四.勧進のかたち-結線合力による造像-
建久五年(一一九四)ごろの遣迎院阿弥陀如来立像57は、快慶が生涯に数多く手がけた像高三尺(約九〇センチメートル)前後の来迎印を結ぶ阿弥陀如来立像、いわゆる「三尺阿弥陀」の最初期の作品として著名だが、それとともに重要なのは像内より多数の印仏・結緑交名が見出されたことである。印仏・結線交名は、来迎形の阿弥陀如来立像の印仏を押捺した料紙の紙背に、結線者の名を表面の印仏に対応するようにしている‥現在は全七十一紙を七綴に分け、それぞれ紙磋で綴じているが、もとは巻物であったとみられる。
平安時代に個人的な作善による造像が比較的多かったのに対し、鎌倉時代にはいると老若貴購を問わず多数の結線と合力により造仏が行われるようになる。多数結緑は、民衆教化と金品募集を行う勧進をともなって盛行したもので、遣迎院像はそうした造像の早期の遺品であり、印仏・結緑交名によれば過去者をふくむ約一万二千名もの人びとが結緑したことが知られる。快慶が創始したいわゆる 「安阿弥様」の阿弥陀如来立像の成立とほぼときを同じくして、多数の結緑と合力を募る組織的な軌進のかたちも成立したことをしめす点で、遣迎院像は画期的な意味をもつ。
この像ときわめて近い作風をしめす阿弥陀如来像58が、平成十人年(二〇〇六)に京都・知恩寺で見出された。無銘記のため、ただちに快慶作と同定はできないものの、肉付きのよい面部や厚みのある体躯、着衣部にほどこされた裁全文様の趣致もふくめ遣迎院像に肉薄する出来映えをしめす。近年のⅩ線CT撮影による調査で、像内の頭部と体幹部にそれぞれ巻紙状の品を納めていることが判明しており、遣迎院像と同様に願文や結縁交名の類かと想像される。
そして、結線と合力による造像の究極的なかたちをしめすのが、建暦二年 (一二一 二)の京都・浄土宗阿弥陀如来立像∽である。源智(一一人三~一二三九) が師法然 (一一三三~一二一一〕の恩徳に報いるため、その一周忌を期して発願した像で、じつに四万から五万名もの人びとが結線し道立された法然教団にとってまさに記念碑的な存在である。法然や証空(一一七七~一二四七)、信空といった浄土宗教団の主要人とも物のほか、天皇をはじめとする皇族、源頼朝ら鎌倉幕府の歴代将軍、阿弥陀仏号をも念仏聖たち、さらには運慶、快慶、湛慶など、過去者をふくむ公武の鐸々たる人物名を連ねる。像の作者については、快慶の筆頭格の弟子行快(生没年不詳)の作とする説があり、交名中には快慶にあたる可能性がある丁軋阿弥陀仏」の名もみえる。
興味深いのは、証空の関与が想定される遣迎院像57や、源智発願の浄土宗像幻、法然没後に源智が専修念仏の道場としたという知恩寺の像58など、法然の門弟が関与した阿弥陀如来立像に快慶及びその丁房の優品が多いことである。それらはまた、像内に結緑交名をはじめとした多数の文書を納入する、もしくはⅩ線透過撮影やⅩ線CT撮影で像内に複数の巻紙状の納入品が確認される占…にも共通点が見出せる。像内納入の行為には、納入者の願意が像内の空間を通じて、異界のほとけに伝達されるとの発想があったと考えられており、浄土宗像のようにしばしば像内の内到面に漆箔がほどこされるのも、そこがほとけと納入者とをつなぐ聖なる空間とみなされたからにほかならない。快慶工房が手がけた阿弥陀如来立像には、願文や印仏・結線交名などを奉籠するための、いわば容器としての機能も期待されたと考えることができる。
