大遣唐使展

■遣唐使 その光と影・・・奈良時代を中心に

稲本 泰生

 アジアの超大国・唐に向け、舒明天皇(じょめいてんのう)二年(六三〇)に初めて派遣されたわが国の公式使節団・遣唐使は、前史をなす遣隋使を含めると、三百年近い歴史をもつ。平城遷都1300年を記念して行われる「大遣唐史展」は、国内外から約二六〇件の関連文化財を壷に集め、その全容を紹介する初の試みである。

 遷都1300年祭のメーン会場では遣唐使船の復原展示が行われ、また本年開催の上海万博でも、遣唐使船が再現されると聞く。遣唐使船は古代日本の国際性を象徴する存在として、さらには日中交流の代名詞として広く親しまれているが、彼らが命を賭して唐からもたらした情報は文化のあらゆる領域に及び、わが国の成長の原動力となつた。その歴史には私たちを惹きつけてやまない無数のドラマがあり、東アジア史の縮図が示されている。

 遣唐使について語るべきことは余りにも多く、また筆者はその任にたえる者ではないが、小論では奈良時代の入唐留学者を代表する吉備真備きびのまきび・六九五~七七五)玄昉(げんぼう・?〜七四六)の生涯にまず目を向けることとし、本展の内容紹介を交えつつ、奈良時代を中心とする遣唐使の概略とその歴史の意義へと稿を進めていきたい。なお遣唐使の回数については諸説あるが、本展では便宜上、計画のみに終わった回きも算入する二十回説を採用したことを予めお断りしておく。

▶︎真備伝説の虚実

 今回久々の里帰りが実現した平安絵巻の傑作「吉備大臣入唐絵巻」(ボストン美術館)の主人公・吉備真備は養老元年(七一七)、平城遷都後初めて派遣された第九次遣唐使に加わって阿倍仲麻呂六九八、一説に七〇一〜七七〇)・玄昉らとともに入唐し、四門学(唐の学校)の助教・趙玄黙(ちょうげんもく)を師として学んだ。真備十七年間に及ぶ在唐生活を経て第十次遣唐使の船に便乗し、天平六年(七三四)十一月に帰国、翌年三月に平城京に戻った。

 「続日本紀』には、真備が帰国後に献上した品々が列挙されている。煩を厭わずその全てを掲げる吾ば、①『唐礼』百二十巻、②『太珩暦経』一巻③『太珩暦立成』十二巻、④「測影鉄尺」一枚⑤「銅律管」一部、⑥「鉄如方響写律管声」十二条、㈯⑦『楽書要録』十巻、⑧「舷纏漆角弓」一張⑨「馬上飲水漆角弓」一張⑩「露面漆四節角弓」一張、⑪「射甲箭」二十隻、⑫「平射箭」十隻、となる。①は唐の儀礼、②~④は暦書と天文観測具、⑤〜⑦は楽器と楽書、⑧〜⑫が弓と箭。その内容は中国の士人が修めるべき六芸のうち、礼・楽・射の三領域をカバーするものだが、他に「日本国見在書目録」にも、真備将来の典籍「東観漢記」が記載されている。「旧唐書」東夷伝日本国条には真備が「得る所の錫賓(しらい)、尽(ことごと)く文籍を市(か)い、海に泛(う)かんでいるんで還る(唐からの賜り物を全て漢籍の購入に充て、持ち帰った)」といい、これら以外にも膨大な書物を将来したと推定される。真備と往復の行を共にした玄昉は、五千余巻もの仏典と仏像を将来しているが、真備の留学の成果もそれと比べて遜色ない、中国的教養の全般にわたるものであったと考えてよかろう。

 「吉備大臣入唐絵巻」には、唐における真備(まきび)の超人的な活躍ぶりが、見事な筆致で活写されている。使節として赴いた真備を唐側は亡き者にしようとし、様々な難題をもちかけるが、唐土で死んだ阿倍仲麻呂が変じた鬼の助けを得て危機を切り抜ける、というのがその内容である。詳細は本書谷口論文を参照されたいが、史実とかけ離れたこの荒唐無稽な物語に示されている図式は「日本人対中国人」であって、「日本文化対中国文化」ではない。絵巻の中の真備は『文選(もんぜん)』や囲碁など、中国文化の精髄と称すべき部門で中国人を打ち負かす。その姿はもちろん虚像だが、後世の人々が『続紀』の卒伝に「経史を研覧し、該(ひろ)く衆芸に捗る」と評された真備に仮託して、「本国人を凌駕するほどの、中国的教養の万能選手」という理想の人物の存在を夢見たことが、その背景の一端をなしているのであろう。そこには普遍的な価値をもつ唐の文化に対する日本人の強い憧れの念と、遣唐使に投影した願望とが屈折した形で、しかしとても軽妙な形で立ち現れている。

