世界の風呂敷

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熊倉功夫

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 絵巻物にみる風呂敷2(伴大納言絵巻模写)12世紀後期に描かれた「伴大納言絵巻」には風呂敷を使う様子が何カ所もでてくる。これは京都の庶民の風俗で、肩に大きな包みをかついでいる。上から紐をかけているが、縫い目らしきものもみえるので、袋であるかもしれない。これら3点の絵は、渋沢敬三の企画により、「日本常民生活給引」が制作されたさい、絵巻物より該当個所を村田泥午が模写した原図である。神奈川大学日本常民文化研究所蔵

 世界の風呂敷というテーマを掲げたとき、世界中の各地に風呂敷があるのだろうか、といぅごく素朴な疑問が浮かぶ。ここでいうのは「風呂敷のような布」という意味であるが、その答は、「正しい」と「間違い」の両面があろう。おそらく布の文化をもつ民族であれば、おおくの場合、布でものを包む習慣があるだろう。その点では、世界各地に風呂敷はある。答は「イエス」。しかし、ものを包むためだけに用途を限定した四角型の布、つまり風呂敷文化を発達させた民族は、日本や韓国以外にはすくないようだ。その意味では、厳密には答は「ノー」である。もっとも日本の風呂敷も、ものを包むだけではなくて、歴史的にみるといろいろな機能をもっていた。今回の展示では、ものを包む布の文化の普遍性と、東アジアの風呂敷文化の個別性とをあわせて考えてみることにしたい。

■布で包むものと心 

 ▼まず、展示される風呂敷について、いくつかお断りしておきたいことがある。第一に、ここでいう風呂敷は、それが、もともとは本来ハンカチやテーブルクロスであっても、肩掛、腰布などの衣服、あるいはまた、敷物や掛け物などのいずれであっても、いったん「風呂敷のような使い方をする布」であれば、風呂敷として展示の対象としている、ということである。

 ▼第二に「包む」という行為も、布ですっぽりとカバーしてしまう「おおう」ということも含め、ひろい意味でもちいる。すなわち、日本の掛け袱紗やインドネシアのドロンワークの袱紗も広義の風呂敷文化に加えたい。ただし、布という以上、網や皮革などの素材は除き、ひろげると一枚の平面になる織布に限定した(素材は毛、絹、木綿、麻などいろいろである)

インドネシア インドネシア袱紗

 ▼第三に、「ものを包む」というときの「もの」であるが、これもひろく「生身の人間の身体以外のすべて」としておこう。布で包む最大の文化は衣服であることはいうまでもない。しかし衣服研究は独自の精緻な研究体系があって、その筋道は自ずと風呂敷文化とはべつの文脈となる。そこで今回は衣服そのものは除いている。例外は、衣服の一部でものを包んだときだけである。さて、その人間の身体であるが、赤ん坊は、七歳までは神の子という民俗があるが、自立できない幼児の場合、これを包み抱く布は風呂敷に加える。また、命を襲った遺体も加える。ここでいう「もの」は、単なる物体という意味ではないことをご理解いただきたい。

 遺体を包む布は、歴史的にもひじょうに古く、重要である。おそらく布がたいへん貴重品であった時代でも遺体を包む布は特別に用意されていた。世界最古の包み布のひとつはミイラ包みの布であったにちがいない。イエス・キリストの遺体を包んだシーツの一部といわれる布が残されているように、遺体を包むシーツはヨーロッパにもひろくみられる。英語でワインディング・シーツ(windingsheet)は遺体を包むシーツの意味である。英和辞典によれば、ロウソクのロウが流れて側面に固まった状態を、やはりワインデイング・シーツというようで、白いロウが凸凹に固まったかたちが遺体包みを思わせるからで、その固まった方向に凶事がある、という俗信まである。

 マダガスカルの事例では、ランディベとよばれる山繭からつむいだ糸で、ランバメーナという素晴らしい布を織り、遺体を包むために特別に用意する。またインドネシアやミクロネシアでは、死者に対して貴重な布が人びとによって供えられる。石森秀三氏はサタワル島の記事のなかで次のように記している。マダガスカル1マダガスカル-3