「安阿弥様」阿弥陀如来立像の流行は、その端整な姿が鎌倉時代の人びとの好尚に適ったということのみならず、法然を中心とする浄土宗教団の発展と、それにともなう結緑合力を募る勧進システムの成立がとりわけ大きかったといえるだろう。
さて、法然や証空が正行房なる人物に宛てた書状が納入されていたことで知られる こうぜんし奈良・興善寺阿弥陀如来像は、無位時代の快慶作品と着衣形式などが共通するものの、作風には平安時代後期の穏健な風をとどめており、快慶の影響を受けた周辺仏師の作ととらえられる。像内納入文書により、正行房が亡き父母のために発願し、千五百人以上の人びとが結線したことが知られ、のちに触れる奈良・来迎寺善導人師坐像幻の像内銘と共通する人名が多いことも注目される。輿善寺像は、天正十七年(一五人九)の創建時に奈良市街東山中の田原から移坐されたものというが、当地は来迎寺のつげ位置する都祁とも比較的近く、鎌倉時代初期に浄t教信仰の一拠点だったようだ一 法然が師と仰いだことを契機として、このころ中国・唐代の浄土僧である善導(六一三~六八一)に対する信仰が高まりをみせたが、輿善寺像の像内納入文書により、正行房は正治二年(一二〇〇)ごろに「善導御堂」の建立を進めていたことが知られる。この御堂に安置されていたかとみられるのが来迎寺像幻で、快慶に通ずる作風をしめし、像内にしるされた結緑交名のうち金阿弥陀仏ら人名は、建仁三年(一二〇三)醍醐寺不動明干坐傑出と共通する。また、近年の修理時に像内頭部に複数見出された尊慶の名が、建仁元年の東大寺僧形八幡神坐像34の像内銘に小仏師としてみえる人物と同一人の可能性があることも往昔首」れる。 なお、来迎寺像に関連して、『法然上人行状絵図』(徳満二年〔一三〇七〕から十余)そ年をかけて成立)には、法然の求めに応じて重源が浄十五祖の影像を中国より将来しとしるされ、知恩院や奈良・常麻寺奥院の法然L人絵伝にも浄土五祖囲を供養する場面が描かれるが、この説話は事実にもとづかない創作と考えられている。一方で、
扁状絵図.三より成立がさかのほる毒朝祖師伝記絵詞』や『法然聖人絵』には、重源が中国より将来した品について、「善導和尚真像」あるいは「善導の御影」とあり、浄土元祖とはしるされないとの興味深い指摘がある[小野二〇一〇『w;Sl)訂2-SSi〇nP㌣per≡〇像容等の詳細は不明ながら、重源が将来した善導像が独尊だったとされることは、来迎寺像との関連でいちおう留意すべきだろう。
五 御願を担う-朝廷・門跡寺院の造像-
建仁三年(一二〇三)十一月三十日、東大寺ではいわゆる総供養を迎え、建永元年(三〇六)には晩年の姻詳世紀を東大寺再興に捧げた重源が逝去した‥これらを画期として、快慶は朝廷や門跡寺院に活躍の場を広げてゆくこととなる(一 もっとも、後白河院追善の醍醐寺弥軌菩薩坐像1を初例として、正治二年(一二〇〇)には束寺長者の鮎新(一三三~三〇六)が建立し後鳥羽院の祈願所となった金剛峯寺孔雀堂の本尊孔雀明壬坐像加を手がけ、翌年の東大寺僧形八幡神坐像34も御願の造像ととらえられるなど、無位時代から朝廷にかかわる事績はあるが、重源逝去以州州“…頂貼附帥㍍持僧として活躍した敷椛(二五千≡一五)による、青蓮院関係の造像は重要であるこ同院では建永元年の俄盛光堂の造営につづいて、承三元二年(一二〇八)に俄法堂(大儀法院)が供養され、それぞれに不動明王と毘沙門てん天像が安置された(〒門葉記三土寸院四)‥アメリカ・メトロポリタン美術館不動明王坐像紆は、青蓮院本堂(犠盛光堂)に江戸時代の作とみられる忠実な模刻像が現存することにより、同院旧蔵と確かめられる‥銘記等は知られないものの、両顎が左右に張った骨格や両脚部の特色ある衣文構成、盆怒相ながら気品のある顔立ちは、建仁二二年快慶作の醍醐寺像砧、及び寛正三年(一四六二)の修理銘に快慶作とある京都・正1)汚いん蓋院像75と似通うことから、快慶の手になるとみてよい。