3.東国への進出

▶︎東国への進出

文治二年 (1186)の静岡・願成就院諸像以降、運慶が生涯を通じて東国御家人の造仏に起用されたことはよく知られている。一方で、東国に所在する、あるいはかつて伝来した確証ある快慶作品は、二件が知られるにすぎない。ひとつは、先にも触れた耕三寺阿弥陀如来坐像(静岡・伊豆山神社旧蔵)で、像内銘記及び「走湯山上下諸堂目安(下図左)」により、建仁元年(1201)に伊豆山常行堂の像として京都で道立され、五年後の建永元年(1206)に下常行堂の再興本尊に迎えられたことがわかる。伊豆山神社にほど近い逢初(あいぞめ)地蔵堂に客仏として伝来し、静岡・伊豆山浜生協会の有に帰した二躯の菩薩坐像(下図右)は、耕三寺像ともと一具をなしていたとみてよく、常行堂本尊の阿弥陀如来像に随侍する四菩薩(法・利・因・語)のうちの一軀が残ったものと考えられる。

 

いまひとつは、栃木・真教寺(しんきょうじ)の本尊阿弥陀如来立像(下図左)で、像内頸部に 「(アン)阿弥陀仏」の墨書があり、快慶無位時代の作とわかる。寛文十一年(1671) に真教寺の理真上人朗安であったことから (『鑁阿寺樺崎縁起(かばさきえんぎ)并仏事次第』)、ここに快慶と足利として修理を受ける以前の伝来は不詳ながら、近接する鑁阿寺の開山が伊豆山の僧」とのつながりを想定する説がある [山本1986]。

このように、地域を隔てた東国所緑の二軀の快慶作品は、伊豆山という要衝(ようしょう)で結ばれる。

快慶が伊豆山と接点を有した契機のひとつには、源延(げんえん・1156〜?)や聖覚 (せいかく・1167〜1235)ら天台僧との関わりがあったとみられる[青木2003]『日本宗教文化史研究』、古幡2005]。はやく延暦寺に人った源延は、澄憲に師事して顕密二教を一極めたといい(『本朝高僧伝・ほんちょうこうそうでん』)、また熱烈な浄土教家でもあった。その後、建久八年(1198)ごろからは伊豆山の堂舎の再建を主導する権限を有したらしいことなどから、同年十一月に炎上した下常行堂の再興本尊、すなわち耕三寺像の造立と伊豆山への奉安にも源延の関与があった可能性を考えてよい。

 澄憲(ちょうけん)の子息で、やはり説法で名を馳せた聖覚(しょうかく)も、伊豆山と接点を有したことが知られる。建保四年(1216)には中堂と法華堂の供養導師を務めたが、それにもまして重要なのは、当時延暦寺桜本門跡領として、聖覚が伊豆山と箱根山を支配する立場にあった事実である(『門葉記』勤行二)。このことは、澄憲を祖とする安居院流の東国への展開をものがたるとともに、伊豆山がその一拠点とされたことを示唆している。快慶は、建久三年に醍醐寺弥軌菩薩坐像1を手がけて以降、生涯にわたり信西一門の造仏の主要な担い手となるが、澄憲(信西息)の弟子源延や子息聖覚が関わった伊豆山における下常行堂本尊の造立も、快慶による信西一門関係の事績ととらえうる。

真教寺像について、江戸時代の住持了獄 (?〜一七五九)が著した『助戸山真教寺(下図左・現在地)縁起』は、鑁阿寺開基の足利義兼(あしかがよしかね・?〜1199)の護持仏と伝える。

 

護持仏の斗具偽はともかく、造像当初より足利の地にあり、鑁阿寺(上図右)所縁の像とすれば、足利氏は運慶に二軀の大日如来像(東京・真如苑像及び栃木・光得寺像)を造立させたのとほぼ同時期に、快慶も起用したということになる。初期浄土宗の東国への浸透を背景に、このころすでに多くの三尺阿弥陀を手がけていた快慶を足利氏が選択したとすれば興味深い。

 

真教寺と同じ栃木県の芳賀郡益子町上大羽に位置する地蔵院(上図左)には、快慶無位時代の作風に通ずる観音菩薩坐像・勢至菩薩立像(上図右)が伝わり、脇侍に立像と坐像を組み合わせる形式の最初期例と位置づけられる。地蔵院の前身である尾羽寺を開創した宇都宮(ともつな)朝綱(1122〜1202)は、東大寺再興で覚と快慶が担当した大仏脇侍観音菩薩像の造立を助成しており(『東大寺続要録』造仏篇45)、快慶派が東国御家人の這像に関わったことを具体的にしめす遺品として見逃せない。

————–45—————–

また、これに関連して神奈川・教恩寺阿弥陀如来及び両脇侍像(上図)は、かつて鎌倉幕府の中心だった地域に伝わることから、詳細不明ながら東国御家人に関係する像かと想像される。来迎印を結ぶ阿弥陀如来を中心に、観音菩薩と勢至菩薩がともに腰を屈めて立ついわゆる三尊立像形式は、承久三年(1221)ごろ快慶作の和歌山・光臺院阿弥陀如来及び両脇侍像 (下図左)が現存最初期の遺品であることから快慶により完成されたと考えられ、以降、来迎形阿弥陀三尊の一典型とされた。作風や着衣形式から教恩寺像を快慶無位時代の作とみるむきもあるが[大澤2010]、その作行や来迎形阿弥陀三尊の形式変遷のなかに置いたとき、無位時代までさかのぼらせうるかが問題となろう。

 

なお、現在の静岡県下には、快慶派の作品としてほかに鉄舟寺菩薩坐像(上図右)新光明寺阿弥陀如来立像54がある。鉄舟寺像については、ふくらみの強い面相や髻頂(けいちょう・もとどり)髪束(かみづか・髪を束ねた部分)を大きく華やかにあらわすの髻の形式に、安倍文殊院文殊菩薩騎獅像など無位時代の快慶作品を想起させるところがある。鉄舟寺がもとは久能寺と称する有力な天台寺院だったことや、この寺に制作当初から伝わったとみるむきもある久能寺経に信西が探く関わったことからすれば、鉄舟寺像にも信西一門ら天台僧の関与を想定しうる。

 新光明寺像(上図・左右)強さのある顔立ちや肩に紐をあらわす袈裟の着方は、「巧匠(アン)阿弥陀仏」銘の奈良・西方寺阿弥陀如来立像(81)と共通する。一方で、襟の左右二箇所に衣のたるみをつくる形式は、建暦二年(1212)の京都・浄土宗阿弥陀如来立像(62)幻以降、快慶晩年期の作と共通する。したがって、快慶派の仏師が無位時代の作風を強く意識しながら、建暦二年ごろ以降に制作したといちおう考えられるが、頭部内の玉眼の押え具かとみられる蛇腹状の装置や、胸部に納入された五輪塔の形式は快慶無位時代の作品に類例があり、制作年代についてなお検討の余地がある。『御湯殿上日記』には、天文十一年(1542)に「駿河新光明寺某」が知恩院僧とともに宮中に参内して香衣(こうえ)を申請したとあり、新光明寺像が当地に伝来した背景に京都との交流があったかと想像される。