谷口耕生
▶はじめに
中国を代表する港湾都市として知られる寧波。杭州湾出口の南岸、東シナ海に面するところに位置するこの町は、さらに中心部で三つの河が合流するという地理的な条件に恵まれたこともあって、古代より水上交通の一大拠点として発展してきた。現在の寧波市は、市区地域だけで二百万人、管轄下に置く近隣の慈渓市・余挑市・奉化市・寧海県・象山県を加えると六百万人を超える人口を抱えており、中国でも特に経済発展の著しい漸江省にあって、省都の杭州に次ぐ第二の規模を誇る大都市となっている。昨年五月には、杭州湾を挟んで北側に対略する上海と、海上橋として世界一の全長を誇る杭州湾海上大橋で結ばれたことで、今後さらなる経済発展への期待が集まっており、市街地を中心に多くの高層ビルや工業団地が建ち並ぶ現代都市に変貌を遂げつつある。
しかし、五代十国の呉越国や南宋の都ともなった杭州を背後にひかえる国際貿易港としての歴史は古く、唐代には明州、南宋は慶元府、元代は慶元路(けいげんろ)、明代以降は寧波と、町の名前がたびたび改められながらも、海上交通の拠点としての重要性が変わることはなかった。とりわけ日本との関係は深いものがあり、遣唐使がここを足掛かりに都の長安を目指したほか、日宋貿易・日明貿易の船の発着場ともなるなど、長らく日本と中国を結ぶ海上交易における中国側の最大の窓口となってきた。そして何よりも寧波の町が日本人を惹きつけてやまなかったのは、中国でも有数の歴史を誇る豊かな仏教文化に他ならなかった。町の内外に現在も、阿育王寺(あいくおうじ)や天童寺、普陀山(ふださん)など日本とゆかりの深い仏教寺院が数多く点在しており、歴史上数多くの日本僧が海を越えてこれらの聖跡を訪れ、そこで得た仏教の知識や文物は日本仏教発展の礎となってきたのである。
本展覧会は、このような寧波という町がもつ「仏教の聖地」としての側面に光をあて、日本人が憧れ続けた寧波の仏教文化の魅力を広く紹介する試みとして企画された。ここではその概要の紹介を兼ねて、寧波でもとりわけ重要な聖地を尋ねながら、それぞれの聖地をめぐる信仰と、その信仰が生み出した造形の魅力に迫りたい。
▶国際貿易港寧波と日本
余挑江(よよう)と奉化江(ほうか)という二つの河が合流し、ここから南江と名前を変えて杭州湾の出口付近に注ぎ出る。この三つの河の合流地点である「三江口(さんこうこう)」(上図)の西側に隣接して形成された寧波の市街地は、余挑江を通じて南宋の都・杭州と結ばれ、商江を下れば東シナ海を越えて日本をはじめ東アジア諸国と直接結ばれており、さらに後背地には農業・織物業・窯業などの産業が発達するなど、国際貿易港として相応しい立地条件を備えてきた。
この地はかつて紹輿(しょうこう)を中心とする越州(えっしゅう)に属しており、唐の武徳八年(六二五) には同州(上図)寧波風景(三江口)内に「鄭県(ぼうけん)」を設置しているが、その名前は海人たちがこの地で貿易を行っていたことによるものといい、貿易基地としての立地条件の良さが古くから認められていたことがわかる。開元二十六年(七三八)には越州鄭県の中に「明州」を設置しており、最終的に明州が越州から独立した行政区域となつたのは長慶元年(八二一)のことだった。この時、それまで東部の阿育王寺の近くにあった州城を、現在の三江口に隣接する位置に移している。
明州の町の名前は南西にそびえる四明山にちなんでつけられたもので、町の正式名称が時代ごとに変更されても広く使用され続けたのであり、時にこの地を「四明」と呼ぶこともある。最終的に「波やすらか」という願いを込めて「寧波」の名前に定められたのは明代のことで、その名が現在まで続いているのである。(※以下、本稿では混乱を避けるため、特に断りを入れない限り、時代にかかわらず町の表記を「寧波」に統一する。)
このように時代によって町の名前は変わりながらも、寧波は重要な国際貿易港としてあり続けた。現在、寧波を往来する船は、市の中心部から商江を二〇キロほど下った河口近くの北命区に着岸するが、かつてはすべての船が商江を遡上して三江口付近に着岸したのである。(下図)
明代の寧彼の様子を描いた唐山勝景画稿(下図)には、霊橋門すぐ近くの奉化江に面したところに「日本船津」が見えており、日本から来た船がここまでやってきていた様子がうかがえる。
今から約千三百年前の奈良時代、唐との正式な朝貢関係の中で日本から派遣された遺唐使も、しばしば船の発着地を寧波としていた。日本天台宗一つの開祖として知られる伝教大師最澄(七六七〜八二二、4)が、遣唐使の留学生として入唐したのは唐の貞元二十年(八〇四)九月のこと。遣唐第二船に乗って明州に着岸し、ここで通行許可証である「明州牒(伝教大師入唐牒)」(5)を得て天台山巡礼を果たしている。
最澄は、この明州牒という日本人が寧波の地を踏んだことを示す最古の一次史料を残しただけでなく、寧波〜天台山というその後の日本僧が誰しも憧れた巡礼路を最初にたどった人物として記憶されるべきである。最澄と同じ時に遣唐船に乗って入唐し、長安の青龍寺で恵果(けいか)阿闇架から真言密教の奥義を伝えられた弘法大師空海(七七四〜八三五)が、元和元年(八〇六)に帰国の途についたのも寧波の地からであり、その後も入唐人家に数えられる慧運(えうん・六九八〜七六九)ら寧波経由で入唐を果たした日本僧は多い。