また、いま青蓮院本堂に安置される兜抜毘沙門夫立像朗は、細部にまで神経のゆきとどいた作風に快慶の特色が入顕著に認められ、地天女の目尻が切れ上がり、口唇を小、づくりにまとめた面相にも、東大寺阿弥陀如来立像32との類似が認められる。俄法堂の像とすれば、メトロポリタン美術館像と一具をなした可能性が考えられる(」 承元四年には、俄盛光堂後戸安置の釈迦如来像を道立した。このとき、快慶はすでに法眼位に昇っていたが、同二年四月に石清水八幡宮に寄進した僧形八幡神画像の写し(いま焼失)の銘記には法橋位としるされていたといい、この間に法眼叙位があったとわかる。建保四年(一二」ん仙川㍍は、俄盛光堂詑消された俄盛光法の岳芸羅諸尊像を手がけた。俄盛光法は、天変地異など国家的な災厄を払うというきわめて格の高い造像であり、このころの快慶の置かれた立場を端的にしめしている。里奈羅諸尊像挙止の貴で弟子を法橋にしたというが、建保七年の長谷寺本尊十一面観音像の再興で快慶を補佐した行快がすでに法橋位にあることから(『建保度長谷寺再建記録』)、このとき法橋に叙されたのは行快だったと推定できる。
なお、建暦元年(一一二一)快慶作の岡山・東毒院阿弥陀如来像は、像内約人品朗から開眼導師を青蓮院門跡覿郎(二六七~一三看)が務めたとわかる「)束藷院 二うぽういしは弘法寺の一院で、弘法寺はかつて天台宗と関係があったことから、ここに青蓮院門跡で天台寧王も務めた真性と、青蓮院関係の造像の主要な糾い手となった快慶との関わりが想定される。建保三年に高陽院で始められた後鳥羽院道修の追懐に参加したことも見逃せない。主なのか高鳥羽上皇道修僧名等目録1コ70によれば、初七日本尊を法印院実、二七日及び三七口本尊を法印湛慶、四七日本尊を法印院賢、そして五七日本尊弥勒菩薩像を法眼快慶が担当したというこいずれも法印位にあった院派仏師や湛慶に伍して朝廷の造仏の一翼如岬っ如占半瑚調謂絹㍍帥附跳㌍皇女である叫離賢一八一~三一)発願の醍醐寺攻庵堂諸像を湛慶とともに道立したが、これが史料上知られる最後の事績である(=醜醐寺新要録」一巻第十三竺‥沃世顕蕨が貞応年間(一二二二上一四)に護持僧に任じられ、朝廷の祈願所となった郡山町は、承久三年(二二≡の兵火に請焼亡後、七世縦断…五て一…一六)のときに消赫譜与えられ景羅寺を領掌した‥随心院に伝わり「巧匠法眼快慶」銘を有する金剛薩壇坐像刀は、承久三年の火災以降、快慶日一取晩年の作である‥ 先に触れた承元二年に快慶が石清水八幡宮へと寄進した僧形八幡神画像は、東大寺僧形八幡神坐像31也旭立に際して直接の手本だった吋能性があり、さらには重源が東大寺八幡宮再興に際し神体として奏話した勝光明院宝蔵の八幡大菩薩画像の忠実な模本だった可能悼もある:快慶と石清水八幡宮との接点をしめす事例として重要だが、このほか石清水に建立された八角堂の本尊にあたる正法寺阿弥陀如来坐像〔図8〕も、快慶風を顕著にしめす大作として見逃せない‥従来=石清水八幡宮末社記」一などが伝える建保年間(三三⊥九)の郡部卦郡部(二六六~三三)による道草とみられていたが、近年、建暦二年三月三日に祐清が千仏光背をともなう丈六阿弥陀如来像を道立し、貞慶が供養導師をつとめたことを伝える史料(蚕脱上人明宙心上人伝で絵巻」二探幽縮図〕)との関連が注目された[杉崎二〇九]。祐満と貞慶のあいだをとったのは快慶だったとも考えられるじ快慶は、祐清の弟・成真法印のために「一尺八寸阿弥陀三尊扉地蔵不動」すなわち厨子入り阿弥陀二重像をつくつたことも知られるなど(『」仏菩薩目録≡、このころ院派仏師が優勢だった石清水関係の造像にも一定の足跡を残した
