3.日本の都城

■(1)都城の夜明け・・・飛鳥の都

 仏教が6世紀なかばに伝来し、飛鳥の地では、崇峻元年(すしゅん・588)、百済から送られた僧や技術者達によって日本初の本格寺院となる飛鳥寺(あすかでら)の建立が開始される。そして、推古元年(592)に、推古天皇が蘇我稲目の向原の家を豊浦宮(とゆらのみや)として以来、飛鳥およびその近接地に天皇の宮殿が綿々と設けられた。この飛鳥寺の創建から持続8年(694)藤原京遷都に至るまでの110余年の間、飛鳥は歴史と文化の中心地であった。現在、田園風景が広がり、往時の記憶を語るものは、石造物や飛鳥大仏が残されるのみで、そのほとんどは土中に埋もれたままである。いま、営々と続けられてきた発掘調査の成果をもとに、飛鳥の都の姿を解きほぐそう。

▶︎飛鳥前史 

 飛鳥が歴史の舞台となる以前、「あすか」はどのような場所であったのだろうか。飛鳥川沿岸の狭い盆地地形の坂田、桃原などの盆地周縁の高燥な緩斜面や、真神原(まがみはら)などの盆地内の比高が高い地区には、5世紀以降、鞍作氏や衣縫氏なとの渡来系の集団が家をかまえていた。また、低地は、後に『万葉集』に「水鳥の多集(すだ)く水沼」、「赤駒のはらばふ田居(たい)」と詠まれたような湿地帯であり、その片鱗は、奈良文化財研究所の藤原第145次調査で、石神遣跡の北から検出された沼沢地SX4050などに見出すことができる。

 6世紀にはいると、蘇我氏が、渡来系集団を傘下に収める形で、飛鳥をその本拠地とする。そして、豊浦、向原、山田、甘樫丘(あまがしのおか)、嶋など、飛鳥に通じる交通の要所に拠点を設ける、地区内には氏寺の飛鳥寺のほか、後には蘇我馬子の墓である石舞台古墳を造営した。

 天皇家が飛鳥周辺に宮殿を営むようになるのは、推古元年(592)から。蘇我稲目の邸宅を豊浦宮とするなど、蘇我氏の強い影響力のもと、この地域に天皇家の宮殿が集中するようになった。

▶︎飛鳥の都

 舒明2年(630)、現在の伝飛鳥板蓋宮(でんあすかいたぶきのみや)地区に飛鳥岡本宮が置かれると、孝徳朝の難波長柄豊碕宮(なにわながえとよさきのみや)、天智朝の大津宮以外は、藤原宮に遷るまで、基本的には、この伝飛鳥板蓋宮地区とその周辺地区に営まれ、政治の中心地となった。

 これ以前、天皇は、「歴代遷宮」、つまり代ごとに自身の宮殿を変えるのが通例であった。それに対し、隋唐や朝鮮三国では、都城の場所は基本的に国定されていた。蘇我氏自らの本拠地であり、都城の建設に不可欠な渡来系集団の先進的な技術が集積されている点などが蘇我氏を中心とする政治指導層により考慮され、進められた変革であった可能性が高い。

 また、飛鳥寺の造営以降も、当時、国際的な文化や技術の中核施設でもあった仏教寺院が続々と飛鳥内外に造られ、飛鳥は、当時の日本(倭)における政治、技術のほか、宗教と文化の中心地となった。