このように唐の時代においても、日中間の海を越えた交通において寧波は重要な拠点だったことが確かめられるが、しかしそれはあくまで温州や台州など他地域の港湾とともにいくつかあった重要港湾の一つという扱いに過ぎなかった。これが、北宋時代の咸平(かんぺい)二年(九九九)以降、寧波に市舶司という海上貿易管理の官庁が設置されると、中国と日本あるいは高麗との間を往来する船は、ほぼすべて発着地が寧波に一本化されるようになる[榎本二〇〇七]。日本と寧波の人や物の往来は一層盛んとなり、成尋(じょうじん・一〇一一〜八一)や重源(一一二一〜二一〇六)、俊芿(しゅんじょう・一一六六〜一二二七)など多くの日本僧が寧波に渡る一方、経典・仏像・仏画を初めとする仏教美術の数々、陶磁器や漆器などの調度品、さらには茶・味噌などの食文化に至るまで、様々な品々が寧波の地からもたらされたのである。至治三年(一三二三)に寧波を出航して日本を目指していた商船とみられる新安沈没船には、美しい粕薬を誇る青磁の数々(上図)が積載されていたが、こうした中国の陶磁器は当時の日本人にとって憧れの的だつた。
さて、日本にもたらされる中国文物の中でもひときわ重視されたのは、一切経と呼ばれる一括の漢訳経典である。とりわけ中国皇帝の威信をかけて開版された宋版一切経(上図右)は、ひとたび日本国内に輸入されると所有すること自体が一つの権威となり、これを底本として盛んに一切経書写も行われた。
例えば平安写経として著名な中尊寺伝来の紺紙金字一切経(清衡経)は、寧波の寺院にかつて安置されていた宋版一切経(中尊寺蔵)を底本としていることが知られ、また、宗像社(むなかたしゃ)僧・色定法師が文治三年(二八七)以降に書写したという一筆一切経(上図)は「張成」という宋の商人が提供した宋版一切経を底本としていた。ちなみにこの一筆一切経の檀越(だんおち・だんな)だった宗像氏は張氏と婚姻関係を持っており、こうした博多に在住した宋の商人を通じて仏教文物入手ルートを確保していたと考えられる。建仁元年(一二〇一) に宗像大社に施入されたことが銘文より判明する宋風獅子(下図右)や、南宋の紹輿六年(一一九五)の銘文を持ち承久二年(一二二〇)に宗像大宮司家の妻張氏によって宗像大社に奉納されたことが判明する阿弥陀経石(下図左)も、同様のルートで寧披からもたらされたのだろう。
寧波と博多を往来した宋人たちが関わったと仏教作善(さぜん・堂塔・仏像の建立・造営,写経・法会・追善供養などを行うこと)として、さらに注目しておきたいのが経塚(きょうづか)の存在である。博多を中心とする北部九州には、平各時代にさかのぼる経塚の遺構が多数発見され(挿図3.4)ているが、中でも注目されるのは福岡平野の東限に位置する白山山頂付近で発見されたという白山神社経塚出土遺物(下図左)である。このうち、天仁二年(一一〇九)の銘をもつ銅製経筒の台座底裏に「徐工」という宋人の名前と思しい墨書銘が記されており、四耳壷や湖州鏡、青磁合子など宋からの舶来品が一緒に出土していることも、宋人の関与を強く示唆させるものである。これらが出土した白山山頂には、現在でも薩摩塔と呼ばれる宝瓶形石塔や宋風獅子など、中国産と見られる石材を用いた宋風の強い石造遺品が残る。
このような経塚(きょうづか)への宋人の積極的な関与については、日本の伝統的な信仰形態に宋人が結縁したと見る向きが強い。しかし初期の経塚が北部九州に集中する事実を踏まえるとき、経塚の発生自体が大陸文化との接点の中で起こつた可能性を検討すべきだろう。寧渡仏教と日本の経塚の関係については、次章で改めて取り上げることになる。
▶阿育王寺・仏舎利信仰の聖地
聖地ひしめく寧波にあって、とりわけ古い由緒を誇るのが、現在の寧波市の東部に位置する阿育王寺(上図)である。ここは、古代インドのアショーカ王(阿育王)が道立した八万四千の仏舎利塔の一つが地中から沸き出した場所とされ、中国でもっとも有名な仏舎利信仰の聖地として現在も多くの参拝者を集めている。ここは唐僧・道宣(どうせん)が著した『集神州三宝感通録』などに記載される、次のような説話が信仰の発端となっている。
西晋の大康二年(二八一)、劉薩何(りゆうさっか)という猟師が殺生を重ねた罪にょって地獄に堕ちるのを逃れるため、阿育王の造立になるという古塔を探し求め礼拝俄悔(らいはいざんげ)することを決意する。劉薩何は出家して恵達(えだつ)と名乗り、塔を探し求めたところ、地中より鈴の昔が聞こえ、そこから忽然として宝塔と舎利が涌出したというのである。その霊塔は青色で高さは一尺四寸(約四十五センチ)ばかり、四面に窓を開け、その表面に諸仏・菩薩・金剛力士・僧形などの像を非常に細かく表しており、塔の中には銅磐を懸(か)けているという。そして、その塔は大きな木塔の中に安置され、塔とともに涌出した舎利は木塔の底に納められているというのだ。梁の武帝は普通三年(五二二)にこの古跡を復興し、木の仏塔を建立して伽藍を整備し、阿育王寺と号したという。
