2章 1944年11月~

■1944年11月24日

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 50機のB29が来襲し、65トンの爆弾と27トンの焼夷弾を投下し、品川区、荏原区、杉並区、江戸川区などで約120人が死亡した。

 東方社の関口満紀が荏原区の民家や工場の被害を撮影している。また、日本写真公社の国防写真隊が神田区の被害を撮影している。

■1944年11月27日

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 59機のB29が来襲し、83トンの爆弾と49トンの焼夷弾を投下し、渋谷区、城東区などで44人が亡くなっている。 東方社の菊池俊吉、関口満紀、小山進吾が渋谷区原宿などの民家、東郷神社、海軍館の被害を撮影している。また、日本写真公社の国防写真隊が渋谷区原宿などの民家、東郷神社、海軍館の被害と城東区の亀高国民学校の被害を撮影している。

■1944年11月29〜30日

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 24機のB29が来襲し、64トンの焼夷弾と13トンの爆弾を投下し、神田区などで約30人が亡くなっている。

 石川光陽が夜間空襲と日本橋区の三越付近などや神田区神田橋の被害を撮影している。東方社では、小山進吾が夜間空襲を撮影し、菊池俊吉が深川区高橋の警防団が浅草区浅草橋で消火活動をしているところと深川区の救護所でおにぎりを配っているところを撮影している。また、日本写真公社の国防写真隊も神田区の被害を撮影している。

■第3章 1944年12月~

■1944年12月3日

70機のB29が中島飛行機武蔵製作所を爆撃するとともに、8機のB29が区部の市街地に来襲し、14トンの爆弾と6トンの焼夷弾を投下した。杉並区、板橋区などで約90人が亡くなっている。

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 東方社では、小山進吾が、青梅街道が中央線をまたぐ杉並区の荻窪陸橋の被害復旧作業を、関口満紀が荻窪陸橋の被害復旧作業と、杉並区の高井戸第四国民学校の東京都立第十中学校(現・東京都立西高等学校)の生徒による片付け作業を、渡辺勉が武蔵野鉄道桜台駅付近の被害をそれぞれ撮影している。また、日本写真公社の国防写真隊が荻窪陸橋の被害と、武蔵野町の中島飛行機武蔵製作所などの被害を撮影している。この他、12月には、東方社の林重男が日本橋区で空襲警報が出て待避する人を撮影している。

■第4章 1945年1月~

■1945年1月1日

 8機のB29が来襲し、神田区などで5人が亡くなっている。石川光陽が神田区元佐久間町の被害を撮影している。

■1945年1月27日

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 56機のB29が来襲し、182トンの爆弾を、京橋区銀座、京橋、麹町区有楽町などに投下した。530人以上が亡くなった。特に省線有楽町駅付近で電車をおりて避難した人たちに爆弾が投下され悲惨な状況となった。銀座、有楽町、日比谷という繁華街が爆撃され、大きな衝撃を受けた。

 石川光陽が銀座などの被害を撮影している。東方社では、麹町区九段の東方社が入っていた野々宮ビルの屋上から、浅草から銀座にかけての空襲による火災の煙を撮影している他、東方社の菊池俊吉と関口満紀が銀座などの被害を撮影している。また、日本写真公社の国防写真隊も銀座などの被害を撮影している。

■1945年1月28日

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 1機のB29が本郷区の日本医科大学や根津神社などを爆撃した。

 石川光陽が日本医科大学、根津神社や本郷区駒込動坂下の被害を撮影している。東方社の小山進吾が、日本医科大学の焼跡を学生が片づけているところと、根津神社の被害を撮影している。

■第5章 1945年2月~

■1945年2月17日

 1機のB29が城東区砂町などを爆撃し、14人が亡くなった。

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 石川光陽が砂町警察署の被害を撮影している。

■1945年2月19日

 119機のB29が来襲し、386トンの爆弾を投下し、葛飾区、江戸川区、王子区などで300人以上が亡くなった。

 石川光陽が警視庁の屋上から月島方面の火災を撮影している。また、東方社の林重男が渋谷区千駄ヶ谷に墜落した飛行機によって起きた火災被害を撮影している。

■1945年2月25日

 72機のB29が来襲し、411トンの焼夷弾を投下し、麹町区、神田区、日本橋区、下谷区、浅草区、本所区、深川区などで195人が亡くなった。石川光陽が麹町区、神田区、下谷区、浅草区の被害を撮影している。

■第6章 1945年3月~

■1945年3月4日

 159機のB29が来襲し、532トンの爆弾を投下し、城東区、豊島区、滝野川区、本郷区、下谷区などで650人以上が亡くなった。

 石川光陽が豊島区巣鴨、西巣鴨、本郷区駒込、目黒区の被害を撮影している。

■1945年3月10日

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 279機のB29が来襲し、1665トンの焼夷弾を投下し、下町地域を焼き払い、甚大な被害を与えた。