 サタワル島では、人がなくなると、すぐにわかる。泣き声とともに挽歌がきこえてくるからである。(中略)夜があけてから、埋葬の準備にかかる。棺桶に死者をいれるまえに、近親の女たちが死者の身体を30〜40枚の腰布でていねいに包む。この島では、死者がでると、各家の女たちが腰布を一枚ずつ死者のもとへとどける。いわば日本の「香典」のようなものである。(石森秀三1988)

 ことに貴重で高価な布で遺体を包む文化は、ひろく世界各地でみいだされる。

 ところが日本にはその習慣がない。経椎子(きょうかたびら)にしても、韓国のように袴や胴着から爪袋まで、たくさんの装束を麻布で調製し、さらにその全体を同じ麻の風呂敷で包むという文化は生まれなかった。おそらくその背景には、遺体が死穢(しえ・死のけがれ)につながるような日本人の意識や、ミイラ文化をわずかしかもたない伝統などの関連もあるだろう。

出雲祝い風呂敷-1 出雲祝い風呂敷-2

 そのかわり、日本には祝い風呂敷の文化が異常に発達した。出雲の祝い風呂敷にうかがえるように、嫁入り道具を包み飾りたてるために、半年以上かけて家紋入りの風呂敷一式が製作された。今回展示したのは1960年代の終わりにつくられたほとんど最後の作例で、風呂敷とあわせてつくられる孫拵(まごごしら)えまで含めると24点にものぼる。

 こうした遺体包みや祝いの包みを考えると、包むという行為が、運搬の便利のためという実用的な機能とはことなる特別の意味をもつことに、気がつく。われわれの日常生活でも、気のはる贈りものとか金包みを持参するときには、わざわざ風呂敷や袱紗で包む。そうすることで、ものと一緒に「敬意」とか「謹しみ」といった心を包んでいる。ものを包むだけではなく、心も包む布である、という本展覧会の副題の意味はここにある。その最たるものが遺体包みであり、祝い風呂敷である。

 ものは包まれ、おおわれることで、人びとの目から隠される。そして隠されることでべつの姿があらわれてくる。このことから包むということが、二重の意味をもっていることが推察できよう。すなわち、包むことで、もののかたち(日常の姿とでもいおう)を隠すという意味と、包まれることでべつのかたち(非日常の姿とでもいおう)を顕在化させるのである。 

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 ブルガリア生まれの芸術家クリストの仕事も、風呂敷のこうした棟能ととてもよく似た領域にあるだろう。クリストとジャンヌ=クロードは、パリの橋ボン・ヌフやベルリンの国会議事堂を梱包して、梱包の芸術家といわれる。のちには、クリストのおもな作品は、巨大な公共建造物や自然を対象とするようになるが、初期の作品はビンやカン、さらに椅子やテーブル、自動車などを梱包したものがおおい。中原佑介氏はその芸術を次のように述べている。

 クリストは布で隠すということをおこないながら、実際には物体や空間を、より強烈に顕在化させようとしてきたのである(中原佑介1988)その表現を包む人とそれを受けとめる人との関係に置きかえると、あらたに顕在化するのは、包む側から受けとめる側へのメッセージといえよう。このメッセージ性こそ、遺体包みと祝い風呂敷にもっともよく表現される。それをわれわれ「布で包む心」と表現した。

■風呂敷の用途 

 歴史的にみて風呂敷には、2種類の使用法があったように思える。

 第一は特定のものを包むためにつくられ、用意された風呂敷である。それに対して第二は、包まれるものは決められておらず、そのつど、ものに従って包みなおされる風呂敷である。

正倉院つつみ102

 今日残されている古い風呂敷は、前者がおおい。その目的は保護、保存である。のちに述べるように、現存する世界最古の風呂敷は、8世紀の正倉院御物中の包み布であろう。これは舞楽の装束や袈裟などを包む「裹(つつみ)」であって、それぞれに内容物が墨書されている。特定のものを包んだ状態で1200年以上保存されてきたのである。

 今回の展示された小堀遠州旧蔵の茶道具風呂敷も、特定のものを包む点で同様の用途である。小堀遠州(1577〜1645)は、大名でありながら芸術的才能に恵まれ、二条城庭園をはじめとすろ作庭、建築にすぐれ、三代将軍徳川家光の茶の湯指南とされるなど、当時の茶の湯界の権威でもあった。遠州はことに道具の鑑識において鋭い感覚をもち、遠州の所持した茶の湯道具は、のちに中興名物として尊ばれている。それらの茶の湯道具を、遠州は好みの外来の裂で風呂敷をつくらせて包んでいた。その風呂敷だけが今日も小堀家に伝承されている。