 下級宮人の子として生まれた真備は、遣唐使に参加することで立身出世を遂げた人物の代表格であり、その実像も稀有の英雄である。帰国後の真備は大学助として学生達に精力的に諸学を教授するなどし、天平十五年(七四三)には春宮(とうぐう)大夫春宮学士に任ぜられ、阿倍内親王(あべないしんのう・聖武・光明の娘、皇太子。後の孝謙・称徳天皇)に儒学・歴史などを教授するに至った。内親王との師弟関係は、その後の真備の生涯に大きな影響を及ぼすことになる。

▶︎真備の第二次入唐

 天平勝宝四年(七五二)四月九日、東大寺大仏の開眼倶養が盛大に執り行われた。天平八年(七三六)第十次遣唐使の帰国船に便乗して来朝したインド僧菩提倦那(ぼだいせんな)唐僧道璿(どうせん)らが重要な役割を演じ、国際色あふれる楽舞が奉納された。遣唐使の伝えてきた文化がわが国で蓄積され、大輪の花を咲かせた瞬間であり、仏国土が現出したかのようなその光景は、想像するだけで胸躍るものがある。かつて入唐した者たちも、わが国の成長を誇りに思い、自信を深めたことであろう。当日奉納された芸能は宮廷伝来のもの、国内の被服属者のもの、諸外国のものという順で上演され、この同心円的な空間の広がりに「天皇を中心とする帝国の支配構造を視覚的に示す」という意図が込められていたとの指摘がある

 この年、藤原房前(ふささき)の第四子・清河(きよかわ)を大使とする第十二次遣唐使が出発した。真備は大伴古麻呂と共に副使として使節団に加わり、二度目の入唐を果たした。三月三日に一行は朝拝、閏(うるう)三月九日に天皇は副使以上を内裏に召し、大使は節刀を賜った。旅程は詳(つまびら)かでないが、平城京を出たのはこの直後とみられ、真備は大仏開眼の場にいなかったと考えられる。

 一行は年末までに長安に到着したが、ここで東アジア外交史上に残る事件が発生した。翌年元日、大明宮含元殿で行われた朝賀の儀式における、新羅との席次争いである。この時新羅が東側の第一位の座を占め、大食国(アッパース朝イスラム帝国か)の上位におかれたのに対し、日本は西側で吐蕃(チベット)に次ぐ第二位を与えられた。副使古麻呂新羅が日本朝貢国であることを理由に猛然と抗議し、その主張が認められて順位が改められた。かかる生々しい外交上の軋轢もまた、遣唐使の真実を伝えるものである。その前後の国際情勢は後述するが、遣唐便が単なる文化使節でなく、国の代表としての重責を担う存在だつたことは、強調しておく必要があろう。ともあれこの使節団は立派に任務を遂行したようで、唐皇帝・玄宗は日本を「有義礼儀君子国」と賞賛し、御製の詩を与えた。

 

 真備は長安の地で、阿倍仲麻呂と再会した。この道唐使は鑑真を連れ帰ったことで有名だが、文人として著名な粛穎士(しょうえいし)の渡日も玄宗に要請している。こちらは実現しなかったが、唐の本格的な学者の招請が試みられた唯一の事例として重要であり、仲麻呂と真備がその人選に関与した可能性が高いと推測されている。清河・仲麻呂らの第一船が帰国できなかったのに対し、古麻呂・鑑真らの第二船は薩摩国に、真備と普照(鑑真招聴に尽力した僧)らの第三船は紀伊国に到着し、真備は鑑真の入京時に勅使を務めた。

▶︎一行禅師の事蹟と真備・玄昉 

 

 ところで真備が一度目の帰国時に将来した大衍暦(だいえんれき)は、唐で開元十七年(七二九)に採用された当時最新の暦である。大衍暦は僧・一行(いちぎょう・六八三〜七二七)が玄宗の勅命で編纂した、中国全土に及ぶ天文測量に基づく精密なものだった。一行は いその死に際して御製御書の碑文を捧げられるほど、玄宗から格別の信任を得た高僧である。一行は善無畏三蔵(ぜんむい・六三七〜七三五)とともに『大日経』を漢訳(一般に開元十二~三年、七二四〜五のこととされる)し、同経の注釈書を撰述した。真言密教の祖師としての側面が強調されがちだが、天台・禅・律などを兼学し、天文暦法など諸学にも通暁した一行は、当時を代表する知の巨人といってよい。開元五年(七一七)、招請に応じて都に来た一行に玄宗が「安国撫人の道」を訊ねたところ、一行は思うところを包み隠さず直言した。以後も鋭い諌言を行っており、二人が強い信頼関係で結びつけられていたことがわかる(『旧唐書』一行伝)。

