包装の原点

0000001岡秀行

 一体、こういうものを何と呼べばよいのか。つまらは、ごくありふれたどこにでもある包装紙や容れものの類いに過ぎないけれど、それらをスーパーマーケットに並ぶ今日的商品のそれと比べると、あまりにも違う。

 何故こんなにも違うのか。むつかしい理屈はぬきで、ただひたすらその美しさに惹かれて、私は次第にこの奇妙な、心を魅了してやまない世界へ没入して行った。それが始まりだった。

 そもそもは、私の職能であるアートディレククーという立場から、主としてデザインという角度を通じての関心であり、この本のいわば母胎ともいえる拙著『日本の伝統パッケージ』は、もっぱらその視点によってまとめられねものであった。しかし、同書のもたらしたもの、特にアメリカを中心とする海外に及ぼした影響は、私自身にとってもやや意外であった。伝統的な美のアンソロジーというよりは、むしろ物質文明全盛の現代に対する一種の批評として、信じられないほどの反響を呼んだのであった。そして、私自身の内部でも変化が生じ始めた。

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 たしかに最初は「かたち」そのものが魅力であった。どれ一つを取っても、それらはあまりにも美しかったし、その見事さに私は当然のことながら酔ってしまった。そのうちに何故か私は「かたち」以上の何かを見始めた「かたち」の奥に呼吸している人間、しぶとく今日に生さ続けている人間そのものへと、私の関心は変わって行った。

 七十年代を迎えると、社会の情況が急激に変化し始めた。科学技術万能だった文明が、いろいろな方向から亀裂を生じ、新しい価値観の創造が重要な今日的課題となり、人々は忘れられ失われかけていた何かを再び懸命に考え始めた公害問題や、人間性の回復や、生きがいなどについて考えようとするねびに、私は伝統的を包装の民俗を思った。小さな紙包みや竹かごや卵のつとは、単なる美しさをこえたもの、いまこの時代に私たちが考えなければならない何かさわめて大切なことについて、私に語らかけるようであった。それは示唆にあふれた啓示である。私は一人でも多くの人に、その声にならない声を聞いて欲しいと思う。

 不幸にして伝統パッケージ(はなはだ奇妙なことばであるが他に呼びょうもなく、私が勝手にそう名付けたところ、結局はこれが通り名になってしまっている)という分野は、民俗学の対象として明らかに意識されたことがない。そしてまた、あまりにもささやかな、ついには惜し気なく捨て去られるものであるために、民芸のジャンルにも入ら得ない。いわば民俗学と民芸の谷間ともいうべき部分として、これまでだれの関心も惹かなかったのであった。私のような学問的アマチュアが何かを少しでもなし得たとしたら、それはたまねま民俗にも民芸にも造詣がないため、かえってまっすぐこの見捨てられていた領域に踏み込んで行くことが出来たという、いわば幸運のためでしかない。

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 現代の社会においては商品包装いわゆるパッケージは巧みな宣伝であり、売るためのテクニックであり、単に客の目を引きとめるための仕かけであり、いまやビッグビジネスに成長しつつある広告産業の一部に過ぎない。それは基本的に捨てられるべきものであって、決してそれ以上ではない。現代はパッケージをそう定義し、その定義に疑いを抱く者はだれもいない。しかし、ここで改めて考えなければならないのは、本来「包む」という行為はだれのためのものかということである。包まれたものと包むものとが不即不離の一体関係にある以上、捨てられる包装といえども、その売ら手ではなくあくまでも買い手のものだと考えるべきではをいだろうか。あまりにも商業主義に走った結果、包装デザインは受け手を無視し、あるいはいたずらに迎合して、いまや行きづまりの状態にある。そこから脱出するにはパッケージの基本、包むという行為の意味そのものにまで立ち返って考えることが必要ではないだろうか。

 結局、包むことについて考えるのは、人間の生活のすべてについて考えることに他ならない。パッケージされない商品はあり得ないし、現代社会全体がさまざまなパッケージの集合体として成り立っていることを考えれば、パッケージについて論ずることは取らも直さず人間生活そのものを論ずることになる。いいかたを変えれば、包むことはそのまま生きることである。新しい包みかたは新しい生活を意味し、包みかたの変化は直ちに生活自体の変化となって表われる私たちにとって人間とは何か、生活とは何か、社会とは何かを考えることは、つまりは私たちのこの生をどう包むかという問題だとさえいえるであろうそれほどに「包む」ということの意味は広く、深く、重大である。いま科学技術の成果によって物質文明の極に立つ現代人は、ついに真剣に人間の心の問題に取ら組み始めている。心というつかみがたい不思議なものさえも、包むということを通じて私たちは知ることが出来るのではないか。

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 「ものを包むということは、こころを包むということだ」・・・故安藤鶴夫氏のいみじくもいい切ったその一言が、私の包装観でもある。

