法隆寺焼損

■法隆寺壁画焼損、あの日刻んで 26日は文化財防火デー

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【動画】法隆寺金堂の火災について、太田信隆さんが当時を振り返った=森井英二郎撮影
火災を1面で報じた、翌日の朝刊(大阪本社版)。壁画の前で合掌する佐伯定胤住職の写真は当時の人々に強烈な印象を残した=49年1月27日付

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文化財防火デーの26日、全国各地で防火・避難の訓練が実施される。文化財防火デー制定のきっかけになったのが、壁画の模写作業が行われていた1949年1月26日に起きた法隆寺(奈良県斑鳩〈いかるが〉町)金堂の火災だった。焼損した世界的な傑作の仏教壁画(7世紀、国重要文化財)について初の科学的な総合調査が始まったのを機に、67年前のあの日、何があったのかを振り返った。

法隆寺金堂壁画特集
■金堂壁画、初の総合調査始まる

 壁画は、釈迦や薬師などの群像を示す大壁4面(高さ約3メートル、幅約2・6メートル)と、各種菩薩(ぼさつ)像を描いた小壁8面(同、幅約1・5メートル)からなる。1940年に当代一流の画家による模写が始まったが、49年1月26日、堂内からの出火で焼損し、ほとんどの色彩が失われた。土壁ごと取り外され、合成樹脂や鉄枠で補強され、境内の収蔵庫で保管されている。

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 法隆寺は文化庁と朝日新聞社の協力のもと、学識者でつくる「保存活用委員会」を昨年12月に設立。3年かけて劣化の有無や最適な保存環境を最新の科学で探り、焼損から70年となる2019年をめどに中間報告をまとめる。その成果を踏まえ、一般公開の可能性も検討される。

■朝日新聞はどう報じたか

 1949年1月26日早朝の法隆寺金堂の火災について、朝日新聞大阪本社は同日、「けさ法隆寺 金堂全焼」の号外を発行した。

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 物資不足の当時、朝日新聞は数ページ、朝刊のみの発行。火災翌日、27日の大阪本社版は表裏2ページだったが、1面の約半分が火災の記事に当てられ、「法隆寺金堂炎上」「国宝壁画大半失う 解体中の内陣を全焼」の見出しが並んだ。裏面には「忘れられた国宝」と題し、各地の文化財保護体制の不十分さを指摘する記事を掲載した。

 当初から、報道の焦点は火災の原因だった。26日号外では「漏電説が有力」と報じ、27日の紙面では壁画模写の現場で使われていた絵の具の接着剤を溶かすためのヒーターや、座布団に電熱線を仕込んだ電気座布団の過熱の可能性を指摘した。その後、現場責任者や電気座布団を作った業者が起訴されたが、結局原因は特定できず、失火については全員が無罪になった。

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 もう一つ注目されたのが焼損した金堂壁画の行く末だ。29日の紙面では「十二面とも抜き取り 大宝蔵殿に保管」と、壁画を取り外して保管するという文部省(当時)の方針を報じる一方、それに法隆寺の佐伯定胤住職が「生体解剖に等しい」と強く反対していることも伝えている。2月6日付の「声」欄では、壁画の取り外し保存を巡って「当事者の善処に任せるのが妥当」「信仰とともに保存されてきた壁画を他へ移せば単なる美術品になる」と賛否の投書を紹介した。(編集委員・今井邦彦)

■67年前の火災を目撃した元NHK記者太田信隆さん(84)

 当時の斑鳩はとても静かなところでした。今ものどかですが、車や家がもっと少なく、お寺の鐘が隣の町村まで響き渡るほど。そんな静かな中で、金堂の火災は起きたのです。サイレンが遠くまで聞こえ、近隣の安堵(あんど)町や大和郡山市、河合町などからも消防団が一斉に駆けつけました。

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 私は高校2年生でした。いつもなら午前8時に法隆寺保存工事事務所の始業のサイレンが鳴る(注1)のですが、あの日は午前7時半ごろに鳴り始め、なかなかやまないのです。異変に気づき、近所の友人に声をかけました。「おい、寺中(じちゅう)で火事や。行ってみよう」。地元のものは誰も「法隆寺」と改まった言い方はしません。