この阿育王寺の仏舎利塔は、歴代の皇帝から崇拝を集め続けることになる。特に五代十国時代に寧波を含む漸江地域を続治した呉越国の最後の王・銭弘俶(せんこうしゅく在位九四八〜七人)は、阿育王寺の仏舎利信仰に深く帰依し、阿育王の故事に倣って八万四千の仏舎利小塔を作製して呉越国の領内各地に広めたという。実際、呉越・北宋時代に建立された中国漸江省各地の仏舎利塔の地下宮殿(地宮)から、銭弘仮の八万四千塔の一部とみられる「呉越国王銭弘俶敬造八万四千賓塔」という刻銘を伴う最大でも四十センチに満たない金属製小塔が数多く発見されており、呉越国の仏教文化を象徴する存在となっている。これら銭弘倣道立の阿育王塔(以下、銭弘倣塔)に共通するのは、塔身上面の四隅に方立と呼ぶ突起を付け、塔身の四側面に設けられた窓状の区画に釈迦の前世の物語を表すという、極めて特徴的な形状をもつことである。塔の大きさや四面に窓を設ける点は、先に見た『集神州三宝感通録』に記述される阿育王寺塔の造形に近いものがある。
さらに銭弘俶塔が阿育王寺塔の形を踏襲していることは、日本に初めて本格的な戒律をもたらしたことで有名な鑑真和上(六人七〜七六三)の伝記『唐大和上東征伝』(下図)の記述から知ることができる。
鑑真は、五度にわたる失敗を経て、六度目の渡航で日本にたどり着くという苦難の旅を経験しているが、その第二回目の渡航失敗の時に救助されて寧波の阿育王寺に居住することを許され(上図)、阿育王寺塔を実際に目の当たりにしている。鑑真が日本仏教に与えた影響の大きさを鑑みるとき、間接的であるにせよこれが日本仏教と寧波の初めての出会いといっても過言ではないだろう。このとき鑑真が見た阿育王塔の姿について、『唐大和上東征伝』 は四面に釈迦の前世譜が彫刻されていることを記述している。これが銭弘俶塔の特色と一致していることは明らかであり、銭弘俶がアショーカ王の八万四千塔造立の故事に倣ったのみならず、呉越国内における最も重要な聖遺物である阿育王寺塔を直接模倣した造塔事業だったことが判明する。
本展覧会では、台州市黄岩区霊石寺塔(上図)・金華市万仏塔(上図)など、呉越・北宋時代に阿育王寺の舎利信仰の影響下で建立された仏舎利塔の地宮および天宮に奉納されていた遺物を多数展示する。中でも銭弘俶の妃が発願したという雷峰塔(中国漸江省杭州)の天宮に納められていた銀阿育王塔(上図)は、数ある銭弘俶塔の中でも銭弘俶その人が実際に奉納に関わった可能性が高い極めて貴重なもので、本邦初公開となる。現存する銭弘俶塔の多くが金銅製で総高二十センチ前後であるのに対し、この塔は銀製鍍金という高価な素材、金工技術の粋を尽くした四面の透彫、他より一回り大きい総高約三十五センチという大きさなど、まさに銭弘俶塔の最高峰と呼ぶに相応しい風格を備えている。太平興国二年(九七八)までに建立されたことが知られる雷峰塔は、西湖の畔にかつてその偉容を誇っていたが(下図)、中華民国十三年(一九二四)に塔は崩壊してしまったため、地宮や天宮に封印されていた多くの呉越の至宝とともに、雷峰塔の魂ともいうべき銀阿育王塔が我々の目に触れることになったのである。
さて、近年の研究で、こうした呉越・北宋の塔出土遺物との密接な関連が指摘されるようになったのが、三国伝来の生身の釈迦如来として信仰を集める京都・清涼寺の本尊・釈迦如来立像(下図)である。この像は、東大寺僧奝然(ちょうねん、天慶元年1月24日(938年2月25日)- 長和5年3月16日(1016年4月25日))が太平興国八年(九八三)に入宋した折り、生身の釈迦を写した像として古来著名な釈迦像を北宋の都・開封で礼拝し、帰国間際の雍熙(ようき・北宗)二年(九八五) にその姿を台州で模刻させ、日本にもたらしたものと伝えられる。
以後、わが国を代表する霊験像として信仰を集め、縄を巻いたような頭髪と同心円状の衣文をもつ極めて特色ある像容は、後世に多くの模刻像を生んだ。
この釈迦像の像内には、生身の釈迦であることを象徴する刺繍で作られた内臓のほか、舎利容器、経典類、鏡面に線刻の像を表した鏡(鏡像)、開元通宝などの貨幣などが納められている。その内容は、阿育王寺信仰を濃厚に反映する呉越・北宋の仏舎利塔の出土遺物と極めて近いことが明らかにされており[長岡二〇〇二]、両者に共通した造像背景の存在が予想される。
そこで注目したいのが、清涼寺釈迦如来像の本家となった北宋の都・開封に安置されていたという栴檀釈迦瑞像(せんだんしゃかずいぞう)の存在である。東大寺僧奝然(ちょうねん)の弟子である盛算(じょうさん)が書写した「優填王所造栴檀釈迦瑞像歴記」によれば、インドの優填王が在世中の釈迦を思慕して造立し、亀茲(きじ)を経由して中国にもたらされたとされるこの像は、隋代に揚州の地に移されてしばらくここに留まっていた。しかし南唐の昇元年中(九三七〜九四二)に都・金陵の長先寺に移され、その後、乾徳年中(九六三〜九六八)に太祖によって開封の開宝寺永安院に移され、次いで太宗によって内裏の滋福殿へと移されていたところを、雍熙(ようき)元年(九人四)正月に奝然(ちょうねん)が礼拝したとするのである。しかし実際には、釈迦瑞像は太平興国五年(九八〇)に太宗の生誕の地に創建された開聖禅寺に移されており、奝然が実見する機会は得られなかったと考えられている[奥二〇〇九]。ここで興味を引かれるのは、北宋の都・開封で釈迦瑞像が安置されていた滋福殿という場の問題である。この宮中の内道場には、釈迦瑞像と前後する時期に、同様の経緯で開封にもたらされた極めて重要な聖遺物が安置されていた。これが阿育王寺の仏舎利塔だったことは大変重要である。
