誰が描いたのか・・・・作者論争諸説
一、鳥羽僧正覚猷
『鳥獣戯画』 の筆者には江戸時代から覚猷が擬せられている。覚猷(かくゆう)は鳥羽僧正の名で知られる天台宗の高僧である。一〇五三年(天喜元)大納言源隆国(みなもとのたかくに)の子として生まれた。四天王寺別当のあと、三井寺(園城寺)に法輪院を開き、そこで二十数年間密教の研究に没頭、図像の収集につとめる。晩年は鳥羽上皇の信任厚く、七十人歳で権僧正となり、七十九歳で鳥羽離宮内の証金剛院に任した。鳥羽僧正の呼び名はこれに由来する。八十二歳で大僧正となり、八十六歳で天台座主になるが、山門大衆の反対にあい、たった三日で辞任、二四〇年(保延六)八十八歳の高齢で亡くなっている。
このように当代の高僧でありながら、覚猷は絵の名手として評判が高かった。晩年の一二二〇年(大治五)、鳥羽御堂(勝光明院)の扉絵制作を依頼されたが、老齢を理由に辞退し、かわりに絵仏師頼俊が命じられたことが『長秋記』にみえる。彩色法にも通じていたらしいが、当然のことながら、白描図像の転写にも長けていたであろう。だが残念ながら、現在覚猷の真筆として知られている作品はない。醍醐寺には、鳥羽僧正が写したものとの鎌倉時代の極め善がある『不動明王図像』(第30図)があるが、覚猷の自筆とみるには筆致に問題がある。
そのほか鳥羽僧正筆と伝えられる多くの白描図像についても同様である。
『鳥獣戯画』 の筆者を覚猷と伝える文献は、十七世紀半ば、住吉如慶が『住吉模本』 の外題に「鳥羽僧正草筆」と記しているのより、さかのぼりえない。それ以前には、『伴大納言絵巻』および『年中行事絵巻』の一部の筆者と見なされる宮廷絵師常磐光長とされていたむきもある(参梨。だが覚猷は次に述べるように戯画を得意としたと古くから伝えられ、それがかれを『鳥獣戯画』の筆者とする説の由来となつているのである。
十三世紀半ばの『古今著聞集』巻第十一には、「鳥羽僧正は近き世にはならびなき絵書なり 法勝寺金堂の絵書たる人なり」という書き出しで供米(くまい)の不法を風刺したかれの戯画のエピソードを伝えている。それは、突風が吹くと米俵がみなふわりふわりと空中に舞い上がり、大童子(年かさの寺童子)や小法師が走って取り押さえようとするのを、さまざまにおかしく筆をふるって描いたもので、上皇がご覧になっておもしろがられ、僧正にその訳を尋ねると、俵の中に糠槽だけ入れて供出するからそのようになるのだと答え、以後供米の不法は取り締まりが厳しくなってやんだというのである。寺領からの供米のごまかしに困りはてた僧正が、戯画という笑いの手段による訴えで、巧みに目的を遂げたわけである。
『古今著聞集』 にはまた、次のような挿話が載せられている。
鳥羽僧正のもとで絵を描く侍法師(付き人の僧)が、師に負けないくらいうまくなってしまった。このことを僧正はねたましく思っていると、あるとき侍法師が自分の描いた絵を自慢そうに人に見せている。見ると二人が腰刀で突き合っている喧嘩の絵で、ひとりの突いた刀が相手の背中に拳ごと突き出てしまっている。得たりと僧正がそれを咎(とが)めると、侍法師いわく「昔の名人の描いた『おそくづの絵』を見てください。『その物』の寸法は分に過ぎて大きく描いてあります。実際には決してない大きさでしょう。実際の寸法で描けば見どころがなくなるから『絵空事』というのです。あなたのお描きになるものにも、そのようなことはよくあるでしよう」
それで僧正は「理に折れて」黙ってしまったという。ここでいう「おそくづの絵」とはポルノグラフィーのことである。
もうひとつの文献もまた、きわどいものである。それは、天台宗黒谷青龍寺の僧光宗(こうしゅう)の録した『渓嵐拾菓集(けいらんしゅうおうしゅう)』の一端本(文保二年〔一三一八年〕の年紀あり)のなかにある「異形不動事」という記事である。光宗はここで、師の語るところとして、鳥羽僧正覚猷が在世のあいだ描いたという、奇妙な不動尊のことを伝えている。