 このように、蘇我氏、そして大化の改新後は、斉明、天智、天武、持続らの歴代天皇によって整備さ‘れてきた飛鳥の都とは、どのような形をしていたのだろうか。

 飛鳥の都は、奈良盆地の南西端、高取山の東北麓に発し、平野部に流れた飛鳥川の東岸を中心とする、南北2000m、東西500mほどの狭長な盆地に営まれた。北限は阿倍山田道と推古朝に造営され、その後も維持された小墾田宮(おはりだのみや)である。その南には斉明朝の饗宴施設の建物群や、天武朝の倉庫群が展開する石神遺跡がある。石神遺跡の南には水時計施設(漏刻・ろうこく)である水落遺跡が立地し、その南はいくつもの歴史的事件の舞台となった槻木広場が広がっていた。この広場の東隣りの真神原には築地塀で囲まれた飛鳥寺の寺域が展開し、さらに東に行った谷間には、総合コンビナートともいえる飛鳥池工房が設置されていた。そして、飛鳥寺の南、飛鳥岡の麓と呼ばれたところが、現在の伝飛鳥板蓋宮地区であり、飛鳥岡本宮以降、飛鳥板蓋宮、後飛鳥岡本宮(のちのあすかおかもとのみや)、飛鳥御浄原宮(あさかきよみはらのみや)の宮殿群とそれに付随する官が衛群が連綿と造営された。

 また、この官衛(かんが)群と飛鳥川の問の狭い空間では、苑池が発掘されており、宮殿に付属する御苑(ぎょえん)と考えられている。天武持続朝の飛鳥御浄原宮は、その東南にエビノコ郭と呼ばれる掘立柱塀で区画された施設のなかに大型建物が発見され、これが、大極殿と目されている。これらの南には、川原寺、橘寺、鴨宮などが置かれた。

 このように、狭い盆地に遠地され、その中に宮殿や寺院群が密集しており、後の京城にあたるような市街地や条坊道路もみられない点、飛鳥川の流路や盆地地形により不定形な外形をしている点が飛鳥の都の特徴とされる。

 最近では、相原嘉之により、飛鳥の都周縁の丘陵を利用した、都を取り巻く羅城(らじょう)や烽(のろし)施設の存在が指摘されている(相原2004)。井上和人は、飛鳥京の形の特徴や相原の指摘、さらには、斉明朝に造営された「宮の東の山の石垣」や田身嶺(たむのみね・多武嶺・とうのみね)につくられた「両槻宮(ふたつきのみや)」を山城と関連づけて、飛鳥の都と百済の泗泚都城との類似性を指摘し、飛鳥の都の造営には後者の技術を積極的に採用したとみた(井上2009)。

■(2)初の本格都城 一理想を追い求めた都・藤原京

▶︎白村江のインパクト

  飛鳥の都の体制がさまざまな面で整いだした7世紀なかば。大陸より衝撃的な情報が伝わる。当時、世界的大帝国であった唐が新羅と手を結んで百済を攻め、660年には、飛鳥の手本となったとされる扶余も短期間で制圧され義慈王らが唐に連行され、百済は滅亡する。その後、鬼室福信(きしつふくしん)、道琛(どうちん)らの救援要請をうけ、663年には中大兄皇子らは2万7000人にのぼる援軍を送る。そして、唐・新羅の連合軍と白村江で激突し、派遣軍は壊滅してしまう。そして、調停や示威のためか、唐使の郭務悰 (かくむそう)、劉徳高らが来日する。この事態に、中大兄皇子(天智天皇668年即位)らは、亡命百済人の力を借りながら、太宰府防衛のための水城や、対馬、九州北部、瀬戸内海沿岸、畿内などに古代朝鮮式山城を設けるとともに、大津宮に遷都するが、天皇は671年に死去する。

▶︎理想の新城

 天智天皇の死後、壬申の乱によって権力を奪取し、天皇に即位したのは、弟の大海人皇子・天武天皇(オオアマノオウジ・舒明天皇と皇極天皇(斉明天皇)の子として生まれ中大兄皇子にとっては両親を同じくする弟にあたる、とされる。皇后の鸕野讃良皇女は後に持統天皇となった。)である。天武天皇も、白村江の戦いでの惨敗により、唐の侵攻の可能性を切実に感じ、恐怖していたことだろう。ただし、対処方法は兄とは異なっていた。兄が亡命百済人の力を借りながら進めた百済的な対処方策の限界を感じ、危機感を高めていたに違いない。なぜならば、本家本元の百済はいともたやすく唐に滅ぼされ、もう一つの強国であり、隋唐の攻勢をはねのけていた高句麗すら天智天皇7年(668)に滅亡していたのだから。唐に対する恐怖感、兄の政策に対する限界感と現状に対する危機感が、壬申の乱(じんしんのらん)に走らせたのかもしれない。