 その一枚一枚に、小裂が縫取りされていて、内の道具名が記入されている。たとえば「真如堂」という小裂がついているのは、現在、泉屋博古館に収蔵されている瀬戸肩衝茶人銘真如堂の風呂敷であろう。京都真如堂の東陽坊にあった茶人が小堀遠州の有に帰し、遠州が「真如堂」と命名した。この小裂の文字も遠州自身の筆跡であろうと、遠州茶道宗家で認めている。これはあきらかに、茶人真如堂を包むための風呂敷で、ほかに転用することは考えられない。なかには茶道具そのものを包むのではなく、茶器をしまう仕覆(しふく)という袋があり、その袋だけをべつの木箱に入れて保存するための風呂敷もある。仕覆は特別に貴重な名物裂で仕立てるので、ひじょうに大切にされた結果で、そうなると茶人の箱、袋の箱をひとつに収める大きな木箱が用意され、それを包む風呂敷がさらにつくられた。これが約400年前の風呂敷のひとつの姿であった。

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006絵巻物にみる風呂敷3(石山寺縁起模写)14世紀中期に描かれた「石山寺縁起」には、包みをもつお供の様子が措かれている。古代・中世の包みは柔らかい衣類などを包む例がおおいが、これは箱状のものをつつんでいる。神奈川大学日本常民文化研究所歳

 さて、特定のものを包む風呂敷の第一類の用途のなかには、保存というだけではなく、外から一見して、その内容が判別できる徴しとして風呂敷がある。経典包みはその典型であろう。中国の例は精査されていないが、新江省博物館には北宋時代の経典を包んだ袱紗が所蔵されている。これは1967年に仏塔の内部から発見された資料で、1043年に仏塔が建設される以前のものであることはまちがいない。そのなかに3点の方形の「経袱」があって、その一枚は杏紅の単糸で織られた素羅でこれに鳥と花をあしらった直径3センチぐらいの刺繍が二十数個両面刺繍されている。これもまた経典を包み保存するために用意された風呂敷である。

纈染経袱-

 ネパール、ブータン、チベットの経典包みの布は、それぞれ微妙にことなるが、ほぼ共通した性格で、経典以外のものを包むことはない。イスラム文化圏のコーラン包みの布も、これに近い。デザインや色彩はいろいろであっても現地の人からみると、コーランを包むための特別な風呂敷であることが、一見してわかるのである。

ブータン

 こうした包まれるものがあらかじめ決められている風呂敷は、特別な色あるいは形、文様、織柄、刺繍などをともなって、共同体のなかでは明確に区別されている。またジェンダーにょって用途が区別されることもすくなくない。

ミャンマーでは、男性用のロンジーを子どもの抱え布や風呂敷のような使い方をするが、女性用のタメインはもちいない。しかし供物をささげるときには未使用の女性のタメインをもちいるなどといった使いわけがある。杉島敬志氏にょると、インドネシアのフローレンス島の稲刈りでは、イネの魂を包む布は女性の着物である。畑の中心部でイネの魂にみたてられた四つの稲穂が、女性の毛髪でひとつに束ねられる。この四つの稲穂は、竹のナイフで茎から切り離されたあと、ただちに女性の着物でくる まれる。そしてひとりの男性が、それをしっかり胸にだいて穀物倉へと出発する。 (杉島敬志1983)

インドネシア袱紗

 ここにも、包む布がジェンダーと深くかかわっている状態がうかがえる。インドネシアにおける遺体包みにも男女の布の問題はみえかくれしていて、風呂敷とジェンダーがいかなる関係をもつのか、これから解明すべき興味深い問題と思える。

 日常にもちいる風呂敷の場合は、第二類の、なんでも包む布である。その歴史もまた古い。ホルスト=クレンゲルの古代オリエント商人の研究によれば、紀元前1900年前後のアッシリア商人は、小アジアのアナトリアまで商品を輸送した。

 長距離を運ぶためにロバの背に積まれた織物のひとつに、商品をくるんでおく一種の 「風呂敷」があった。この織物はあとでカネシュそのほかのアナトリアにある目的地に着いたとき、いっしょに売り払われた。(ホルスト=クレンゲル1983)