そのひとつは、不動が勢多伽童子(せいたかどうじ)を「合宿」すなわち同会して「出世振舞」をしている図である。「出世」とは、叡山などで公卿の子息の出家したものを指し、それが高位に昇ることが早かったため「立身出世」の語の由来とされる。この図はおそらく、不動尊にかこつけて「出世」の性的蹂躙(じゅうりん)を風刺した「おそくづの絵」的なものであったと思われる。
その二は、「世間人」のような相貌をした不動尊が廓に入って下痢をもよおし、二童子がそばで鼻をつまんでいるところ、
その三は、「全体女形」という不動尊。その四は不動が剣を肩にかついで走って行くのを二童子が追いかけるところである。
これらのうち、第四の不動に関しては「走り不動図」といわれるものが現に鎌倉時代の仏画にあり、同じように剣を肩にかついで走っている。走る不動とは矛盾した表現だが、これには天台の教えに関するなんらかの寓意があるとみられ、天台の学僧である覚猷自身の発想に由来するものとしても不思議はない。
そのほかの鳴呼狼籍(をころうぜき)なる変形不動に関しては、侍法師との珍妙な「おそくづの絵」問答ともども、はたして実際の覚猷(かくゆう)に関係するものかは疑わしい。『鳥獣戯画』の「をこなる度合い」が甲巻から十三世紀半ばの丁巻に至る過程で加速し、マンガに近いものになつたことはすでに見たとおりだが、「異形不動」は、このころの天台僧の手すさび(手遊び)に、鳥羽僧正の名が冠されたのではあるまいか。ともあれ、鳥羽僧正が戯画を得意としたという伝承には、十三世紀半ばあるいはそれ以前にさかのぼる根深いものがあり、それは、おそらく事実に根ざしたものだろう。江戸時代には「鳥羽僧正」は戯画の絵師の代名詞となり、「鳥羽絵」と名付けられた漫画本も出版された(第31図)。
「トバエ」は漫画を意味する言葉として大正時代まで使われた。なお、「おそくづの絵」がずいぶんと登場したが、日本人にとってはキリスト教国におけるような、性それ自体を罪悪とみる観念は、縁遠いものだった。日本人の性観念についてその特色をひとことであらわすならば、「自然さ」ということになろうか。とくに、古代社会における性は、きわめて自然なものとして受け止められていた。『今昔物語集』 や『古今著聞集』のような説話文学には、驚くほどあらわな性描写がみられ、性が「をこ」の笑いの道具だったことを物語っている。こうした風潮のなかから、「おそくづの絵」(偃息図の絵)と呼ばれるポルノグラフィーも流行したのだろう。
二、定智
定智(じょうち)は生没年不明だが、覚猷(かくゆう)と同じ時代に活躍した絵仏師で、字を長覚房、帥上座(すけのじょうざ)とも称される。最初は三井寺にあり、法輪院で覚猷のもと図像の模写にあたった。高野山に移り、二三二年(長峯空大伝法院の壁画を描いた。金剛峯寺に伝わる雨乞いの修法のための『善女龍王像』(上図左)は、もとあった裏書きの記録から、一一四五年(久安元)の定智の作とわかる貴重な遺品で、雲に乗る龍神を中国の宮人の姿であらわしている。剥落が激しく厳しい墨の描線があらわれているが、その描線や、わく雲の写実的な表現に、新来の宋画の影響が指摘されているのは注目してよい。
このような厳格な本格的仏画を描く定智が、『鳥獣戯画』の筆者候補になぜかかわるのかというと、それは一方で、対照的な「をこ」の絵巻の筆者とも目されているからである。
「勝絵(かちえ)」と呼ばれる十二世紀の絵巻がある。原本は失われて、何種類もの模本が残るが、どれも内容は公開をはばかられるような尾籠(びろう)なものである。二つの部分からなり、前半は「陽物競べ」、後半は「屈ひり競べ」である。「絵空事」の誇張を極限まで発揮した、抱腹絶倒の光景が展開している。平安時代に流行した多種多様な物競べ、技競べの極めつけ、パロディである。模本のうち、個人蔵の一巻とサントリー美術館所蔵の一巻(第33図)とは、ともに室町時代を下らないすぐれたものである。
