永平寺の頂相

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戸田浩之

▶はいじめに 

 「頂相(ちんそう)」とは禅僧の肖像画を指す独自の呼称である。「不立文字」「以心伝心」の言葉が端的に示すように、禅において仏法は文字や言説によるものではなく、師から弟子へと正しく伝えられていくものであるとする。そのために、歴代の祖師や師の姿を措いた画像を特に重要視し、時には師の法を嗣(つ)いだ証の一つとして、賛を付して授与されたりもした。また像主の年忌や法要に際し、これを掛ける「掛真(けしん)」にも使用された。鎌倉時代に禅宗が中国より伝えられたことにより、頂相の習いもまた日本に広まり、多くの優れた画像が描かれた。その結果、頂相は禅宗美術の主要ジャンルのみならず、日本美術においても大きな一角を占めるようになった。

 曹洞宗においても開祖道元以来、数多くの頂相が制作されたと思われるが、現存作例を見る限り、臨済宗に比べその数は多くない。とはいうものの、大本山である永平寺には、現代にいたる歴代の頂相が少なからず伝えられている。そこでこれら永平寺の作例について、以下にその概略を記してみたい。

▶道元禅師像

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 「道元禅師像」(上図)は、永平寺最古の道元画像で、開祖道元禅師の自画自賛像として尊ばれてきた。紙本に描かれた小幅の画像で、沓と沓台を前に、墨染の衣に同系色の袈裟を着け、両手に払子(ほっす)を持って曲彔(きょくろく)に坐している。これは中国以来の伝統的な頂相形式を踏襲したものである。顔はわずか上方を見上げており、その表情は端正で気品にあふれている。図上には、『永平広録』収録のものとほぼ同文の自賛が書される。しかしその筆跡は、道元のものとは明らかに異なることから、後世の写しと考えられる。画面の切り詰めや、全面に補筆・補彩も認められ、過去何度かの修理を経ているようである。また本来あった袈裟の環も削られている。これは江戸末期にその有無をめぐつて、総持寺派と争った「三衣論争」に因るものと考えられる。本図の制作年については、これまで南北朝から室町時代頃と想定されてきたが、近年、天文二十一年(一五五二)の道元三百回忌、ないしは慶長七年(一六〇二)の三百五十回忌に際しての制作との説が出されている。

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 視線を上方に向ける表現は、道元五十歳にあたる建長元年(一二四九)の年紀のある大野市・宝慶寺の道元像とも共通しており、これが道元像の一つの特徴であったと見ることができる。細線により繊細に表される面貌は、鎌倉時代に隆盛をみた似絵(にせえ)表現に通じるもので、像主の特徴を長く伝えていると考えられる。また着用の袈裟や衣は、他作例に見られるような、模様のある華やかなものではなく、色目も地味で質素な装いである。道元は袈裟の色に黒や青、黄色などの濁った壊色(えじき) にすべきと説く(『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』「袈裟功徳(くどく)」)。また本師如浄は模様のある華美な袈裟を着けなかったことも記している(『正法眼蔵』「嗣書(ししょ)」、『宝慶記』)。

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 今に残る道元着用の袈裟(上図)熊本・広福寺本)を見ても、そのことを裏付けることができ、本画像の表現が道元の意を反映したものであることが理解できる。くわえて細身の曲彔(きょくろく)の描写は、中国十三世紀の作例(「虚堂智愚像」一二五八年自賛、京都・妙心寺蔵など)にも見られる形式である。これら随所に認められる古様な表現などを考慮すれば、本図はのちの時代に新たに制作されたと考えるよりも、古い時代の画像を忠実に模写したものと見るべきだろう。