阿育王寺の舎利信仰を篤(あつ)く崇敬して八万四千塔を道立した呉越国最後の王・銭弘倣(在位九四八〜七八)は、太平興国三年(九七人)に護持僧だった賛寧(さんねい)を伴って、阿育王寺の仏舎利塔を奉じて開封に赴き、滋福殿で北宋皇帝太宗に謁見(えっけん)して阿育主塔を献上し、併せて国の北宋への帰順を誓っている。呉越国仏教の象徴的存在である阿育王寺塔が国の帰順とともに北宋の太宗(たいそう)に献上されるのは、栴檀釈迦瑞像が南磨から北宋の太祖に献上されたのとほぼ同じ経緯だったのかもしれない。いずれにせよ北宋皇帝の権威を象徴する栴檀釈迦瑞像と阿育王寺塔が、内道場である滋福殿にともに安置されていた可能性が高いのである。
奝然(ちょうねん)は実際には滋福殿でこの両者にまみえる機会は無かったと思われるが、帰国直前にかつての呉越国領内である台州の地で、阿育王寺の仏舎利信仰を濃厚に反映した品々を像内に込める形で栴檀釈迦瑞像の模刻を行った。そして帰国に際してはこの模刻像とともに、阿育王寺塔の模造も日本に請来したようである。帰国した奝然は、入京する時に請来品(しょらいひん・経典などを請(こ)い受けて外国から持って来ること)を誇示するように盛大なパレードを行っており、ここで都の人々に示されたのが版本一切経と模刻釈迦瑞像、そして「七宝合成塔」だった。上川通夫氏によれば、この「七宝合成塔」とは銭弘倣塔の典拠となった『宝筐印陀羅尼経(ほうきょういんだらにきょう)』に説く「七宝塔」に関わることから、奝然は銭弘俶塔一基を請来したと結論づけている[上川二〇〇〇]。とすれば奝然は、滋福殿でまつられた栴檀釈迦瑞像と阿育王寺塔、これに皇帝の威信をかけて開版したばかりの蜀版一切経という、北宋仏教を権威づける三つの聖遺物の写しを日本にもたらしたことになる。
しかし忘れてはならないのは、そこに呉越仏教の象徴である阿育王寺の仏舎利信仰が濃厚に反映されていることである。以後、日本では仏舎利信仰が隆盛を極めていくことになるが、その一つの姿として上川氏が注目するのが藤原道長による寛弘四年(一〇〇七)の金峯山埋経が濫腸とされる経塚(きょうづか)の造営だ。道長埋納の経筒に刻まれた銘文が示すとおり、法華経ほか諸経は法舎利として山岳信仰の聖地の土中に埋納され、弥勤如来の下生[げしょう・極楽に往生するもののうち、上品 ( じょうぼん) ・中品 (ちゅうぼん) ・下品 (げぼん) と分けた、それぞれの最下位]までそれを守り伝えることが意図されており、そこには仏舎利塔造立と同様の北宋初期の仏教事業導入の意図を読みとれるという[上川二〇〇〇]。
さらに奥健夫氏は、呉越・北宋の舎利塔地宮と経塚が、ともに弥勤下生時まで三宝を保持する空間として性格づけられていることを、『摩詞摩耶経』などの経典上の裏付けを以て明らかにしている[奥二〇〇九]。
実際、呉越・北宋の仏舎利塔納入品と経塚出土品は、仏舎利・経典・仏像・鏡像など極めて近似した内容を持っているが、何よりも両者を結びつける象徴的な存在が経塚から出土する銭弘倣塔だろう。金峯山経塚や那智経塚から出土する銅製の銭弘倣塔(下図)は、経塚が阿育王寺の仏舎利信仰を中心に据えた呉越仏教、さらにはそれを引き継ぐ北宋仏教を導入することで生まれた仏教作善の姿だったといえるだろう。博多を中心とする北部九州において平安時代に集中的に経塚(きょうづか・経典を土中に埋納した塚)の造営が行われ、そこに多くの宋人が結嫁していた事実も、こうした観点から見つめ直すべきではないだろうか。
その後、阿育王寺の仏舎利信仰は、日本国内で多方面に影響を及ぼしていくことになる。例えば、白川院政期以降に隆盛する密教的な舎利信仰も、阿育王寺の舎利信仰と関連づけることでその権威を高めていった。例えば、『覚禅紗』造塔法下(下図左)には、阿育王の八万四千塔造立の伝説や、それに倣う後白河院の八万四千塔倶養の事蹟に関する詳細な記述がある。また俊乗房重源が像立した胡宮神社の三角五輪塔についても、一緒に伝来した舎利相承記(下図右)によってそこに納められた仏舎利が、もともと阿育王寺舎利を受け継ぐものとして権威づけられたことがわかる。重源が阿育王寺の舎利殿復興に関わり、後白河院がその実質的なパトロンだったことは[藤田二〇〇〇]、院が積極的に推進した熱狂的ともいえるこの時期の仏舎利信仰の源泉がどこにあるかをよく示していよう。
▶天台山と延慶寺−天台浄土教の隆盛