六 霊像の再生-長谷寺本尊再興-
建保七年(一二一九)閏二月十五日、大和国長谷土寸本尊十二河観音像が焼失した。奈良時代以来の由緒をもつ霊像として名高い同像は、平安時代に幾度かの火災を経験しながらも、繰り返し再興が遂げられてきたが、六度目ともいわれる火災によりまたもや灰燵に帰した。建保度の再興は、同年三月十七日に一一丈六尺の本尊のための支度
を注進し、四月十七日には快慶を大仏師としてただちに着手され、はやくも五月二十日には光背をのぞく像本体の小作りが終えられたという(『長谷寺再興縁起』空〇造像に要した期間がわずか三十三日間だったのは、観音の三十三身を意識してのこととみられる。『縁起▲コに快慶をして「其身浄行也、尤足晴撰欺」とあるのは、仏師持戒を守るなど造仏作法にのっとって如法に道立したことをしめしており、ここでも快慶は如法というキーワードで語られる点に注目したい。 建保七年以前成立の『長谷寺霊験記』によれば、長至寸本尊の頂上仏画は、平安時代の三度の火災に際して、その都度みずから飛び去るなどして難を逃れたといい、また再興のたびに頂上仏面を新造するとわざわいが生じるため当初のものに替えたとされるなど、生身の仏としての性格が広く知られていたようである。
こうした霊験あらたかな生身仏の再生を託された快慶は、斎戒を持すなど如法に道立することで、原像に匹敵する聖性の付与が求められたものと思われる。
快慶再興像対㌦い弘安三年(三人〇)の火災で失われたが、近年これと同じ掛か和を用い、弟子長快(生没年不詳)が忠実に模した十一面観音立像(三重・パラミタミュージアム蔵)が見出されたC興福寺大乗院尋尊(一四三〇⊥五〇八)の毒尊大僧正記」】明応三年(一四九四)五月二十七条によれば、興福寺内の禅定院観音堂には、「走阿弥作」で長谷寺本尊の御衣木を用いた十一面観音像が安置されていたといい、尋尊自筆の哀尊日六』にも同様の記述がある。大きさや作者が一致するパラミタミュージアム像は、まさにこの像にあたるとみてよい〇先に触れたとおり、建保七年に焼失した長谷寺本尊は、快慶を大仏師として再興が遂げられており(『建保度長谷寺再建記録』ほか)、十三世紀第3四半世紀の制作と推定されるパラミタミュージアム像の御衣木には、この快慶再興像の余材が用いられたと考えられる。快慶が如法につくつた建保度の再興像は、パラミタミュージアム像の道立に際しても拠るべき規範とされたに違いなく、天文七年(三三八)の硯本尊〔図H〕の再興に際しては、快慶再興像の御衣木を用い、その由緒と霊験を受け継ぐパラミタミュージアム像が直接の手本とされた可能性がある。なお、これに関連して東福寺観音堂(普門院)本堂の本尊十一〔図11〕・昏十一面観音立像 奈良長谷寺面観音像は、「安阿弥陀仏」すなわち快慶の作で、「長谷寺形」の三尺像だった(『九-享つみちいえそうL上ぶんLJう条道家惣処分状。また、快慶が後半生に接点をもつた右清水八幡宮でも、「長谷寺衣木造観音」が供養されている(『寺緑事抄納告目録』)。快慶及びその周辺で長谷寺本尊の模像がしばしば行われていた様子がうかがえる。