 このような私の包装観からいえば、伝統パッケージを通じて包装の原点を考えるというのは、即ち日本人とは何かを考えることである。少なくとも私自身は、ひねすらそのことについて考え続けている。あらゆるデザイン的な魅力や技術の優秀さ以前に、伝統パッケージを固有の存在としているものは、思うに日本人特有の価値観、自然観ではないだろうか。私たちは、日本人であるがためにかえって日本人の本質につながる何かを見落としがちである。

 伝統パッケージが初めて写真集として紹介されたとき、ジョージ・ネルソンは、その英語版への序文の一節にこう書いた。「このようなものを何故彼らは作ったのか? 端的にいって彼らはそうせずにはいられなかったのだ。何故なら彼らには、ものの重要性の違いなど初めからあり得ず、私たち現代人には根本的に違うとしか思えない王宮と酒瓶ですら、彼らにとっては本質的に同じ価値あるものであるから。何故なら人間の手で作られるものの存在自体が、正当な形と、何にもまして正当な美を要求していたから。何故なら人間が作ら出すものは、大いなる自然が創り出しねものとまったく同じょうに作られるべきであり、創造の神が美しからざるものを創り得ないように完壁を人間もまね、美の理念に反するものを(それが何であれ)一切許し得ないはずであったからだ。

 いいかえれば彼らの価値観そのものが彼らを動かしたのであり、寺院の庭も、婦人の髪飾らも、宮殿も、十尾の干しえびのパッケージも、およそ存在するものは、彼らにとって等しく大切を価値を持っていたからに他ならない…」こんな素晴らしい価値観を本来、日本人は持っていたのである。それは、もしかすると今日の人間生活の窒息的な情況をくつがえす新しい規準とさえ私には思えるのだ。

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 伝統パッケージに脈打っているもう一つの大きな特色は、日本人独特の自然観である。「古来、わが国には人間を自然と対比させる考え方はない。人間を始め動植物も、すべて生きとし生けるものとしてそれは自然の一部なのである。・・・日本人にとって存在するものはすべて生命あるものであら、この生ける生命の表われが自然であり、人間もこの自然の生命と同じ生命を宿しっつ、自然の中に親しみつつ生きるものであった」(『美と宗教の発見』梅原猛)の明快な一節を待つまでもなく日本人が元来自然をどのように受けとめ、その中に自分自身をどのように位置づけていたかは、伝統パッケージによって自ら明らかであろう。

 さらに付け加えるなら、浄(水が静かにおさまってにごりがない。物事にけがれがない)と不浄という伝統的な価値と反価値の論理が伝統パッケージには今を息確かに息づいている。それはむしろ伝統パッケージにおいては基本的を美の倫理として表われる。包まれるものは大切な価値あるもの、清らかなものであり、清らかな心そのものであるからして、そこに一種の折り目正しさが表われなければならないのだ。伝統パッケージが見る者を思わずハッとさせるほどの格調を持つわけはつねにこの倫理が一節通っているからである。

 伝統パッケージから逆に本人の価値観や自然観を探り、あるいは日本人固有の美の倫理を追求する試みは、実のところまだ始めたばかりである。いま、私にはそれらを体系づけてまとめるだけの力はない。私はただ直感的に何か答につながるものを伝統パッケージの中に発見しつつあるに過ぎをい。これからずっと私はその何かを考え続けるであろう。伝統パッケージの特徴、それらをささえるものについては敢て多くを語るまいと思う。私のことば以上に小さな伝統パッケージの一つ一つが直接見る人に語りかけるに相違ないからである。

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 私は単に注目すべき要素として、手わざの見事さ、この時代に執拗にそれを守り続ける一種の名人気質(職人のプライドといってもよい、また老舗の根性といってもよい)、それから材料の生かしかた、日本人ならではのユーモアといえる洒落の精神、さらにまた歳月に磨かれた生活の知恵の豊かさ、何よりも人間らしい暖かい思いやり(包まれるものへの、受けとる人への、そして包む自分自身への、それは愛情であろう)を挙げるにとどめる。 最後に、今日における伝統パッケージの意味に触れるならば、まず生活の中のゆとりということ、人間らしさを取りもどして味わう心の楽しみは何にもかえがねい。特にブラスチック全盛の昨今、本物の自然の素材が美しく生かされている伝統パッケージは、いわば象徴的な第二の自然として、現代に暮らす人々のともすれば荒涼としがちな心に大きなうるおいを与える。結局は捨て去られるものではあっても、ひとときそこにのびやかな人間らしさをよみがえらせてくれる貴重な存在として、伝統パッケージは心ある人々の間でいつまでも愛されて行くだろう。このように美しく、このように心をうつものがなくなってしまってよいはずがない。より人間らしい、より豊かな未来社会を追求しようとする人のささやかな手がかりともなれば、私としては望外のよろこびといわねばならない。