寧波の南方に位置する広大な山塊が、天台宗発祥の地・天台山である。1110mの華頂山を中心とする天台山は、古くから四季の変化に富む風光明媚な景勝地として知られ、神仙が住むという道教の聖地でもあった。東晋の時代(三一七〜四二〇)には仏教が広まるようになり、南岳慧思(えし)の弟子・智顗(ちぎ・五三八〜五九七)が修禅の地としてこの山に入って多くの寺院を開いたが、開皇十七年(五九七)に示寂(じじゃく・菩薩(ぼさつ)や有徳(うとく)の僧の死)。ここに堂塔を整備して国清寺となし、以後、天台宗の根本道場として発展していった。
最澄(七六七〜八二二)は、若い頃に鑑真和上が日本に伝えたという典籍類を読んで天台教学を志し、人唐して天台山で学び、帰国後に日本天台宗を打ち立てている。その後も(えんちん・八一四〜九一)や成尋(じょうじん・一〇一一〜八一)・明庵栄西(みんなんようさい・一一四一〜一二一五)など天台僧を中心に多くの日本僧がこの天台山の地を踏むことになる。
天台山の山並みには、国清寺以外にも天台大師智顎をまつる智者塔院など多くの聖蹟が点在するが、中でも天台山巡礼のハイライトとされたのが石梁瀑布(せきりょうばくふ・挿図8・上図)だった。ここは五百羅漢と呼ばれる五百人の聖僧が示現する場所と信じられ、天然の石橋の下をほとばしる滝の景観で知られる。『参天台五台山記』によれば、延久四年(一〇七二)五月十八日に石橋を参拝した成尋は、石橋の色や大きさ形態などを詳細に書き記すとともに、この地を訪れるという宿願を果たしたことに感涙しており、翌十九日にも再び石橋に参じて羅漢に茶を捧げている。この、石橋を無事に渡り、生身の羅漢にまみえて茶を供えるというのが天台山巡礼の大きな目的とされていたようで、慶元五年 (一一九九)に天台山巡礼を果たした俊芿(しゅんじょう)も、石橋に至って五百羅漢に茶を点じている。
本展覧会では、この天台山の五百羅漢を描いた最高傑作との誉れ高い大徳寺所蔵の五百羅漢図(104)を、初めて一同に公開する。もともと百幅からなるこの一大名画は、南宋時代の淳煕五年(一一七八)から十年の歳月をかけて描かれ、当初は寧彼の東銭湖のほとりにあった恵安院という寺院に奉納されたものだった。各幅には、仏教説話や仏教史上の事件、寺院における僧侶の集団生活など、さまざまな題材の中に羅漢の姿が生き生きと描かれる。一部の幅について画中に金泥で銘文が記されていることは以前から知られていたが、本展覧会に伴う事前の光学調査によって、明治時代に米国に渡った十二幅を含む現存する全九十四幅のうち実に半数近くに銘文が存在することが判明した。この銘文には寄進者や勧進僧の名前、画家の名前、制作年等が記されており、その解釈が進めば、本図を生み出したバックボーンである寧渡仏教および在地社会の姿が一層具体的に浮かび上がってくる可能性が高い。五百羅漢図の図像や銘文の解釈等については、本図録に掲載される井手誠之輔氏執筆の各論で取り上げているので、詳しくはそちらをご覧いただきたい。展覧会に初出陳となる個人蔵羅漢図(108)も、かつて五百羅漢図を構成していたとみられる一幅である。画中には天台石橋を対岸に渡った羅漢が茶を点じているところを描き、さらに石橋のたもとに立つ寺院の扁額には五百羅漢信仰の中心寺院として栄えた方広寺の名前が記されている。大徳寺本とは全く異なる図像系統を持つ天台五百羅漢を描いた作例であり、天台五百羅漢図の広がりを示すものとして大変興味深い。
さて、寧彼の町はかつて明州あるいは四明と呼ばれていたことはすでに述べた。これは町の中心部から南西にそびえる四明山から名前を取ったものである。この四明山は天台山の支脈を形成しており、天台仏教の一大拠点として発展してきたが、その四明の名を冠する寧波の町自体が、天台仏教の大きな影響下にあったことはいうまでもない。
このような寧波の城内の南端、町のシンボルタワーでもある天封塔からほど近いところに、かつて天台浄土教の中心寺院として栄えた延慶寺がある。文化大革命を経て、現在は一部の建物を残し廃寺同然となっているが、かつては一万人以上の会員を抱える念仏結社の総本山として隆盛を誇っていた(上図左右)。この寺は呉越国最後の王・銭弘倣の時代に創建された報恩院を前身とするが、とりわけ四明尊者知礼(ちれい・九六〇〜一〇二八)が北宋時代初めに住持となって以降、天台寺院として発展していった。
天台中興の祖と仰がれる知礼の名声は、遠く日本にも聞こえたようで、日本天台浄土教の祖とういうべき恵心僧都源信(げんしん・九四二〜一〇一七)が、 けしやくしよ一つ弟子の寂照(じゃくしょう)を延慶寺の知礼のもとに遣わし、自らの著作である『往生要集』や天台の論疏類とともに質問状を送っている。この時送られた源信の二十七箇条にわたる質問状のことは、知礼側の史料にも記録されており(『四明尊者数行録』)、こうした天台宗本家の碩学(せきがく・学問が広く深いこと。)との学問上の交流が、その後の日本天台宗の発展の礎となったことは間違いない。またこの延慶寺を中心に寧波で発展した天台浄土教は、寧渡仏画と稔称される一連の天台仏画を数多く生み出した。その主題は阿弥陀三尊、十王図、羅漢図、仏涅槃図など浄土教と密接に関わるものが多いが、ここではその代表作として知られる奈良国立博物館所蔵の仏捏磐図(上図右)を取り上げてみたい。