従来、南都再興期以降の東大寺や興福寺における快慶の事績は知られていなかったが、長谷寺本尊像と同年に供養された東大寺西大門勅額に附属する八天王像47が快慶作とほぼ確かめられ、「巧匠/法眼快慶」銘を有する大阪・藤田美術館地蔵菩薩立像乃が明治三十九年(一九〇六)撮影の仏像写真(興福寺蔵)により興福寺伝来と確認されるなど、ひきつづき南都の主要な造仏を担っていたことが明らかとなつてきた。
快慶は、南都焼討ち後の一連の興福寺再興で主要堂宇の大仏師となつた形跡はないが、晩年期に興福寺大乗院の有力な末寺だった長谷寺の本尊像を再興し、後述のとおり内山永久寺(明治年間に璽寸)でも事績を残したとみられるC大乗院には、九条兼突から「擬講」(大乗院院主信円〔二五三~…二四〕のことか)に伝えられた「懐慶法眼作」の阿弥陀三尊像があったことが知られており(『本尊目六』)、快慶はとりわけその後半生に大乗院をはじめとする興福寺の院家や大乗院末寺の造像に関わったようだ。先に触れた藤田美術館地蔵菩薩立像もその一遺品かと推測される二巧匠/法眼快慶」銘のアメリカ・キンベル美術館釈迦如来立像についても、転用の台座にしるされた二種の墨書銘から南都所縁の可能性があり、天文十一年の台座買得は輿福寺東北院家のうち西発志院の住持興尋により行われたとわかる。南都伝来の確証こそ得られないものの、快慶法眼時代における興福寺の院家に関わる像かもしれない。
寛正三年(一四六二)の台座修理銘に快慶作とある正毒院不動明王坐像乃は、同銘及び毒尊大僧正記』により内山永久寺五大堂五大明王像の中尊だったとみられる=かねて建仁三年(一二〇三)快慶作の醍醐寺不動明王坐俊郎に先行するとみるむきもあるが、たとえば背面襟折返しの誇張的な翻転は無位時代の作品には認められず、承久三年(二三一)ごろの光妻院阿弥陀如来像の両脇侍などに顕著な表現で、ややこぢんまりとした体つきも晩年期の作風に通ずる。快慶法眼時代の作と考えたい。
東大寺聖観章且像花は、明治維新に際して内山永久寺から移された聖璧日像にあたるとみられる(『諸伽藍仏体取調書』)。半身にまとう緒と腰布の形式は、ボストン美術館像2とほぼ一致し、快慶派の一種の型とみなすことができるご頬がゆたかに張った顔立ちや見開きが大きくするどい目つきの表情は、快慶の筆頭格の弟子行快の作風に通ずるところがある。『内山永久寺置文』〝の経蔵条や肩山之記』の記述を考ぇぁゎせれば、『置文』のいう快慶作との伝えはともかく経蔵に安置された弥勤像の可能性は高いだろう。
長至寸本尊の再興に象徴される快慶晩年期の霊像との関わりを語るうえで、清涼寺釈迦如来立像〔図1〕の修理を行ったことは見逃しえないロ清涼寺像は、寛和二年(九八六)に東大寺僧の裔然(九三人~一〇一六)が中国・宋より将来して以降、三国伝来の霊像として信仰を集めたが、建保五年の清涼寺炎上に際して像も破損した。これを受けて、翌年十二月に別当法眼任雅のもと「大仏師法眼快慶」により修理が行われた(同像ム口座茸軸底面墨書〔mページ〕)。貴購を勧進して造像の功を遂げたのは、明宙買ったとも伝えられる(『釈迦堂縁起』)。先に触れたように、快慶は建久二年(二九一)の後白河院三七日道修において晴璽寸像の模像を制作した可能性があるが、そ
うとすれは晩年に至って史上名高いこの霊像とふたたび接点をもったことになる。清涼寺像の修理への起用は、建久二年の模像制作と何らかの関係があるのかもしれない。
