土で包む

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■土の容器は「ものは器」という日本人の心情を如実に表わしているといえるだろう

 なんでもそうだが、単に用が足りればそれでいいというものではあるまい。特に食べるという行為においてはこの点が重要である。私たち日本人には、昔から同じことをするにも人間らしく、つまりゆとりを持って楽しまねばならないとするところがあって、たとえばそれは「ものは器」というようなことわざによく表現されている。

 器を大事にし、ときにはその器に盛られる中身の食べものより器自身に大さを値打があると思われるようを場合さえある。ここに集めた伝統パッケージはいずれも「ものは器」という日本人の心情を如実に表わしているといえるだろう。漬けものとか、なっとうとか、あまざけとか、どれもそれ自体そんなに貴重な(高価なものではない。それが実際立派な器に収められている。そして私たちはそのことに素直によろこびを感ずるのである。

 窯(や)きものが日本人の食生活の中心になったのはそんを大昔のことではなかったらしい。元来、椀((わん)とは飯や汁物などを盛るための食器。土製、金属製、木製、石製のものがある。木製のものを木偏の、陶磁器製のものは石偏の、金属製のものには金偏のの字を用いる。)という字が示すように、食器は木で作られたものであった。秀吉の朝鮮遠征以来、土産に持ち帰っね朝鮮の庶民の茶わんが珍しがられ、それは大したものではなかったけれど利休が取り上げてお薄の茶わん(お薄とは少なめのお抹茶で点てられたお茶で、例えるとシャバシャバとしたイメージです。対するお濃茶とはたくさんのお抹茶を使って「練る」ので、見た目からドロリとしたイメージの仕上がり)に見立てたという。

 もともと気軽な庶民の茶わんだったものが、妙に持ち上げられて天下の名器になり、格式ばったものになってしまった今の様子を見たら利休が嘆くに違いない。伝統パッケージには、素朴な窯きものの魅力を素直に楽しむ大らかさがあって、これは何の何焼であると肩を張ったものは少ない。もちろん名の通ったもの、ねとえば岡山獅子〔下図左〕や桃香焼〔下図右〕は備前焼であり、それをむしろ売りものにしているが、その種のものは少ない。

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 一応は名のある備前焼、小鹿田焼(猿酒)、備前伊部焼(十六味地黄保命酒〔下図左)、波佐見焼(五島椿〔下図右)、清水焼(七味家香味)などもあることはあるが、大部分は無名の陶器に過ぎない。土そのものの感触が好ましいので、そういう意味からは弥二郎から(下図の下) の、まるで固めね土そのものというべき容器は飛びぬけ.ユニークなものであろう。

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 窯きものの容器は、多くの場合、ローカルな特産品と結びついている。中に入れられるものと素朴な窯きものの味わいとが、実にしっくり合っているのが魅力である。中身のほとんどは食べものだが、食べてしまったあとは、そのまま飾っておいてもいいし、食卓用の小容器にもをるし、花を投げこんで一輪差しに使えるものもあり、アフターエースという点で考えさせられる点が多い八兵衛さん 〔下図〕という佃煮は土びん付のセットとして売られているのだが、この容器はそのまま茶わんとして使えるので、結局、容れものに凝っても買う身としてはそれが高くつくことはないのである。駅弁の茶の容器がすっかりなくなって味気ないポリエチレン製になってしまったが、それは人間の知恵の退化でしかない。

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■窯きもの伝統パッケージ類

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