宝台上に横たわる釈迦と、その死を嘆き悲しむ十大弟子の背後には、宝石や玉類で荘厳された七層の葉叢(はむら・おい茂った葉)をもつ宝樹が二本描かれている。本来、釈迦の涅槃の地に生えていたという沙羅双樹(さらそうじゅ)が描かれるべきところに、阿弥陀の極楽浄土に生えるという七層行樹を描いているのであり、ここには二月十五日の仏涅槃の日に念仏結社の総会を行っていた延慶寺の浄土信仰が反映しているという指摘がある[井手一九九二]。また画面右下には「慶元府車橋石板巷陸信忠筆」のサインが入っており、寧波が慶元府と呼ばれるようになる慶元元年(一一九五)以降の南宋時代の作であること、寧波を訪れる日本船の発着場所に近い車橋石板巷に工房を構えていた陸信忠という仏画師が描いたことが判明する。
この車橋付近には、メトロポリタン美術館所蔵の十王図(上図左)を描いた金處土や、東京国立博物館所蔵の十六羅漢像図(上図右)を描いた金大受も工房を構えていたことが知られる。彼らによって描かれた寧渡仏画は、僧侶や商人たちの手で海を渡って日本にもたらされ、鎌倉時代以降におびただしい数の作例が知られる十王図や十六羅漢像図の直接の手本となっていったのである。
▶東銭湖 −神仏が降臨する聖地
寧波の市街地から東南へ15キロほど行ったところに東銭湖(上図)と呼ばれる湖がある。湖の東西は6.5キロ、南北8.5キロ、周囲45キロで、杭州の西湖の三倍の広さを誇る新江省最大の淡水湖である。72の渓流が流入するといい、七つの堰を通じて周囲の田を潅漑して大きな利益をもたらすことから、万金湖とも呼ばれたという。周囲の山と湖面とが織りなす秀麗な景観は、宋代以降多くの文人たちを惹きつけ、彼らの隠棲場所ともなってきた。 この一帯は、南宋の宰相を三代にわたって輩出した名族である史(し)氏一族の拠点として知られる。東銭湖周囲の山並みの中に点在する史氏の墓所には、参道に文官・武官・動物などをかたどった石像群が整然と並べられていた。その存在が知られるよゝつになったのは近年のことであるが、いずれも堂々とした体躯(からだつき)を誇り、優れた造形を示す南宋彫刻の基準作として多くの注目が集まっている (下図)。
特に我々日本人の関心を引くのは、各像に用いられている「梅園石(ばいえんせき)」と呼ばれるやや赤紫色がかった石材が、東大寺南大門の石獅子(上図左)に使用されている石材と酷似していることである。東大寺の石獅子は建久七年(一一九六)に俊乗房(しゅんじょうぼうちょうげん)重源が宋人石工に造立させたもので、石材を日本国内で確保することが難しかったため中国から買い求めたとされる(『東大寺造立供養記』下図)。
東銭湖の石像群が造立されたのも同じ十二世紀後半に相当することから、石材・石工ともにこの地域から日本に渡って東大寺石獅子(上図左)に結実したという積極的な見解も示されている[山川二〇〇八]。今後のさらなる研究の進展が待たれるところである。ちなみに東銭湖の石像群は、その多くが近年オープンしたばかりの南宋石刻博物館に移されて屋外武人像(南宋石刻博物館)(上図右)(東大寺蔵)展示されている。
さて、この東銭湖畔には多くの仏教寺院が営まれてきたが、その中でも史一族で最初に南宋の宰相となった史浩(しこう二〇六〜二九四)の創建となる月波寺(げっばじ)は、寧渡仏教にとってひときわ重要な意味を持つ寺である。史浩がかつて金山寺(江蘇省鋲江市)を訪れたとき、梁の武帝が寺で創始しえたという水陸会(すいりくえ)と呼ばれる盛大な法会の復興を決意し、淳輿五年(一一七人)、東銭湖畔に水陸会を行うための寺院として創建したのが月波山慈悲普済寺である。史浩は自ら「儀文」四巻を撰述し、ここで年に四回水陸会を実施したという。その百年後には、この月波寺において『仏祖統記(ぶっそとうき)』の作者として著名な天台僧・志磐(しばん)が新たに水陸会の儀文六巻を作り広めたという。
これが『法界聖凡水陸勝会修斎儀軌』( 上図 左)として現存しており、現在もこのテキストに基づいて中国各地で水陸会が実施されている。水陸会はもともと、日本の施餓鬼会(せがきえ)や孟蘭盆会(うらぼんえ・お盆)と同じように、先祖供養を目的とする法会である。道場に、先祖の亡魂をはじめ水中と陸上のあらゆる鬼神を道場に招き入れ、僧侶が食を施して供養し、これらの鬼神の成仏を願うのである。水陸会に際しては、仏・菩薩・羅漢などを筆頭として、仏典に説かれる護法神や星宿神、十王などの神々、さらには阿修羅道・餓鬼道・畜生道・地獄道の衆生などを描いた画像が道場に多数掛け並べられる。これらの画像は水陸画(下図右)と総称されており、神々が雲に乗って斜め下方向に進む形式で描かれる点に特色がある。天上から舞い降りた諸神が、道場内に招き入れられる姿を表しているのだろう。
ところで、こうした水陸画と密接な関わりがあるものとして注目されるのが、金光明懺法(こんこうみょうせんぽう)に用いられる諸天像である。中国末代の天台仏教で特に重視された金光明懺法は、釈迦を本尊とする道場に『金光明経(上図左)』に説かれる天部の神々を勧請し、懺悔礼仏を行う仏教儀礼である。金光明俄法で勧請される諸天の数や順位には様々な議論があり、知礼(ちれい)や遵式・志磐(じゅんしき・しばん)ら天台の学匠たちが独自の儀文を作製している[林二〇〇三]。