個人蔵本には前半・後半とも写されており、これによると、野次馬を追い払う場面に始まる前半は、『伴大納言絵巻』の導入部に似た構成をもち、十二世紀後半の一流絵師の筆を想像させる。後半は、これに対し、『鳥獣戯画』丁巻を連想させるような自由な即興的タッチで、放埒(ほうらつ)な描写を展開する。サントリー本にはこの後半部しかないが、描写の内容はさらに迫力を増している。このサントリー本の奥書に、「定智筆御室(仁和寺)絵本写之、文安六年(一四四九)五月 日」とある。福井利吉郎氏はこの奥書を後崇光院の筆と鑑定し、榊原悟氏は詳細な筆跡鑑定によってその正しさを証明した。
しかし、『鳥獣戯画』を覚猷、定智のうちいずれかの作とすることにも無理があるように思われる。覚猷の筆に帰するためには、かれの没年である二四〇年は少々早すぎる。走智は覚猷より年少であったと思われるし、『善女龍王像』の筆致に宋風が認められるという点などを考慮すれは、甲・乙巻の筆者である可能性は残る。しかし、模本から推測される「勝絵」陽物競べの原本は、宮廷絵師光長の画風を連想させても、絵仏師定智に結びつく要素をまったく示さない。「屈ひり競べ」はおそらく鎌倉・南北朝期のものだろう。ただいえるのは、『鳥獣戯画』甲・乙巻の男性的な筆致と、乙巻の図像による動物の図様が、先にみたように、宮廷絵師よりも絵仏師に近い特徴を示していることである。
十二世紀の密教僧が戯画を描いたという証拠は、高山寺に伝わった玄謹白筆のいわゆる玄澄本図像のなかに、『阿弥陀鉤召図(あみだこうしょうず)』というのがある(第34図)。
阿弥陀がいやがる盲目の僧の首に綱をつけてひつぱるところが、流暢な筆致で描かれている。玄謹(二四六〜一二〇三以後)は、心覚とともに平安最末期にあって図像の収集・整理に生涯を捧げた人である。
「おそくづの絵」「勝絵」といった尾籠な画題にまでは及ばずとも、覚猷(かくゆう)が戯画をものしたことはおそらく事実と思われるし、その周辺にいた定智(じょうち)にも当然のことながらその機会はあったろう。『鳥獣戯画』を絵仏帥より宮廷絵師の筆に結びつける説もあるのだが、私はこれまで見てきたような理由から、絵仏師系の、義清から覚猷へと継承された「をこ絵書き」(漫画)の系譜に属する画僧が主体となつて『鳥獣戯画』が制作されたとみたい。甲巻のすぐれた絵巻的手法も、図像画家にとってさほど学びにくい対象ではなかったであろう。なぜなら、当時の僧正の多くは貴族社会からの「出世」であったからだ。絵仏師と宮廷絵師の仕事の領域が重なり、協力して院の仕事に従事することも少なくなかったようだ。さらに絵仏師の宮廷絵師化により、その表現力が宮廷美術に影響を与えた点も指摘できる。丁巻にさりげなく示された似絵(にせえ)の素養にしても、鎌倉時代の図像作家として知られる信海(代表作は醍醐寺の不動明王像、一二八二年)が、似絵の名手藤原信実の四男であったという事実を思い起こさせるのである。
三、画風の違い
甲・乙巻の作者を、画風の分析により推定する試みも、多くの学者や画家によってなされてきた。見ていくと、特徴的な二人の画家の存在が浮かび上がる。ひとりは第一紙から第十紙までにおもにみられる、塁をたっぷりとふくんだ筆によるのびやかな描線を特徴とし(仮に「水浴の筆者」と呼ぶ)、もうひとりは第十一紙以後におもにみられる、穂先の墨をしぼった筆による切れ味のよい描線を特徴とする(仮に「猿僧正の筆者」と呼ぶ)(第35図)。