清涼寺像の修理において、快慶は建久三年の醍醐寺弥勤菩薩坐像1以降、例外なく用いてきた「巧匠」の名乗りを唯一用いていない。像の新造でなく修理だったためとも解されるが、生身の釈迦の姿を写して「天匠」毘首掲磨がつくつたと伝えられる清涼寺像に対して、みずからを「巧匠」としるすことがはばかられたためかとも想像される。
長谷寺本尊の再興や清涼寺像の修理と相前後するころ、快慶は京都・大報恩寺十大弟子像(158~159ページ)の制作も手がけた。このうち、墨書銘を有する臼健連と優婆離が快慶法眼時代の作と判明し、目鍵連の台座には「正三位行兵部卿藤原朝臣忠行」の陰刻銘も認められる。藤原忠行 (?~一二三一) がこの肩書を冠した時期が建保四年から承久元年人月十三日の間であることにくわえ、阿難陀の像内納入品80に建保六年十一月、同七年正月、承久二年八月の年紀がそれぞれあることから、これら一具の道立は、おおむね建保から承久年間ごろと考えられる: 完成の下限は人報恩寺本堂に安置された安貞元年(一二二七)十二月二十六日である(本堂棟木銘)。
快慶銘をもつ目埠連と優婆離のほか、富楼那・阿那律・羅暇羅・阿難陀は作風や緒裾の処理が快慶風であり、入念にほどこされた彩色の趣敦も共通するが、残りの舎利ま〕軒・人迦葉・須菩提・迦鯖延は作風が異なり、これらを運慶系続の仏師の作とみなす説がある。このころの群像制作の実態をものがた塙ものとして興味深いが、これに関して同寺六観音像は、貞応三年(一二二四)に肥後定慶(一て八四~?)ら運慶系統の仏師がたがいに個性を出し合って制作したとみられるものの、このうち鳳頭観音像の単純な弧を連ねた脚部正面の衣文や、両足の甲に対向する折りたたみをつくる緒裾の処理は快慶風であり、この群像制作にも快慶派の仏師が参画したことを示唆している。
さて、現存の大報恩寺本尊釈迦如来像は、快慶の筆頭格の弟子行快の手になる嘉禄三年 (一二二七) 以後の作だが、創建当初は十大弟子像と同時期ないし先」時期に快慶が造立した本尊が存した可能悼もある。平安時代以降の釈迦十大弟子像を通覧すると、十大弟子像が随侍する釈迦如来の彫像は例外なく清涼寺式であることからすれ{や行快造立の現本尊は再興像で、当初の本尊は十大弟子像と同時期に道立された快慶作の清涼寺式釈迦如来像だったかと推測される。
安阿弥様の追求‥詫蔓けは、法然をはじめとした浄土宗教団の僧侶たちと親交が深かった。そのことも二人雫,尺阿弥陀」の遺品が際立って多い点に特色がある。
二安寿拉人∴さかのぼる三尺阿弥陀像の遺品は、それほど多くないが、このうち京笠蛮賢盲(良川金色院伝来)は、藤原師実(一〇四二~一一〇一)の一周忌追善てある可能性が説かれる。また、京都・本願寺像は後白河院の崩御した建久三年(一一九二)ごろに院の追善仏としてつくられたとみられることが注目される。後白河院の追善仏事については、院の崩御という重事ゆえに諸書によりその詳細を知ることができる。藤原走能(一一四八~一二〇九)の日記『心記』(『定能卿記』)には、連日のように修された仏事について、願主や導師の名とともに作善の内容もしるされるが、作善の大半をしめる造仏では三尺阿弥陀の彫像が圧倒的に多く、詳細不明なが いみあら忌明け近くに等身像が増えてくるまでは連日のようにつくられている[伊東一九九四=学叢」一]。一連の追善仏事と遣迎院像57の制作時期との近接に着目すれば、後白河院の追善仏事において多数の三尺阿弥陀像が制作されたことが、遣迎院像あたりから三尺阿弥陀像が急速に広まりをみせはじめるひとつの契様になったとも考えられる。