こうした宗代の金光明俄懺法(こんこうみょうせんぽう・上上図右)の姿を今に伝えているのが、京都・泉涌寺(上図右)において正月に修正会として行われる金光明懺法(こんこうみょうせんぽう)(上図)であり、泉涌寺の開山である俊芿(下図右)が南宋からもたらした姿そのままに現在も宋音での発音が行われている。ここで懸用される諸天像二十二幅は江戸時代に描かれたものだが、その図様は明らかに中国製の祖本があったことをうかがわせる。それを証明するかのように、鎌倉時代後期の制作と見られる清涼寺の釈迦如来立像旧厨子扉絵(下図) 四面に描かれる諸天十二尊が泉涌寺本二十二幅のうちの十二幅と図像が完全に一致することから、泉涌寺本が依拠した図像が十四世紀以前に遡(さかのぼ)るものであることが明らかとなる。
さらに南宋時代に遡る水陸画の代表作として知られる新知恩院所蔵の六道絵のうち天道幅(下図左・右)に描かれるのは全て金光明経の神々であり、その姿はいずれも泉涌寺の諸天像の図像とほぼ一致するのである。そもそも志磐が懺法儀礼である水陸会のテキストとして『法界聖凡水陸勝会修斎儀軌(上・上図左)』六巻を先述するにあたり、天台仏教でひときわ重視された金光明懺法を下敷きした可能性が高く、結果として水陸会で勧請する諸天に『金光明経』の神々が列することになったのだろう。
従来、水陸画と呼ばれてきた画像の中にも、金光明懺法で用いられたとみられる諸天像が少なからず含まれていると思われる。今後一層の比較検討が必要となるだろう。 現在中国各地で行われている水陸会のふるさとである東銭湖畔の月波寺のそばには、大徳寺伝来の五百羅漢図がかつて安置されていたという恵安院も立地していた。こうした場所に大規模な五百羅漢図が勧請(かんじょう・神仏の来臨を願うこと)されることも、水陸会の儀礼と何らかの接点があったに違いない。
▶普陀山-観音の浄土
寧波沖に浮かぶ舟山列島(しゅうざんれっとう)の普陀山(挿図14)は、航海安全を祈願する信仰の島として有名である。『華厳経』入法界品などに説かれる観音の住 処・補陀落山(ふだらくせん)から名前をとっており、観音信仰の聖地として中国四大名山の一つにも数えられている。現在も東アジア各地から、巡礼に訪れる人の波が絶えることはない。とりわけ寧波の港を往来する船は、必ずこの島の近くを通ることもあって、日本から寧波を目指した人々は必ず一度ここで祈りを捧げたに違いない。普陀山の観音信仰は、その始まりから日本と密接な縁で結ばれている。それは平安時代初期に唐に渡った日本僧・恵雪が、五台山で観音像を得て、寧披から船で日本に帰国しようとしていたときのこと。恵萼(えがく)の乗る船が普陀山のそばを通りかかったところで進まなくなってしまった。これは観音像が中国を離れたくないのだと悟った恵萼は、観音像を普陀山に祀り、無事日本に帰ることができたという。
以後、この島は観音の住む島として篤く信仰されるようになり、特に南宋の紹輿元年(一三二)に曹洞宗の眞歇清了(しんかつせいりょう・一〇八九~一一五一・上図左)が入って禅宗寺院となるにおよび、寺勢は大いに隆盛することとなった。さらに、後に南宋の宰相となる史浩が紹輿十人年(一一四八)に普陀山に参詣した折りに、潮音洞(ちょうおんどう)で観音にまみえて霊験を感得し、東銭湖畔の月波寺(げっぱじ)に普陀山を模した潮音堂(上図右)を造って観音像を安置したという[佐藤二〇〇四]。禅宗五山の制度を制定したのは史浩であり、彼が深く普陀山観音信仰に帰依したことが、禅僧たちの間に普陀山信仰を広めるきっかけを作った可能性があろう。
ところで、南宋時代以前の普陀山の歴史については、確かな記録がほとんど無く、恵萼(えがく)の普陀山開創譚(たん)についても咸淳(かんじゅん)年間(一二六五~七四)に完成した『仏祖統記』に初めて記述を見るのであり、多分に伝説的な脚色の強い内容になっている。恵萼(えがく)の後、普陀山を訪れたことが確実な日本の著名人といえば、まず日本曹洞宗の祖と仰がれる道元(上図左・一二〇〇~五三)の名前が挙げられる。中国禅宗五山の第三位に数えられる寧波の天童寺(上図右)で禅を学んでいた道元が、宝慶二年(一二二六)に作ったという五十首に及ぶ○○(漢詩)が『道元和尚広録』巻十に収められており、その中に「宝陀の旧韻を続ぐ」「昌国県補陀路迦山に詣でて因みに題す」という普陀山に参詣したときの作が二首含まれているのである。道元が普陀山を訪れたのは、曹洞宗の眞歇清了(しんかつせいりょう・一〇八九~一一五一・)の法脈を継ぐ天童寺の師・如浄(にょじょう・下図右)の勧めもあったのかもしれない。
中国禅宗五山である寧彼の天童寺や阿育王寺を目指す日本憎が増えるにつれて、普陀山も日本人いっさんが訪れるべき聖地として確立していく一方、一山一寧(一二四七~三二七)という普陀山の住持までつとめた高僧が来日し、日本禅宗の興隆に大きく寄与したことも特筆される。一山一寧(いっさんいちねい)は普陀観音図(下図左)など数多くの観音図に着賛しており、そこにはかつて住持をつとめた普陀山の観音に対する信仰があったに違いない。