 そして、天武天皇がとった政策は、中国を手本とした強力な中央集権国家の形成を目指すものだった。そこには、今の制定、戸籍の編成などとともに、中国的な都城の建設が織り込まれていた。『日本書紀』によると、彼が新たに造ろうとした都は「新益京(あらましのみやこ)」と呼ばれ、その中枢である宮城は「藤原宮」と呼ばれていた。

 この事業に天武天皇が取りかかったのは670年代。新たに造られる都城は、飛鳥の都をはじめとするそれまでの国内の都にはか、姿をしていた。最大の特徴は、整然とした条坊制による区画割りをもった方形の京城。飛鳥の都は、不定形で、なおかつ京城がなかった。この正方位に基づいた規則正しい道路で区画された敷地には、寺院豪族の邸宅のほか、宮人たちが住んでいた。日本最初の「都市」が出現したのである。また、京の中心には、天皇の住まいである内裏やまつりごとの場である大極殿・朝堂院、国の官衛(かんが)などが立ち並ぶ藤原宮が位置していた。藤原宮の大垣や門、そして宮内の諸建物には、飛鳥では寺院だけにしかみられなかった瓦が葺かれていた。

 新益京一現在、藤原京と呼ばれる都城の形制は、周の時代の官制などを記した『周礼』の「考工記」に記される理想の都を手本にしたと考えられている。

 岸俊男による先駆的な研究では、藤原京大和三山(耳成山・畝傍山・香久山)の内側に配置された12条8坊の都城で考えられていた(岸1984)。しかし、現在は発掘調査の進展により、東西および南北の長さが5.3km、10条10坊の巨大な都城である藤原京の姿が推定復元されている(小澤2003)。天武・持統天皇が目指した都は、四神相応、三山の思想にも合致させるように、各方位に三山が配置される場所に都城の位置を定め、大和三山すらも京城に含む、壮大なスケールを持った都であった。そして、『周礼』に記される理想の王城とするために、正方形都城の中心に宮城を配置した。造営を始めてから20年、694年に飛鳥浄御原宮から、藤原京へ遷都がおこなわれた。都の実質的な完成はさらに10年後となったが、持統天皇、文武天皇、元明天皇の三代にわたって、藤原京が都城として用いられることとなった。

▶︎大陸の実情との乖離

 しかし、第7次遣唐使(669年出発)から第8次遣唐使(702年出発、704年帰国)の間、約30年間にわたって遣唐使が中断していたことによる唐の都城情報の不足や、周礼者工記の記述への過度の傾倒のためか、この日本最初の中国的都城の藤原京は、実際の唐の都城である長安城、洛陽城と大きく異なっていた。なかでも決定的な違いといえるのは、宮城の位置。唐の都城は、宮城を京北端中央に置く、北開型の配置をとるが(洛陽城もその計画であったが、洛河の流路の影響で、宮城は京西北隅に位置している)、藤原京では、先述したように京の中心に宮城が置かれる。一見すると宮殿の防衛としては理にかない『周礼』「考工記」の記述にも合致する。しかし、律令国家としての重要な儀式の場であり、都城を荘厳化するための朱雀大路の長さが圧倒的に短くなる。また、その藤原京の朱雀大路の幅は25mほどで、ほかの道に比べると大きなスケールを持っていたが、長安城や洛陽城の朱雀大路と比較すると狭かった。そして、都に登る人々を迎え、都城としての威容を誇るべき都城正門である羅城門も丘陵部に当たり建てられなかったと考えられている。国家威信を具現化する重要な装置であるはずの羅城門〜朱雀大路〜朱雀門の京中軸線があまりにも貧弱であったのだ

 702年に再開され、704年に帰国した遣唐使によって大唐帝国の都城の実態が伝えられると、こうした藤原京の限界や問題点が露呈したのだろうか、藤原京へ持統天皇が居を移し、704年に藤原宮・京がほぼ完成してから、わずか2年後の706年には遷都への動きがはじまり、708年には遷都の詔(みことのり)が出された