上野憲示氏の見解では、「猿僧正の筆者」の描写力の確かさは天下随一で、「水浴の筆者」よりもすぐれているとする。たしかに猿僧正の筆者は、田楽の場面や法会の場面にみられるよぅに、擬人化された動物たちの心理の機微にまでも立ち入る鋭い風刺の目と、それを表現しうる卓越した描写力を持ち合わせている。よりリアルな表現、といってもよい。その点をふまえたうえでなお指摘できるのは、「水浴の筆者」の筆致が、より初発的な自然さと、単純ゆえの力強さをもつということであろう。『鳥獣戯画』のスタイルの創立にあずかった画家として、「水浴の筆者」「猿僧正の筆者」、そのどちらをとるかと問われれば、私は躊躇なく「水浴の筆者」のほうを選ぶ。
私は「水浴の筆者」と「猿僧正の筆者」との筆技の性格の違いを、主と従に結びつけて解釈するより、むしろ画家の世代の前後に結びつけて解釈したい。すなわち、「水浴の筆者」が先発で、「猿僧正の筆者」はそれを、さらに展開させたとみるのである。唐突かもしれないが、「水浴の筆者」の画風は私に『信貴山縁起絵巻』のそれを連想させ、「猿僧正の筆者」の画風は『伴大納言絵巻』のそれを連想させる。もっともこうしたことが、両者の手がけた場面の制作時期の差に必ずしも結びつくとはいえず、仮に差があったとしてもごくわずかであろうが……。
ここで、甲巻の全巻を通じて描かれている秋草についても検討しておこう(第36図)。獣たちの環境に情趣を添え、季節感を与えるものとして秋草の果たしている役割は大きい。相撲の場面に描かれた見事な萩は、とくに有名である。とはいえ、それらの秋草が動物や山水の筆者と同筆かについては疑問が残る。動物や土坂を描く筆線にくらべ、秋草の描写は概して濃い墨による細く繊細な筆致で描かれていて、配置のきぜわ具合も、獣や土彼のゆったりとしたリズムにくらべ息が短くやや気忙しい。甲巻の筆者が二手に分かれるというのに、この秋草の筆致に限って同じ(断簡は別だが)なのも気になる。甲巻の年中行事絵見立てという要素を考えるとき、全巻が秋色で統一されていたのでは具合が悪くはないか。山根有三氏はかつて『芸術新潮』誌上で、これら秋草がすべてのちに加えられたものと大胆な感想をもらされたことがあった。相撲の場面での萩のすばらしい描写までをそうとは断定できないが、秋草が「水浴の筆者」「猿僧正の筆者」とは別の画家によって分担されたという可能性は残る。
乙巻の筆者について上野氏は、その全体に共通する筆癖の特色からみて、「猿僧正の筆者」と同じとする。たしかに、動物の肢体を描出する鋭い筆致、土吸の毅や枯れ木や沼の水草をあらわす筆癖など、乙巻の画風を全体的にとらえれば、その特徴が甲巻の「水浴の筆者」でなく「猿僧正の筆者」の作風に共通することが確かめられ、私も上野氏の見解に同意したい。ただし、牛や馬、鶏などを描く筆敦が細く鋭くいくぶん神経質にみえるのに対し、獅子や青龍などは、うねるような筆の運びで、雄大に表現されている。その筆法には、よくいえばモティーフの性格に応じてそれを変える幅の広さがある、悪くいえば一定しない、という特徴が認められることになろう。それは、ひとつには、この巻の動物モティーフのモデル(粉本)(ふんぽん)がさまざまで一定しないことにもよるだろう。
第四華 甲巻の復元問題
『鳥獣戯画』甲巻が、描かれた当時のままではなく、実際はもっとさまざまな場面があり、順序も現在とは違っていた可能性が高いことは前に述べた。甲巻の本来の姿がどのようなものであったかという問題に、科学的な見地から進展をもたらしたのが、一九七四年(昭和四十九)に発表された上野憲示氏の論文である。