 ところで、道元は頂相についてどのような考えを持っていたのであろうか。『正法眼蔵』「嗣書」には、道元が中国で学んだ当時、嗣法の証が本来嗣書の授与により行われるべきところ、頂相や法語をその証明をする風潮があることを批判的に記している。また同書には、嗣法の証として嗣書のはかに、袈裟や払子、竹箆(しっぺい)などを付与すると記すが、そこに頂相の語を見つけることはできない。そこから道元は、頂相を嗣法の証明とは見ていなかったと考えられる。そのことは、『三大専行状記』など中世の伝記史料に、如浄から道元へ嗣書と芙蓉道楷(ふようどうかい)の袈裟などが付与されたが、頂相について何ら記されていないことからも窺える

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 なお、近世に出された『建撕記(けんぜいき)』の諸本(延宝本・訂補本)には、道元帰国に際して、如浄自賛像が付与されたとする記述がある。従来これをもって、我が国への頂相請来の初期例としている。しかし近年の研究によれば、のちに永平寺三世となる徹通義介が、正元元年(一二五九)に入宋、如浄頂相を持ち帰ったという中世の史料が、近世になって道元の事蹟に編入されたためであるとする。

 以上により、道元は項相を嗣法の証として用いることに批判的であったと考えられる。しかし、それは頂相の制作までも否定するものではなかった。なぜなら、道元の法語や賛語を集めた『永平広録』には、自画像に付された自賛が二十首も収録されているからである。その数は決して少ないものではない。法を嗣いだ証明はあくまで嗣書や袈裟であり、そのための頂相制作は行わない、ということなのだろうそこが嗣法の証の一つとして頂相を与えるという、臨済宗における位置づけとの大きな違いであろう。この道元の考え方は、以後の曹洞宗の頂相にも大きな影響を与えたと考えられるのである。

 それでは、本画像の原本はいつ頃描かれたのだろうか。先ず道元の自賛があることから、道元在世時代の制作であることは疑いない。『永平広録』の自賛二十首のうち、本画像の賛は十番目に位置する。宝慶寺本の賛が三番目に収録画像は五十歳以降の制作となる。しかしその表情は宝慶寺本よりも若々しく見える。道元の画像がいつ頃より描かれ出したか明らかでないが、仮に五十歳以降の制作としても、かみがたより若い頃の紙形(頭部のデッサン)が用いられたのだろう。凛としたその表情には、正伝の仏法を広めんとする強い意志が感じられる。なお本図の制作年代について、本展では、近年の説に従い十六世紀としたが、その描写からさらに時代が遡る可能性を指摘しておきたい。

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 さらにその制作にあたっては、紹興二十八年(一一五八)に制作された宏智正覚の画石像(石井修道『宋代禅宗史の研究』所載)を祖本としたとする指摘がある宏智正覚(一〇九一〜一一五七)は曹洞宗の禅僧で天童山に住し、公案による得悟を目指す「看話禅(かんなぜん)に対し、坐禅修行による「黙照禅(もくしょうぜん)」を提唱したことで知られる。道元は正覚を「古仏」と呼んで深く尊崇していることからも、この指摘は魅力的といえる。ただし、画石像曲彔(きょくろく)に斜め向きに坐し、両手で払子を持つその姿は、当時の頂相として一般的なものである。反対に本図とは曲彔の形態が全く異なり、かつ衣文線など体部の描写も違っていることからも、これをただちに祖本と認めることはできない(石川・大乗寺の徹通義介像こそ正覚像を祖本としている)。

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 むしろ、近年祖本との指摘がなされた永平寺の宏智正覚像(挿図、以下永平寺本)の方が、瓜二つといえるほど本図と酷似している。永平寺本は備中(岡山)永祥寺の汝揖により、嘉永五年(一八五二)に永平寺に奉納されたものである。ただし自賛はあるものの、画風から明らかに後世の作で、制作年は奉納と同時期と考えられる。祖本を想定するのであれば、永平寺本のほうがより相応しいといえる。しかしながら、永平寺本の原本が何時描かれたのか。仮に正覚像が寿像(じゅぞう・生前の画像)だとして、何時日本にもたらされたのか。反対に永平寺の道元像を祖本として、正覚像が描かれた可能性はないのか。残念ながら両者の関係については俄(にわ)かには判断し難い。あるいは両者を掛け並べることで、道元が正覚の継承者であることを視覚的に強調する意図があったのかもしれない。