 かさのはる織物類をまとめて運ぶための包み布がもちいられたもっとも古い例のひとつである。興味深いのは、紀元前20世紀の粘土板史料には風呂敷と同時に皮袋の輸送も記されていて、量はすくないけれども貴重な錫などは皮袋に入れて、口を封印したという。布で包んだだけでは内容物の保全に不安があったことがわかる。今日の日本でも、法曹界や官僚の世界で急速に風呂敷が姿を消しつつあるのは、セキュリティーに問題があるからだと聞く。すでに4000年前から、それが問題であった。その意味で風呂敷は、むしろ臨時の、しかも簡便な包みという性格がつきまとってきたのである。したがって布も日常のものであれば、どんな布でも転用した。

戦後姿

 近代の日本の風呂敷は、基本的には包むものは選ばない。もちろん素材や大きさで、自ずと用途は分類されるが、それとても絶対に守られるというわけではない。そのかわり、ものを包むという用途以外の使い方は、ほとんど消えてしまった。風呂敷は、一段と特化し、文化として洗練されたのである。大雑把な風呂敷の使い方ではなく、幾通りもの包み方、結び方など、風呂敷の作法といったものが生まれ、あたかも、風呂敷が日本独自の文化のごとく思われるに至った。こうしてみると、かえって世界の風呂敷に、古い日本の風呂敷づかいが残っているようである。

 

■日本の風呂敷

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 江戸時代の考証家は風呂敷の語源をいろいろ考えた。多田義俊の著した「南嶺遺稿」(1757年刊行)の記事の大意をまとめると「風呂敷というものは、元来、湯あがりに敷くものだからこうよぶので、室町時代に武士が大勢で風呂に入るとき、衣服を風呂敷で包み、湯からあがると、それをひらいてすわり、衣服をつけた」とある。時代の考証はともかく、いずれの考証家も風呂屋での敷きものと衣服の包みに使ったところから、風呂敷という言葉ができたとしている。風呂屋というような多人数が入り込む風呂(スチームバス)ができるのは16世紀であるから、言葉の誕生もだいたいそのころであろう。いままで判明している限り、元和2年(1616)の徳川家康遺品分配書である「駿府御分物御道具帳」のなかの「こくら木綿風呂敷一」とあるのが、風呂敷という言葉の初見である。やがて風呂敷はひろく使われるようになって、井原西鶴の小説には十数カ所も登場する。

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 風呂敷という言葉が生まれる前は平包みといわれた。正倉院御物は「、幌」という文字が使われている。10世紀の「和名類衆聚抄」には、「衣帳」の文字に「ころもつゝみ」と訓みをつけていて、いずれも大和言葉では「つつみ」といっていたことがわかる。また12世紀の「満佐須計装束抄(まさすけしょうぞくしょう)(1184年成立)では、「ひらづつみ」をとりあげているが、これが風呂敷の登場するまでの一般的呼称だった。

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 絵巻物類でみると「扇面古写経」(12世紀)にはいくつかの風呂敷を使う様子が描かれ、子どもの野山で遊ぶ姿のなかにも、小さな風呂敷がみえる。ほぼ同時代の絵巻「病草子」には、肥満の女性の下女が風呂敷包みをもつ姿が描かれ、平安時代には、風呂敷が日常的な風俗となった。

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 平包みという言葉がすたれ、風呂敷が一般化するのは18世紀のことである。そうしたなかで風呂敷と風呂との関係も人びとの記憶から消え、語源探しがはじまるなど、本格的な日本の風呂敷の時代がはじまったのである。

 もう一度、最初の疑問に戻ろう。風呂敷は日本独自の文化であろうか。世界諸民族の風呂敷を概観し、共通性をあげてきた今、この問いを否定することはたやすい。にもかかわらず、なお日本文化のある一面を風呂敷が象徴することも否定できない。早い時期に時枝誠記氏が、日本語風呂敷論を論じている。その論はあまり説得力はないが、時枝氏とはべつの意味で、日本語の構造は風呂敷に似ている。つまり最後に結んでみないと全体像がみえないという意味で、またその構造が柔軟でかつあいまいである、という点で似ている。紙数が尽きたのでじゅうぶん論じることはできないが、こうした隠喩としての風呂敷は、日本文化論として興味深い問題で、すでに論じている先人もいるが、もっと深めうる課題であろうと考えている。(国立民族学博物館)

■包み類・参考画像

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