上野氏が、復元の客観的な手がかりにしたのは、甲巻の下辺の全面にわたって残る損傷の跡で、それは、巻を繰るにつれ大きさと間隔が一定の割合で減っていき、ついには第十紙の終わりでゼロに近くなる。これは巻物の角が鼠に食われたような形で欠損していて、その欠損が、第十紙で巻末の軸芯に至っていたことを意味する。上野氏はこれを、『華厳宗祖師絵伝』裏打文書に記録される「天文の焼討ち」の際こうむった火損とみるが、それにしては焼け焦げの跡が全くないのは不審であり、鼠害の可能性も考えねばなるまい。だがいずれにせよ、上野氏の推定するようなかたちでの欠損があったのは事実であろう。すなわち絵巻は第十紙で終わっていたわけで、当然その前半が予想される。上野氏は断簡のうち益田家旧蔵本(断簡2)、高松家旧蔵本(断簡3)とMIHOミュージアム本(断簡4)にも同じ損傷の一部と思われる欠損を見つけ、その大きさと間隔からそれらを甲巻の第一紙の前の部分にあったものと見なし、その位置を数式で割り出した。さらに模本の検討、様式の比較と合わせ、甲巻はもと「損傷を受けない巻(復元A巻)」と「損傷を受けた巻(復元B巻)」との二巻からなっていた、と推定する。甲巻の第十紙までとそれ以後とでは筆者が違うという、先に触れた所見をそれに対比させると、A巻の筆者とB巻の筆者とは別ということになる。
上野氏の推論では、A巻のはじめの場面には祭りの行列が描いてあり、その後半が東京国立博物館所蔵本(断簡1)につながっていた。甲巻第十六紙のはじめの雉の姫君の一行は、じつは田楽踊りでなく、断簡1に続いてこの行列を見物しているところだった、とする。断簡1の画面左端にのぞく点々が、第十六紙の萩の花のこぼれにつながるとするのがその根拠である(第37図)。
これ以後A巻は、長尾模本の順で、相撲、双六盤運び、碁打ち、腕相撲と首引き、走り高跳び、法要、僧僕、僧への引き出物、喧嘩、田楽、蛇出現と続く(*は甲巻第十一紙以後の諸場面)。
一方B巻の前半は、住吉模本競馬巻の順に従って展開する。冒頭の競馬の出走準備から始まり、益田家旧蔵本(断簡2)・高松家旧蔵本(断簡3)の競馬、落馬へと続く。断簡4は住吉模本によるとこの落馬の次に続くことになり、蹴鞠の見物であることがわかる。そのなかの猿が振り返って驚くのは、猿の騎手を失った鹿がこちらへ暴走してくるのに気づいたからである。断簡2の左端に描かれた、樹のもとで何かを見物する動物たちは、じつは蹴鞠を見物していたのであり、そのなかに鶴・亀・家鴨など見慣れない顔ぶれがあるのは、近くの他の住人だからである。その池での舟遊びの情景で住吉模本は終わるが、ここで少し間をおいて、甲巻の巻頭水浴の場面に移り、以下、第十紙の遅刻した兎の射手の場面でこの巻は終わる1。以上が、上野氏による復元論のあらましである。
上野氏のこの復元は、模本、断簡の主題・様式の検討にあわせ、規則的に続く欠損の跡という客観的材料を利用することによって、甲巻二巻復元論に、より合理的な体裁を与えたといってよい。もとは第十紙で終わっていたという推定には賛同できる。
だが、上野氏の説に関しては、議論されるべき点も依然少なからず残る。もと水浴の場面の先の部分にあったと上野氏が推定する断簡2・3・4の筆技は、補筆や料紙の傷みを考慮に入れても明らかに「水浴の筆者」の水準に及ばず、「水浴の筆者」「猿僧正の筆者」より筆技の劣る第三の画家(複数)の存在を想定しなければならなくなる。上野氏の推定に従えば、これら断簡は天文の損傷当時、甲巻のあのすばらしい水浴の場面と同じ巻の前のほうに描かれていたということになるのだが、当初からそうであったとはとうてい考えられない。すでにそのとき錯巻があったのだろうか。
これら断簡に残る欠損の跡が同じときにできたものとしても、それが上野氏の推定のごとく、甲巻第一紙の欠損につながるものか、再考を要する。池での舟遊びの次に山中の谷川での水遊びが続く不自然さにも、留意されねばならない。それよりも、住吉模本のとおり、競馬から舟遊びへと続く甲巻とは別の一巻(当初はもっと長かったものの一部)を想定すべきではあるまいか。
私の上野氏説についての追試は、はからずも甲巻二巷説を、その続巻ないしは補巻ともいうべき、住吉模本競馬巻の原本一巻を加え、
(一)甲巻のはじめから第十紙まで