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 ログイン前の続き現場に着くと、佐伯定胤(さえきじょういん)管主(注2)がお弟子さんに脇を支えられて金堂から本坊へ戻るところでした。燃え上がる堂内へ飛び込もうとするのを宮大工や弟子が止めたそうです。前日まで壁画を模写していた画家たちは、魂が抜けたように立ち尽くしていました。

 余燼(よじん)がくすぶっていましたが、私は中をのぞき見ました。火熱で彩色を失った壁画は焼けただれてモノクロ写真のようになり、息をのむ思いでした。白眉(はくび)と言われた6号壁・阿弥陀浄土図は無残に穴が開き、下地の木舞(こまい)、ヒノキの芯材が露出していました。真っ黒に焼けた柱とは対照的に、真っ白な木肌だったことが印象に残っています。

 後年、私は周囲の人たちからこう言われたことがありました。「金堂炎上の現場に駆けつけながら、なぜ写真を撮らなかったのか」と。

 終戦からまだ4年弱。斑鳩にカメラを持っていた人が何人いたでしょう。私も持っていませんでした。法隆寺の境内も今のようにバリアフリーのスロープなどなく、消防ポンプを運ぶのに、石段の所で何人もの消防団員が「よいしょ、よいしょ」と担ぎ上げていました。

 数年後、NHKの記者として法隆寺を訪ねた時、お坊さんの1人に聞いてみました。「壁画の焼損を悼むような法要はされないのですか」。「特にはない」という答えでしたが、その後、今の「自粛法要」(注3)が営まれるようになりました。NHKはラジオで全国に報じました。それがきっかけかどうか、1月26日の金堂炎上の日が文化財防火デーになったのです。(聞き手 編集委員・小滝ちひろ)

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 注1 当日の法隆寺の日記には「早朝六時 □分頃修理工事事務所の『サイレン』鳴る 普通の鳴らし方にも非常警報の鳴らし方にも非(あら)ず 然(しか)る処(ところ)金堂出火の報あり 貫首(管主)以下一同打(うち)驚き遽(あわただ)しく伽藍(がらん)に走り到(いた)る……」とある。

 注2 1867年、法隆寺村(現斑鳩町)に生まれ、10歳で得度。1903~50年に法隆寺住職(管主)を務め、52年病没。

 注3 法隆寺によると、55年1月に焼損壁画がある収蔵庫を一山の僧侶が参拝。59年の日記に「金堂壁画焼損追憶自粛法要が営まれた」と記されているという。

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 〈おおた・しんりゅう〉 1932年、斑鳩町生まれ。法隆寺の東の浄土真宗誓興寺住職、龍谷大客員教授。元NHKの文化財担当記者で、主な著作に「まほろばの僧 法隆寺・佐伯定胤」(春秋社)=後に「新・法隆寺物語」(集英社文庫)、「高松塚への道」(草思社=構成担当、網干善教著)など。

■火災・地震への備え急務

 日本の文化財建築は木造が多い。当然、火災のリスクは高くなる。都市部から離れ、昼間以外はあまり人通りのない場所も多く、放火に遭いやすい条件も抱える。実際、戦後の文化財火災をみると、金閣や延暦寺のように放火が目立つ。

 火災が発生したら屋根や外壁に延焼防止の水幕をはる「ドレンチャー」や消火用の放水銃などが、国宝・重文の社寺を中心に整いつつある。

 しかし、これも一度備えたら万全ではなく、メンテナンスが欠かせない。世界遺産の奈良・唐招提寺は、約20年前に設けた境内の消火設備を更新中だ。鉄製の導水管を地中に埋めていたが、大地震で割れる恐れがあるため、割れにくいポリエチレン管に替える。

 大きな揺れがおさまって電力供給が再開された時に火花が散って起きる「通電火災」の危険性も指摘される。この対策はまだ進んでいないし、参拝者・観光客の避難の検討も必要だ。

 法隆寺金堂の焼損壁画についても、震災への備えをどうするかが課題。収蔵庫は1952年完成で、壁画が収められたのは55年。60年以上経ており、12月に発足した「保存活用委員会」が調査を進める。(編集委員・小滝ちひろ)