快慶が創始した一二尺の阿弥陀如来立像及びこれと同大の如来立像の形式を、こんにち快慶の阿弥陀仏号にちなんで「安阿弥様」と呼んでいる。この安阿弥様の成立と展開については、そもそもこの呼称を定義した山本勉氏による本書所収の各論を参照されたい。山本氏は、覆肩衣と袈裟とによって構成される胸前の衣緑の形式、すなわち襟のかたちが快慶の活動時期にしたがって三段階に変化すること、またこれが快慶自身の作品のみならず、工一労としての展開であることを明らかにされた一山本一九人六〒仏教芸術喜。
快慶は、まず平安時代後期の平明なかたちを基調としつつ、覆肩衣と袈裟との重なりに自然味をくわえて襟をⅤ字形に整えた。建久五年ごろの追迎院像57以降、無位時代の作品にこのかたちをみることができる‥つづいて、右胸下方の位置で覆肩衣にたるみをつくるかたちが現れる「圏国法橋囲履こ銘の人阪・ガ酢卦像83を初例として、法眼位を得たのちの建暦元年(一二一一)銘の束毒院像でもこのかたちを採用している。快慶が法橋位を得た建仁三年(一二〇三)十一月三十日以後、法眼時代のある時期まで用いたのだろう。そして、束毒院像の直後に左胸下の位置で袈裟の下層の衣を引き出す、左右二箇所に衣のたるみをつくるかたちへとさらなる展開を遂げる‥行快ないしその周辺仏師の作との説がある建暦二年の浄土宗阿弥陀如来立像紹を年代の判明する現存最古の作品として、承久三年(一二二一) の奈良・光林寺像87や同年ごろの光量院像などのかたちである。快慶の死没を伝える嘉禄三年(一二二-し七)ごろ行快作の京都・極楽寺像88も同形式であることから、快慶自身の安阿弥様の展開は以上の三段階で終わったと考えられる。なお、行快は法眼時代の大阪・北十萬阿弥陀如来像において、快慶が採用しなかった袈裟末端を人きく折返して左肩にかける着衣形式を用いている。これは、安阿弥様とは別系統の同時代の三尺阿弥陀にはみられるものの、快慶自身は採用しなかった形式であり、行快が快慶死没後にその規範から一歩踏み出したことを示唆するものとして注意される。
遣迎院像57や西方寺像81など無位時代には、康慶・運慶父子の作品とも通ずる体躯の充実感を強調したみずみずしい作風をみせるが、晩年に向かうにしたがい量感を減じてゆく傾向にある。一方で、着衣形式は先に触れたとおりしだいに複雑になり、襟のたるみや衣支線を増やすとともに、衣緑の波打ちを装飾的にし、袖先を鋭角的にあらわすことで形式美を追求しっづけた。なかでも東大寺像は、量感を減じるととも
に端整さがくわえられ、美しく撃えられた衣文線によって、肉身のまるみや動勢に呼応する衣のゆらめきが見事に表現された三尺阿弥陀の傑作である。 快慶が生涯にわたり追求した三尺阿弥陀の到達点をしめすのが、光量院像(157ページ)である。承久三年に後鳥羽院の第二皇子道助法親王(一一九六⊥二四九)が高野山寵居にともない創建した同院の本尊で、阿弥陀如来及び勢至菩薩の足柄銘により、快慶法眼時代の作とわかる。
来迎印を結ぶ阿弥陀如来を中心に、観音菩薩と勢至菩薩がともに腰を屈めて立つ三尊立像形式の現存最初期の遺品であり、この形式が快慶によって創始されたことをものがたる。鍍金銀をほどこした銅板や青緑色のガラス玉をふんだんに用いた光背・台上唾の意匠は繊細かつ優美で、光背から広がる火焔状唐草飾りのゆらめきと、光条の放閃光が、皆金色の仏身をおごそかにつつみ込んでいる。こうした入念かつ周到な荘厳は、貴顕の発願ゆえとみるむきもあるが、光に対してとりわけ繊細な感性をそなえ、その視覚化に挑みつづけた快慶揮身の光の造形と解したい。快慶の最晩年の作になる光量院像は、来迎形阿弥陀のまさに理想的な姿であり、快慶芸術の集大成というにふさわしい。