(二)長尾模本の場面順によるもの(甲巻の第十一紙以後および断簡1はそれに含まれる)(祭りの行列、相撲、双六盤運び、碁打ち、腕相撲と首引き、走り高跳び、法要、僧供、僧への引き出物、喧嘩、 田楽、蛇出現) (*は甲巻第十一紙以後の諸場面)
(三)住吉模本競馬巻の場面順によるもの(断簡2・3・4はそれに含まれる)(競馬、落馬、蹴鞠、舟遊び)
の三巷説に修正する結果となつた。この結果は、「東経蔵本尊御道具以下講取注文之事」にある「シャレ絵三巻」、『華厳宗祖師絵伝(華厳縁起)』の裏打ちの紙の文書にある「獣物絵上中下」の解釈に好都合となる。従来のように戯画とはいえない乙巻を「シャレ絵」に加えなくてもすむからである。ただし三巻を想定すると、そのうち二つの巻(一、三巻)には現在の模本によっても知られないかなりの部分があったとみなければならない。それは大いにありえたこととはいえ、復元の問題はそこでゆきどまりとなる。
結び
以上、『鳥獣戯画』 をさまざまの角度からみてきた。しかしそもそも 『鳥獣戯画』 がどのような意図で描かれたかということに定説はない。これに対し掘り下げた検討を加える余裕はなく、感想を加えるにとどめたいが、深読みをせずとも、動物劇のかたちを借りた世相の風刺、しいては人間存在の愚かさに対する嘲り、というこれまでしばしば行われてきた解釈は、必ずしも誤りではあるまい。法会の場面で、猿の導師の読経を受ける蛙の仏像は、みるからに笑いを誘う。人間の姿をさまざまな奇怪な形に変容させて超越性を示そうとする仏像の仕組みの矛盾が、蛙の代役によって、はしなくも露呈されているようにもみえるのだが、それはことによると画家が意図したものかもしれないのである。
しかし『鳥獣戯画』 の世界はそのような詮索を無駄と思わせるほど無邪気で明るい笑いに満ちている。そして『鳥獣戯画』が現代人の私たちの心をこんなにも強くとらえることが、日本美術に、さらには日本文化に通底する「遊び」という特質の普遍性を物語っている。
日本文化と遊びとの深いかかわりについては、ホイジンガの 『ホモ・ルーデンス』 から示唆を得た。日本人はユーモアを解さないとよく外国人にいわれる。たしかに日本人の生活態度には生真面目すぎるところがあるようだ。だがホイジンガは、一見、真面目くさった日本人の生活態度の真に、豊かな遊び心が隠されていると指摘した。これは美術に例をとると腑に落ちる。「遊び心」すなわち英語でいうplayfulnessである。アメリカの著名な日本美術研究家シャーマン・リー氏は著書『日本の装飾様式』のなかで、十六世紀の画家雪村の水墨画について次のように説明する。
「彼の筆致はそれ自体が目的となつており、それがわれわれの眼を喜ばせ楽しませるプレイフルネス (playfulness)をつくりだしている」
この説明は、『鳥獣戯画』の線の遊戯にもそのまま当てはまらないだろうか。playfulnessという言葉は、岡倉天心もその英文の著書『東洋の理想』のなかで、同じ雪村の絵に対して用いている。このプレイフルネスはたんに禅に由来するというより、もっと古く縄文時代から現代に至るまでの、日本の造形の基底に流れる要素のように私には思われる。日本人の日常の生真面目さの裏に隠された旺盛な遊び心が、美術に絶好のはけ口を見つけてきたのだ。
日本美術の活力の大きな源は、疑いなくこの遊びの精神にある。このような遊戯性の系譜が、従来あまり正面きってとりあげられなかったのは、自国の伝統のなかに、精神的次元の低い、フマジメなものの存在を認めたがらない日本人の心理に関係することかもしれない。しかし、美術に生活の慰め、快活な笑いを求める日本人の心は、おそらく変わっていないだろう。最近の日本における漫画やアニメーションの隆盛に関して、知的水準の低下のあらわれとして嘆く人も多いが、私はむしろそこに、『鳥獣戯画』を生んだ日本の芸術的伝統の血脈を感じるのだ。