 注目すべきは、真備と往復の旅を共にした玄昉が将来した五千余巻の仏典中に、いわゆる真言密教の両部大経(『大日経』『金剛頂経』)が含まれていたと考えられる点である。玄妨将来経は『開元釈教録』に基づく一切経であり、天平八年(七三六)光明皇后発願の「五月一日経」の底本となつた。また今日には伝わらないものの、平安前期の日本天台の学匠・安然の『八家秘録』には、玄昉将来にかかる「無畏釈、一行記」の十巻本『大日経義記』の存在が記されている。一行は『金剛頂経』の訳者金剛智(六七一〜七四一)とも関係しており、玄宗御製の碑文(空海『略付法伝』)には、金剛智に「陀羅尼秘印」を学んだとの記載がある。天平勝宝八歳(七五六)に東大寺大仏に献納された聖武夫皇道愛の品々(これが正倉院宝物の濫觴となつた)のリストである『国家珍宝帳』には「金剛智三蔵の袈裟」がみえるが、これもこの道唐使が将来した可能性がある。

 在唐中に玄宗によって三晶に准ぜられ、紫衣を賜ったという玄昉は、唐の宮廷仏教の状況を熟知していたであろう。玄昉の直接の師は法相宗第三祖の智周だが、玄昉が日本にもたらした情報が、空海の時代を先取りする、いわゆる古密教(雑蜜)の枠に収まらない最新の密教に関するものを含んでいたことは確実である。その奈良朝における影響力についてはなお検討を要するものの、あたかも示し合わせて分担したかのように、真備と玄昉が一行の二大業績を持ち帰った事実は意義深い。二人と一行の間に直接交渉があったことを示す史料はなく、全くの憶測に及ぶが、百科全書的な学識を以て皇帝とも渡りぁった一行の如き人物が、真備・玄昉の目に理想の知識人像と映ったとしても不思議はない。真備の妹又は娘とみられる吉備由利称徳天皇のために書写させた「吉備由利願経」の中に、一切経の一部とはいえ『大日経』の古写本が存在することに、深い因縁を感じる所以である。ともあれ二人の将来品を合体させて通覧したときに浮かび上がってくるのは、知識と実践が一体化した、総合的な体系としての中国文化の姿である。実際に習得できたのはその深い森の一部であったとしても、異国の地でかかる体系を身につけようとした彼ら留学者の努力には、やはり強い畏敬の念を覚える。

▶︎真備・玄妨将来の中国文化と奈良朝の政争

 天平九年(七三七)に猛威をふるつた天然痘は、長屋王の変(七二九)以降の国政を担った藤原四兄弟(不比等の子。武智麻呂(むちまろ)・房前・手合(うまかい)・麻呂)の命を奪い、養老二年(七一八)帰国の第九次遣唐使で押使を務めた多治比県守(たじひのあがたもり)も犠牲となった。真備と玄昉は、この後に成立した橘諸兄(六八四〜七五七、光明皇后の異父兄)政権下で頭角を現すが、天平十二年(七四〇)、両名の排除を大義名分に掲げた藤原広嗣の乱が勃発した。広嗣の父・手合(馬養)は、第九次遣唐使で副使を務めた経歴をもつ。値嘉島(ちかしま・五島列島)に逃げた広嗣は捕縛され、唐津で謀殺されて乱は終結したが、唐仕込みの該博な知識を武器に発言力を強めた真備・玄昉は、内乱の火種となるほどの大きな存在になっていた。

 玄昉飛躍の一大契機となった事件として有名なのは、天平九年(七三七)末に聖武天皇の生母・藤原宮子の病を治し、天皇との面会を実現させたことである。長く病んで人事不省の状態にあり、天皇と会うこともなかったという宮子に対する治療法の実態は不詳だが、玄昉ゆかりの「千手千眼経」捲や「仏頂尊勝陀羅尼経」脚が示すとおり、そこに密教的な祈躊が含 しょうまれていたことは疑問の余地がない。玄昉の主要な活動の場は「内道場(ないどうじょう)」(宮中の仏教施設)であったが、唐の宮廷仏教に関する玄昉の見聞は、同所で行われた儀礼も含め、そのあり方を強く規定するものであったに違いない。