比較的近年にその存在が広く知られた三重・専修寺阿弥陀如来立像〔図望は、無銘記ながら快慶法眼時代の特色が顕著に認められ、動勢を強調した作風や複雑さを増した着衣形式は、光量院像からさらなる展開をみせている。金工技術を駆使した光背や、ガラス玉や鋼細工を用いた台座にまで及ぶきわめて入念な作技は、光裏院像と同様に貴顕の発願であることを暗示するC足柄をつくらず足裏に仏足文をあらわす点や、手足の指に金属製の爪を貼装する点も特筆すべきで、三尺阿弥陀像におけるいわゆる踏割蓮華座を用いた最初期の例でもある。像の生身性とも関わる、現実感を強調するための工夫とみられるこれらの工作は、鎌倉時代以降に一定の広まりをみせた形跡があり、その起点が快慶にあることを示唆する点で重安である亡従来、貞応二年(一二二三)の醍醐寺攻魔堂諸像を最後に、快慶の消息は途絶えていたが、極準工寸阿弥陀如来立像88が快慶の最期にまつわる新情報をもたらした。像内つき上、に奉籠されていた複数の納人文書のうち、「嘉琴一一年法花三十講経名帳」の八月十二日〔図12〕◎阿弥陀如来、三傑三重専修寺分に「過去法眼快慶」の文言が見出されたことから、嘉禄三年の時点ですでに没していたと判明したのである。
同じく納入文書の一つである「現在週去帳」の紙背には、「画阿弥陀仏/法橋行快造之」の文言がある。これにより、極楽寺像は生前に快慶みずから発願したか、あるいは没後追善供養のためにつくられたかのいずれかの可能性が高く、制作にあたったのは快慶の右腕としてつねに行動をともにしてきた筆頭格の弟子行快とみられる。快慶・行快の共作でありながら、その途上で快慶が没した点は大報恩寺造保とも共通しており興味深いが(嘉禄三年十二月の大報恩寺本堂上棟前に死没)、それはともかく快慶の関わった最後の作品がほかでもない阿弥陀如来像であったことは、熱心な阿弥陀信仰者として生きた彼の生涯を象徴しているように思えてならない。
■むすび
快慶の生涯をたどってあらためて気づかれるのは、初期の醍醐寺弥勤菩薩坐像-以降、彼の手がけた仏像がしばしば如法という言葉で語られ、また造仏作法から如法仏としてつくられたとみられるものが少なくないことである。そもそも如法仏の造立は、十世紀後半ごろより流行した心身を清浄に保ち、動物の毛や膠を用いない石墨草ひつ筆で一字三礼して書写する如法経との関わりのなかで行われるようになつたとされるD六人の子息をしたがえて工房を構えた運慶に射し、快慶には実子がいた形跡がなく、信仰を共有した同行衆とともに仏像制作を行った点も、斎戒を保った信仰者としての一面を伝えている。
清涼寺釈迦如来像や長谷寺十一面観音像といった史上名高い霊像の再生を託されたのは、持戒の仏師たる快慶の特別なちから、すなわち「天匠」毘首掲磨と比一局する「巧匠」として、原像に匹敵する聖性を付与することが期待されたからにほかならない=天皇をはじめ皇族や僧俗ら多くの人びとが快慶の仏像を求めたのは、砥がつくり出す端整で親しみやすい姿に、ほとけの理想像をみたからだろう。そして、斎戒を持して如法に仏像をつくることを意識しつづけた、信仰者としての快慶の生き方に共感したからに違いない。
(やまぐち りゆうすけ/奈良国立博物館学芸部主任研究員)
■参考資料 イタリアなどの諸外国での展覧会から