栗原 功(牛久市教育委員会・文化財保護員)
■東猯穴の先史時代
▶東狸穴の位置と地勢
筑波根の新桑の芽や春の水
これは牛久が生んだ小川芋銭画伯の句である。また、東猯穴が属していた旧岡田村の村歌には、「波山(はざん)の南 霞浦(かほ)の西」とある。
小川芋銭が住んだ家(雲魚亭) 現在は市の記念館として土日開放している。
芋銭に詠まれ、村歌に歌われた紫峰筑波山。その筑波の項(いただき)を望む位置にある牛久市東猯穴町は、小野川左岸の台地上に集落を形成している。総面積178町歩余。東猯穴は米作を中心にした純農村だった。が、現在は、兼業農家がほとんどだ。
集落の位置は、江戸時代初期の元禄年間(1688−1703年)ごろまでは、八幡神社付近にあった。旧小字地名で「本田」といわれているところである。つまり、元禄年間以降に現在地に移ったのである。
▶地名に海の名残
いまから約五、六千年前の茨城県南地方は、銚子方面から利根川と霞ケ浦をむすんだ幅で、筑波山麓あたりまで海か入り込んでいた。
牛久沼や稲荷川、さらに東猯穴台の下を西北から東南の方向へ流れる小野川も当然海だった。2~3,000年経過した。海の水がだんだん引きはじめる。あちこちの入江からも水が引いていく。そして弥生時代初期(約2,100年前)ごろになると、いまの小野川の沿岸ぐらいまで水が引いた。
入江は湿地帯に変わり、そこには葦の枝が生い茂った。東猯穴地内には入谷津(いりやつ)という旧小字地名があるが、これは海の入江になっていたことを示すものである。東谷津とか東谷とかいうところもある。ちなみに千葉県下には谷津(やつ・潮干狩で知られる海岸で有名)というところがあるが、これも東猯穴町地内の入谷津と同じように海の入江の名残を示すものである。
▶️古代の東猯穴
古墳時代にも集落はあった東狸穴地域において、人びとが、集落を形成した時代を諸々の遺跡等で推定するといつごろになるかというと、西暦でみると四〇〇年前後の古墳(大和)時代である。
ただし、それ以前の弥生時代、さらにさかのぼって縄文時代にも人々が居住していた形跡らしき片鱗が見られるが、それらをもって集落形成と断言するわけにはいかない。
さて、東猯穴が古墳時代に集落が形成されたということを証明するものを次に記してみよう。古墳時代から製作がはじまった赤褐色の素焼土器土師器が出土している。旧小字の馬場遺跡と行人田遺跡がそれである。それに大久保遺跡といわれている付近からは、古墳時代中期以降に日本で作られた、須恵器の原形のもの、ほぼ原形のもの、諸部分破損のものの出土がみられる。
▶稲作が伝わる
稲を基幹作物とする日本の農業は、北九州で起こった。それはとりもなおさず、稲が中国方面から渡来したことを意味する。稲作は中国でも南西端の雲南地方で起こったといわれる。その雲南では、稲は、もとは自生していたそうだ。
一方、雲南の人びとはもち・こんにゃく・納豆・味噌を食し、茶や絹の生産を行ない、鵜飼(岐阜児の長良川)そっくりの漁法を用いているという。豊作祈願や豊じょう感謝祭などにも日本のそれと類似点をみることができるという。雲南には日本文化の源流がみられる。
ところで北九州の一角で起こつた稲づくりは間もなく瀬戸内、近畿地方へ。そしてさらに東海地方をへて、筑波山のふもとに伝わった。
その筑波山麓から牛久方面へ、稲づくりの技術が伝わった。弥生時代の中ごろ(約1、800年前)のことである。
東猯穴地域の谷津田とよばれているところが、改良されて、稲づくりがはじまったのは、古墳時代中期(西暦450年)ごろのことと思われる。
▶「筑波国」に属した東猯穴
ところでこの時代をなぜ古墳時代といったのか。それは時の権力者がその権力を被権力者や他地方の権力者などに印象づけるために、みずからの古墳(権力者が埋葬された)をつくった時代だからだ。東猯穴地内にも円墳の片鱗をうかがわせる古墳が残っている。これも当時、集落形成がなされていたことを証明するもののひとつにあげることができる。ちなみに、古墳の種類は、円墳や大規模な前方後円墳などがある。現在、牛久市内には約30基、茨城眼下には5,500基余り、さらに全国(北海道・東北北部と沖縄諸島をのぞく)