 このように尊崇する祖師の姿を襲い、像主が正当な後継者たることを表した例として、中国臨済宗の名僧虚堂の姿そのままの一休像(虚堂様)があることを書き添えておく。

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 これまで道元像といえば、宝慶寺本に焦点を当てられることが多かった。しかしながら、本図も中世期に制作された数少ない道元像として、その存在は今後見直されるべきである。

▶寂円派講師の頂相 

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 永平寺には「寂円派諸師の頂相」あるいは「寂円派歴世の頂相」と呼ぶ九幅の画像がある。南北朝から室町時代にかけての永平寺歴代の頂相で、いずれの像主も寂円派の法系に連なることに由来する。寂円派とは道元を慕い中国より渡来、越前大野に宝慶寺を開いた寂円を祖とする派で、五世義雲以降、中世を通じて代々永平寺住持を務めた。本展では像主不明の一幅を除く八幅を展示している。

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 このうち、七世以一(いいち・一三六二〜八八)八世喜純(きじゅん・一三八八〜一四〇〇)、

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九世宗吾(そうご・一四〇〇〜〇五)、十二世了鑑(りょうかん・一四四五〜五七)の各像には像主の自賛がなく、名前のみが書される。

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 しかもその書体が十三世建綱像(けんこう・一四五七〜六八)の自賛と同筆と見られること。また竹箆(しっぺい)を手にし、法被(はっぴ)を掛けた曲彔(きょくろく)に右を向いて坐し、前に沓と沓台を置く構図や描写、そして絵絹にも共通性が認められることから、これらは建綱の代に整えられた遺像と見てよいだろう。途中の世代が抜けているのは、のちの時代に失われたためと考えられる。しかも各像の表現を子細に見ると、以一、喜純、宋吾と、了鑑、建綱の二つに大別できる。そこからこれら一連の頂相は、二人の絵師による分担制作であった可能性が高い。また各像主が個性的に描き分けられていることから、紙形ないしは、先行画像を参考としたと考えられる。

 これらの頂相が建綱の代に一挙に制作された背景については、永平寺における寂円派の系譜を視覚的に誇示するためと・いうが定かでない。ただいずれの画像も、無地の衣と袈裟という質素な姿で表されており、そこに道元以来の伝統が忠実に守られていることが理解できよう

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 十五世光周(こうしゅう・一四七四〜九三)、十六世宗緑(そうえん一四九三〜一五二一)、十七世以貫(いかん・一五二一〜四三)の三画像は、像主の永平寺在住時代に描かれた寿像で、自賛と年紀をともなう点でも貴重といえる。光周像は先行画像の形式を踏襲しているが、宗緑・以貫像は、細やかな文様入りの袈裟や法被を、金泥と鮮やかな色彩で華やかに描き出している。画風から恐らく両者は同一絵師の手になると見られるが、光周以前の画像と比べ、その表現には歴然とした差がある。むしろそれは、同時代の総持寺派や、臨済宗の作例と共通している。これは当然のことながら、像主の意向が反映された結果であるが、あわせて頂相表現に対する認識に変化が起こつたことを現すものではないだろうか。ただし、賛文に嗣法の証として制作した旨の文句が見られないのは、道元の頂相観がこの時代においても保持されていたことを示すものといえよう。

 ほかにも描いた絵師の帰属や制作地など、今後解明すべきは多い。ともかくも、中世期の資料に乏しい永平寺にあって、これらの頂相は当時を知ることのできる貴重な通例とすることができる。