 玄昉が唐で得た知識が、聖武天皇・光明皇后夫妻が推進した国分寺・国分尼寺構想に多大な影響を与えたことは指摘されるところだが、わが国の総国分尼寺にあたる法華寺(法華滅罪寺)の源流を洛陽安国寺の勅建法華道場に求め、その情報の伝達者を先にも登場した洛陽大福先寺の僧・道璿(どうせん)に比定する、注目すべき見解がある。この安国寺は本展出陳の仕女国労が描かれていた墓の主・節怒太子(中宗の第三子) の旧宅の地に造営された尼寺で、正確な年代は不詳だが、開元年間 (七一三〜七四一)に一行の奏請で創建された。大福先寺は『大日経』の訳場であり、道璿一行も学んだ華厳寺普寂和尚を師としている。真備は後に道璿の伝記を著しており、道璿や密教将来に重要な役割を果たした菩提倦那(ぼだいせんな)を加えるならば、仏教学の全分野に跨るかのような一行の事蹟と日本の関係を、より広範な人的ネットワークの中で位置づけることも可能となろう。なお第十次遣唐使で入唐し、後に鑑真と行動を共にする栄叡・普照も、大福先寺で定賓(じょうひん)を師として具足戒(出家僧侶の守るべき戒)を受けた。

 玄昉は天平十七年(七四五)十一月に筑紫観世音寺に左遷され、翌年に死んだ。失脚の真相は詳かでないが、『続日本紀』の卒伝は「栄寵日に盛んにして、棺や沙門の行いに乗く。時の人これを恩めり」と述べる。「皇室に取り入って政界に蚊屈した、俗臭漂う僧」という、玄昉にまつわる悪しきイメージを象徴する言葉であり、人々はその死を広嗣の怨霊の仕業と噂したという。しかし玄昉に対する評価は、皆の宮廷仏教の積極的な導入が周囲の誤解を生んだことを考慮して下すべきであり、皇室との密接な関係を本人の資質のみに帰することはできないと思う。内道場が側近政治の温床となりやすく、政教間の関係を不健全なものへと導く危険をはらむ場であることは確かだが、玄昉が帰国時に随伴した弟子の唐僧・善意の発願にかかる写経の願文に綴られる師への思いは、玄昉の本来の姿を偲ばせ、心を打つものがある。

 一方真備は、二度目の帰国後すぐに大事府に派遣され、大牢少式、同大式を歴任して十年近く同地にあった。当時権勢を揮った藤原仲麻呂(恵美押勝、七〇六〜七六四)に疎まれたのがその主因とされるが、仲麻呂が天平宝字二年(七五八)に擁立した淳仁天皇の一派と孝謙上皇・道鏡(七〇〇?〜七七二)らの一派が対立を激化させる中、真備は上皇側によって同人年(七六四)に道東大寺長官に任ぜられ、都に戻った。これに先んじて同七年(七六三)八月、真備がもたらした大桁暦への改暦が行われた。真備の中央政界への復帰を可能にしたのはかつて師弟関係にあった上皇との深い杵であったと推定され、この改暦も一連の動きとして、上皇側が主導権を握る際の切り札として機能した可能性が指摘されている。暦は天皇から庶民に至るまでの生活サイクルを規定し、国政の基盤となるものだが、頒布された大桁暦の実物の断片(具注暦断簡)が、宮城県多賀城市・多賀城跡(宝亀十一年=七人〇分)、岩手県奥州市・胆沢城跡(延暦二十二〜三年=八〇三〜四分)、茨城県石岡市・鹿の子遺跡(延暦九年・七九〇)で出土しており、真備の功績がかかる僻遠の地にまで及んだことを物語る。

 ところで孝謙上皇が拠点としたのは法華寺であり、内道場における密教的修法の実践を以て台頭した道鏡のあり方は、かって玄坊と朝廷の間に築かれた関係を、一層尖鋭化したものといえる。真備が平城京に戻った年、恵美押勝(仲麻呂)の乱が発生し、真備は唐で学んだ軍事関係の知識を以て奮迅の活躍をみせた。最終的に真備は右大臣まで上り詰め、宝亀六年(七七五)に波乱の生涯を終えたが、真備・玄防が帰国後たどった道は、留学者を介した唐の文化の導入が、その核心部分で政治の動向と一体とならざるを得ない運命にあったことを示している。また大街暦や『大日経』の輸入にまつわる問題は、真備・玄妨らが修めた学問の先進性を示すと同時に、唐からもたらされた最新の情報が日本で消化され、根を下ろすまでの過程と時間差について考える上でも、重要な示唆を与えるであろう。