では10万基にのぼる。古墳時代のはじめ(西暦300年ごろ)、全国(北海道・東北北部と沖縄諸島をのぞく)には120余りの小さな国があった。この国はいまの郡ぐらいの広さだった。
大和(現奈良県)地方を本拠にする豪族がこれらの小さな国を一つの国家に統一し、北海道・東北北部と沖縄諸島をのぞいた日本全土を組織的に支配する最初の政権が誕生した。大和朝廷とよんだ。こうした事情により古墳時代を大和時代ともいう。
一方、のちの常陸国の範囲内には次にあげる六つの小さな国があった。高(多珂)、久自(久慈)、仲(那珂)、茨城、新治、筑波で、このうちの筑波国には属していた。
大和朝廷は、それまで独立していた小さな国(筑波国など)を一つの行政区画にし、国造という役職をもうけてそこを支配させた。筑波国の国造にはこの地方の豪族「阿閉色命」を任命した。阿閉色命およびその子孫たちは、つぎにくる飛鳥時代の政治改革・大化改新(西暦645年)で、大和朝廷の政権が倒れるまでの間の約300年、筑波国を支配した。
阿閉色命(あべしこのみこと)とその子孫が埋葬されている前方後円墳が、つくば市大字沼田地内に残っている。
■飛鳥・奈良・平安時代
▶東猯穴地方
飛鳥時代(およそ600−700年)の最大の政変は、天皇中心の政権が誕生したことである。その政変を大化改新という。そして日本で最初の年号が用いられ大化(広大な徳利という意味)と命名された。大化改新(大化元年・六四五年)によってそれまで独立していた小さな国(東猯穴が属していた筑波国などをさす)が統合され、全国(北海道・東北北部と沖縄諸島をのぞいた)は五八カ国と三島に集約された。
このときに高(多珂)、仲(那珂)、久自 (久慈)、茨城、新治、筑波の六カ国が統合、常陸国が誕生した。常陸国誕生時の常陸国総人口は、その時作成された、日本で最初の戸籍簿「庚午年籍(こうごねんじゃく)」の記録によれば、約15万。ちなみに全国の総人口は約六〇〇万人。
大化改新で常陸国内は、十一評(こおり)(奈良時代に評から郡(ぐん)に改称された)に分けられた。東猯穴は河内評(郡)に属することになった。河内評(郡)には郡家と称する郡役所が設置された。郡家(ぐうけ)では郡司(ぐうじ)が政治を行なった。郡司という役職には、大化改新まで国造を務めたような家柄の出のものが任命された。
河内評(郡)の郡家は金田(現つくば市大字金田)に置かれた。評(郡)内はさらにいくつかの郷(ごう)という行政区に分けられた。のちに郷内に自然に発生した集落が村である。村が末端の行政単位として登場するのは江戸時代になってからのことである。
ところで郷が設けられると、東猯穴あたりは河内郷(かわちごう)となった。つまり常陸国河内評(郡)河内郷というわけだ。ちなみに、ことわざにある「郷に入っては郷に従う」は、郷という行政区内のことをさしている。
一方、全国各地には上郷(かみごう)(現つくば市大字上郷)とか中郷とか下郷とかいう地名が残っている。本郷(阿見町の本郷や東京の本郷)というのもある。近郷近在ともいう。これらはすべて郷という行政区から発している。
飛鳥時代には、東猯穴の東方面の中根・東大和田に駅路(うまやじ)(国道)がつくられた。大化改新のさいに天皇が出した詔(しょう)といわれる命令書には「陸上の交通制度をととのえて、地方の行政区域を明確にする」と示した一節があった。これに基づいて朝廷は、政権の拠点、大和国(現奈良県)飛鳥の地と各国の国府(県庁にあたる)所在地をつなぐ道路を建設したのである。この道路を駅路といった。
駅路は最初に設けられた国道である。飛鳥の地を発し、太平洋沿岸の諸国をへ、中根・東大和田を通り、常陸国府(現在の石岡市)へ至った駅路がつくられた。この駅路は、のちに鎌倉街道、さらに水戸街道になるのである。