(3)そして新たな都へ

▶︎平城京

 そして、今から約1300年前、遷都の詔から2年後の710年に新たな都城一平城京へと時の元明天皇は移った。

 平城京の場所を定めるにあたっては、四神相応と三山の地とすることが意識された。元明天皇が出した遷都の詔によれば、「方今、平城之地、四禽叶図、三山作鎮、亀笠並従」とあり、平城の地が四神相応、三山の地であると宣言している。

 完成した平城京の規模は東西4.2km、南北4・7km。都城の形は、飛鳥京が不定形型、藤原京が方形であったのに対して、平城京は南北に縦長の長方形。そこを条坊道路が走り、京城を碁盤の目状に区画している。また、京東側に外京が設けられたため、張り出しを持つのも特徴だ。

 

 平城京内外には、外京の広大な面積を占める藤原氏の氏寺興福寺のほか、藤原京の大官大寺、本薬師寺、飛鳥の飛鳥寺から法灯を伝えられた大安寺、薬師寺、元興寺、律をもたらした鑑真和上の唐招提寺鎮護国家の寺である東大寺法華寺、東大寺の対となる西大寺などの数多くの寺院が展開するのも特徴である。

  

 さて、平城京南辺には羅城があり、その中央に設けられた京正門の羅城門をくぐると、幅75mの朱雀大路がまっすぐに約3.6km直進し、京北端中央に造営された平城宮正門の朱雀門につきあたる。

▶︎平城宮

 大垣とよばれる最大厚約2.7m、高さ約5.0mの築地塀(北面のみ掘立柱塀)で四周を取り囲まれた平城宮は、1辺約1kmの正方形で、東辺に東院と呼ばれる南北約750m、東西約250mの張り出し部をもつ。その中には、天皇の住まいである内裏、まつりごとの場である2組の大極殿と朝堂院・朝集院二宮八省の官街や倉庫群などが立ち並んでいた。また、東院のほか、宮内各所には苑地があり、儀式や宴がおこなわれていた。このほか、宮・京の北方には、広大な苑池である松林苑と水上池が展開する。

▶︎平城京と長安城

 長方形の京、北開型の宮城配置、荘厳化された羅城門〜朱雀大路〜朱雀門にいたる中軸道路、宮北方の松林苑・水上池ならびに京南東隅五徳他の配置、さらには、平城京の大きさがまさに長安城の1/2、面積1/4である点などから、平城京の形制は、当時の大帝国であった唐の首都、長安城の直接的な影響を強く受けていることが、これまでの研究で指摘されている(井上2009)。

 こうした背景には、自江村の戦以来停止されていた遣唐使の再開に寄るところが大きいと考えられる正式な形で国交が回復した唐と密接な関係を持つことにより、都城の形制に限らず唐のさまざまな文化を享受することができるようになった結果、平城京を本格的な中国的都城とすることができたのだ。

(4)日本の古代の都

 歴代遷宮より脱却をはかり、百済の都城形制や技術を導入して、誕生した日本最初の都城「飛鳥」。大陸情勢を睨(にら)みつつも、周礼(しゅうらい・儒家が重視する経書で、十三経の一つ、『儀礼』『礼記』と共に三礼の一つである)に強く影響を受け、独自の理想郷を追い求めた藤原京。

  

 そして、飛鳥・藤原での試行錯誤と遣唐使によってもたらされた唐の第1次情報によって、本格的な中国的都城「平城京」が完成したのだった。この平城京は、聖武朝での短期的な恭仁京(くにきょう)、難波京、紫香楽宮(しがらきのみや)への一時的な遷都を除けば、784年に長岡京に遷都されるまでの74年間、元明天皇以後8代の天皇が居を構えた都城であり、日本の古代都城の1つの到達点といえる。シルクロードの終着の地ともいわれる平城京。大陸のさまざまな文化が交じり合い、花開いた都城の文化がそこには確かにあった。

(成田聖 飛鳥資料館)