▶近世以降の頂相

 現存する永平寺の近世頂相中、もっとも古いものは以貫像から約百六十年後に描かれた三十九世承天則地像しょうてんそくち・一七一六〜二九50)である。ほかには四十二世円月江寂像えんげつこうじゃく・一七四〇〜五〇51)と四十五世宝山湛海像(ほうざんたんかい・一七五八〜六四)が残るのみである。近世の住持は四十人ほどおり、失われたものがあるにせよ、その数は極端に少ない。もちろん費用的な面や、在住期間の長短にも因るのであろうが、やはりそこには頂相に重きをおかない意識があったからではないだろうか。

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 三幅は何れも自賛をともなう寿像で、像主の在任期間に描かれたものである。鮮やかな原色の衣と袈裟を着け、曲彔(きょくろく)に正面を向いて腰かける姿は、中世期の画像と大きく異なっている。しかも則地像の面貌表現に見る、ある種の生々しい写実性は特徴的といえる。

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 これらの特徴は、十七世紀山側頭に明の禅僧隠元 隆琦ら黄檗禅とともに日本に伝えた新しい頂相表現である。この黄檗宗の移入は、絵画や彫刻、書などの芸術分野を始めとする、日本の文化全般に多大なる影響を与えた。ちなみに今日、禅宗寺院で使用される(ほう)や木魚は、実はこの時に伝えられたものといわれる。

 曹洞宗も黄檗宗と早くから交流を持ち、その影響を強く せいげんとうそくちゅう受けている。その大きさは、五十玄透即中(げんそうとくちゅう・一七九五〜一八〇六)が、黄檗の風を止めて道元の教えに帰る「古規復古」を行ったことからもうかがえる。実際、今に残る曹洞宗の頂相の多くが、黄檗様式で描かれていることもその証となる。それは伝統的スタイルを守り続けた臨済宗とは対称的であり、近世曹洞宗の頂相の大きな特徴ということができる。ちなみに、黄檗宗は江戸時代には臨済宗の一派と位置付けられており、自ら「臨済正伝」を標榜していた。臨済宗に黄檗様式があまり広がらなかった理由は、意外とそのあたりにあるのかも知れない。

 さて、近代に入ると、写真という新たな手法が導入された。像主の姿を写し取るという意味で、写真はこの上もない便利な表現手段であったといえる。そして以後の歴代住持の姿は、写真で残されることが主流となっていく。そのなかで僅かではあるが、絵画に描かれた作例がある。六十四世大休悟由(だいきゅうごよう・一八九二〜一九一五)いしつもくせんと六十六世維室黙仙(いしつもくぜん一九一六〜二〇)、そしてせんがいえきほ七十八世栴崖奕保(せんがいえきほ一九九三〜二〇〇八)の各画像である。

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 悟由像は幕末から明治の日本画家佐竹永湖の筆。曲彔(きょくろく)に坐す斜め向きの姿で、近世の主流であった黄檗様式をなく、七十八世がのちに賛を加えている。また黙仙像は、坐禅する像主をデッサン風に白描で表現した画像で、作者は黙仙と深い親交のあった日本画家寺崎廣業(てらさきこうぎょう)。自賛をともなうが威儀を正した公的なものではなく、像主の日常の姿を捉えた私的画像といえるものである。その意味で日本画家田渕俊夫による栴崖奕保像は、自賛を具え、威儀を正した画像という点において、湛海像から実に約二百四十年ぶりの制作となる。作者は制作にあたり、中世永平寺の諸作例を参考にしたといい、随所にその跡が見て取れる。

▶おわりに

 以上、永平寺の頂相について、道元の頂相観や、曹洞宗における損相の特徴など、その概略を含め簡単に述べてきた。

 これまで頂相について論じる際、臨済宗の作例が中心とされてきたそれは古い頂相の通例が曹洞宗に比べて圧倒的に多いこと。その結果、書籍や展覧会で掲載・展示され、一般的に知られる画像のはぼ全てが、臨済宗の作例で占められてきたことによる。その意味では、曹洞宗における頂相の全体的な調査と研究が、今後より必要と言え、本展覧会がその一助となれば幸いである。

(とだ・ひろゆき 福井県立美術館主任学芸員)