 石川光陽が麹町区、浅草区、本所区、深川区、日本橋区、下谷区などの被害や遺体を撮影している。東方社では、菊池俊吉が麹町区九段の野々宮ビルの屋上から夜間空襲を撮影するとともに、浅草区、本所区、下谷区の焼跡を撮影し、林垂男が麹町区富士見の暁星中学校の被害を、後藤種吉が日本橋区の焼跡をそれぞれ撮影している。また、日本写真公社が浅草区、本所区、日本橋区、下谷区、城東区の焼跡などを撮影している。

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■1945年3月31日

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 1機のB29が、四谷区、淀橋区を爆撃し、4人が亡くなった0 石川光陽が四谷区四谷1丁目の被害を撮影している。

■第7章 1945年4月~

■1945年4月1日

 1機のB29が淀橋区、豊島区を爆撃し、17人が亡くなった。 石川光陽が淀橋区戸塚町の被害を撮影している。

■1945年4月2日

 116機のB29が来襲し、武蔵町の中島飛行機武蔵製作所などに、1089トンの爆弾を投下し、武蔵製作所やその周辺に被害をあたえ、約200人が亡くなった。 石川光陽が武蔵野町や板橋区石神井関町の被害を撮影している。

■1945年4月4日

 18機のB29が来襲し、129トンの爆弾を投下し、蒲田区、大森区、品川区、荏原区などで650人以上が亡くなった。また、64機のB29が立川飛行機などを爆撃し、490トンの爆弾と13トンの焼夷弾を投下し、220人以上が亡くなった。そのうち42人は、立川市富士見町の山中坂の防空壕で250キロ爆弾の直撃を受けて亡くなっている。 石川光陽が立川市富士見町や蒲田区の被害を撮影している。

■1945年4月13〜14日

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 328機のB29が来襲し、2038トンの焼夷弾と82トンの爆弾を投下し、東京の西北部を焼き払った。 石川光陽が四谷区、豊島区池袋、西巣鴨、王子区の王子駅前、荒川区尾久、牛込区などの被害を撮影している。また、東方杜の林重男が麹町区の隻菓高等女学校や上智大学の空襲被害を撮影している。

■1945年4月15日

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 109機のB29が来襲し、754トンの焼夷弾と15トンの爆弾を投下し、蒲田区などを焼き払った。石川光陽が目黒区、大森区、蒲田区などの被害を撮影している。

■第8章 1945年5月~

■1945年5月24日

 520横のB29が来襲し、3646トンの焼夷弾を投下し、荏原区、品川区、大森区、目黒区、渋谷区などに被害を与えた。

 石川光陽が荏原区の農林省倉庫、品川区大崎、四谷区信濃町、渋谷区道玄坂の被害を撮影している。また、石川光陽は目黒区会町で不発弾も撮影している。東方社では、撮影者は不明であるが、慶応義塾大学、泉岳寺の空襲被害を撮影している。

■1945年5月25〜26日

 464機のB29が来襲し、3258トンの焼夷弾と4トンの爆弾を投下し、麹町区、京橋区、渋谷区、中野区、淀橋区、小石川区、芝区、世田谷区、赤坂区、杉並区、牛込区、麻布区、四谷区などに被害を与えた。

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 石川光陽は目黒区宮前で夜間空襲を撮影している他、渋谷区の渋谷駅、青山車庫、赤坂区溜池、赤坂見附、青山、麹町区三宅坂、番町、霞ヶ関、丸の内、京橋区銀座、牛込区神楽坂などの被害や、蒲田区矢口の焼跡にたつバラックの理髪店を撮影している。

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 東方社では、光墨弘が夜間空襲での消火活動、麹町区九段の焼跡での告別式、九段と神田区の焼跡を撮影し、菊池俊吉が小石川区関口台町のカテドラ関口台教会の被害、豊島区池袋の東京鉄道教習所の焼跡、牛込区の飯田橋の焼跡にたてられたバラックをそれぞれ撮影している。また、撮影者は不明であるが、東方社のカメラマンが慶応義塾大学、芝区本芝に建てられたバラック、羅災工場の作業風景も撮影している。

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■第9章 1945年8月~

■1945年8月2日 

 8月2日の八王子空襲は中小都市空襲の一環であり、飛行機から投下されたビラで事前に空襲を予告し、貫通力の強い焼夷弾を多用した。爆撃の目標は軍事目標ではない市街地と鉄道の駅であった。169機のB29が来襲し、1593トンの焼夷弾を投下し、428人が亡くなり、八王子市の旧市街地の80%が焼失した。

  石川光陽が八王子市の被害を撮影している。

■1945年8月10日 

 70機のB29が東京陸軍造兵廠を目標に320トンの爆弾を投下し、東京陸軍造兵廠周辺の王子区、板橋区などの住宅地にも被害を与え、150人以上が亡くなった。

  石川光陽が板橋区の小豆沢国民学校などが空襲で燃えているところを撮影している。