禅僧たちが好んで描き、着賛した白衣観音図にも普陀山観音に対する信仰が背景にあったことは、臨済宗法灯派の祖とされる無本(心地)覚心(むほんかくしん・一二〇七〜九人)の次のようなエピソードからもうかがえる。
覚心は宝治三年(一二四九)に博多を出航して入宋を果たし、最初に普陀山を礼拝している。その後、径山(きんざん)を経て寧波の阿育王寺に向かい、天台山、大梅山などを巡錫して宝祐二年(一二五四)に寧波から商船に乗って帰国の途についた。しかし海の半ばで嵐に遭ったため、持参していた観音の小画像に祈ったところ、帆先に観音の月輪が現れるという瑞相があり、風は止んで無事に博多に戻ることができたという。覚心が創建した和歌山・興国寺(上図右)には、この時祈った観音像と称する小軸が伝わっており、実際に小品ながら中国の作であることは間違いない。入宋時にいち早く普陀山を礼拝していた覚心が、寧波の港を発つ前に地元の画家に観音の画像を描かせた可能性は高く、ここに普陀山観音信仰を読み取ることは決して難しくない。
こうした人宋僧・入元僧たちが盛んに往来した当時の普陀山の様子を知ろうとするとき、長野・定勝寺の補陀落山聖境図(86)は唯一無二の極めて貴重な存在である[井手一九九六]。画中に寧彼のことを「慶元路」と表記しており、元時代の普陀山の風景を描いたことが明らかである。元時代に編纂された地誌類とも内容が一致することから、そうした正確な情報をもとに描いた絵地図的性格を持つ画像といえよう。画面右上の水平線から昇る太陽のそばに、東へ行けば日本に至る旨が記されており、寧波〜普陀山〜日本という海を越えた往来の結びつきをよく示している。
▶天童寺 −日本禅宗のふるさと
寧波市街の東方に位置する太白山中に立地する天童寺(下図)。晋の永康年間(三〇〇〜三〇一)に義興が庵を結んだところ、太白星(金星)が童子に化身して義輿の身辺に仕え、薪水(しんすい・炊事)の給仕をしたという伝説に基づき、太白山(たいはくさん)天童寺の山号・寺号がついた。北宋の景徳(けいとく)四年(一〇〇七)に景徳禅寺の名を賜り、南宋の建炎三年(一一二九) 〜紹輿二七年(一一五七) の約三十年間住持をつとめた宏智正覚(わんししょうがく・下図右)の時代に寺勢を拡大、中国禅宗五山のうち第三位に列せられる禅宗の名刹である。
この寺は日本の禅{示にとって格別の意味を持った存在となっている。すなわち明庵栄西(下図右)(みんなんようさい・一一四一〜一二一五)がここで禅を学び、日本に初めて本格的に禅宗を広めたのであり、日本禅宗濫腸の地といっても過言ではない。栄西はすでに仁安三年(一一六八)に俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)とともに入宋していたが、文治三年(二八七)四月に再び入宋し、天台山万年禅寺(下図)・(別名天童山景徳禅寺)を拠点として五年にわたって、禅を中心に中国の最新の仏教を修めたのである。ここで注目されるのは、栄西が天童寺の主要堂字・千仏閣の修復を請け負っていることである。栄西(下図右)は禅の師である虚庵懐敞(きあんえじよう)が天台山萬年禅寺から天童山に移るとこれに随い、天下の大楼閣としてその名を知られていた千仏閣が創建以来六十年を経て朽廃すること著しい状況を見て、これを修復することを師に約束し、建久二年(一一九一)に日本に帰国。二年後の建久四年(一一九三)に、約束どおり千仏閣の修理のために日本から巨材を送っているのである。寧波出身の文ろうやノ\人として著名な楼鎗は、この栄西の功績を顕彰して慶元四年(一一九八)に「天童山千仏閣記」(『攻娩集』 巻五十七)を著している。
こうして栄西によって築かれた日本僧と天童寺の太いパイプは、栄西の孫弟子に当たる道元が天童寺で学ぶことに大きな役割を果たしたであろう。道元もまた天童寺の如浄から受け継いだ、坐禅こそ仏法の正門という教えを強く主張し、普勧坐禅儀(下図左)を表すなどして初めて曹洞禅を日本に伝えたのである。
一方、蘭渓道隆(らんけいどうりゆう・一二一三〜七八)をはじめ多くの中国人僧が天童寺から日本に渡り、日本禅宗発展の礎を築いていった。天童寺と日本禅宗との往来は、明との朝貢関係を結んだ遣明使(けんみんし)の時代になっても続いていたようだ。例えば、水墨画の大成者として有名な画聖雪舟(一四二〇〜一五〇六)は、道明使の一行として成化三年(一四六七)に寧波に入港して早速、天童寺に参禅している。この時に禅斑第一座という職位が与えられたことは、栄西以来の日本僧に対する儀礼的な厚遇だったとみられるが、雪舟にとってはこの上ない名誉なことだったようで、帰国後、慧可断臂図(下図右)をはじめ晩年に至るまで自らの代表作にしばしば誇らしげに「四明天童第一座」の署名の肩書きを用いている。写しとして現存する七十一歳の自画像(下図左)にも同様の署名を行っており、その自負のほどがうかがわれよう。画聖雪舟といえども、この寧波の名刹への参禅こそが、禅僧としての自らの正当性を主張する最も重要な経歴だったに違いない [島尾一九九二]。
雪舟は、寧波の風景を写したスケッチを模本の形で複数残している(下図左右)。これこそが、日本僧が憧れて続けた「聖地寧波」の景観だったに違いない。