▶︎遣虐使節団の構成と旅路 

 『延書式』には遣唐使の構成に関する詳しい記事があり、その規定は八世紀半ばには成立していたと考えられている。使節団の本体は大便・副使・判官・録事の四等官で構成され、史生(書記官)・雑使(庶務)・傑人(従者)がこれを補佐した。訳語(通訳)・新羅奄美等訳語・医師・画師(カメラマンにあたる記録係)のほかにも様々な専門職が同行しており、主神(神職)・卜部(まじない師)・陰陽師といった、いかにも古代の使節らしいメンバーもいる。唐からの文化摂取を使命とする人々には長期留学の留学生・学問僧(彼らには僚従=従者がついた)、短期留学の還学生・請益僧に加え、玉生(ガラス・粕)、鍛生(鍛金)・鋳生(鋳造)・細工生(木竹工)などの技術系留学者があった。乗船者の約半数を占めた船員は、知乗船事(船長)、船師(機関長)、権師(操舵長)などの役職があるが、航海が帆走と人力を併用するものであったため、水手(漕ぎ手)が多い。

 遣唐使船は難波津を出て瀬戸内海を航行し、博多を経て大陸を目指した。七世紀の船団が二隻で半島伝いの北路をとったのに対し、人世紀以降は四隻で (この場合、一行は総勢六百名近い大人数となつた)、五島列島から東シナ海を横断する南路をとった。「肥前国風土記」は、五島経由の航路を明記するきわめて貴重な記録である。なお沖縄など南西諸島を串由して帰国した船も多く、かつては南島路の存在が想定されていたが、これは当初から計画されたルートではなく、南路で信国しようとした船が風に流され、結果的にこの道筋をたどることになったに過ぎない。遣唐使船は台風に遭遇する危険のある夏(現代の暦では8月頃) に多く出発しているが、これは航海知識の欠如に起因する訳ではなく、先に七五三年の事例を紹介した、長安における元日朝賀の儀への参列を第一目的として、日程が組まれたことに由来すると推測されている。

 遣唐使船に関する史料は文献・画像ともほとんどなく、「吉備大臣入唐絵巻」「東征伝絵巻」など平安~鎌倉時代に描かれたものから類推するほかないのが実情だが、最澄の証言から竹を編んだ網代に加えて布製の帆を装備していたことが判明しており、長さ三十メートル、三百トン程度と推定されている。ちなみに慶雲三年(七〇六)年二月、第八次遣唐便の栗田いろう真人が乗った「佐伯」という名の船に従五位下の位が授けられており、第十二次の「播磨」「速鳥」、第十九次の「太平良」にも、それぞれ人格を認めるかのような叙位が行われている。また船員たちはほとんどその名が伝わらないが、第十二次遣唐便の第四船の植師(操舵長)だった肥前国松浦郡の川部酒麻呂が表彰され、外従五位下が与ゝ見られた話はことに強い印象を与える。同船は帰国時に船火事に見舞われたが、酒麻呂は皆がパニックに陥る中、手が焼け欄れても舵を放さなかったという。

 入唐を果たした遣唐使一行は多くの場合揚州に入り、隋代に開かれた大運河を用いて西行し、洛陽を経て長安に入った。遣唐使は全員が都の長安を目指したと考えられがちだが、入京には人数制限があり、実際に長安に入れたのはその一部に過ぎない。なお唐の領域内に入ると、旅費・滞在費は唐側が負担することになっていた。

▶︎日唐間を往来した品物と文化−出陳晶から

 遣唐便船は、様々な朝貢品を積んで唐を目指した。多くは一次産品で(本書二六六頁以下、古瀬論文参照)今日に伝わる遺品はないが、西安市何家村では一般には流通しなかった稀少な銀銭の和同開弥1が出土している。遣唐使が唐に運んだことが確実視される品として価値が高く、贈答品として唐人に珍重されたと推定される。一方唐からわが国にもたらされた品には、唐朝から与えられる回賜品のほかに、唐側から買い付け・持ち出し等の許可を得て入手した品々がある「)遣唐使の中には輸入品の選別を任務とする者がおり、第十六次遣唐使の場合、羽栗翼や小野滋野(ともに後で紹介する)らがその担当者であったことが指摘されている。唐の製品は品質が高く、また長安では外国商人がもたらした多種多様な品物が取引されていた。遣唐便が持ち帰った最高級の工芸品や染織、珍奇な品々はわが国の貴顕を驚喜させたとみられるが、これらは国庫に入れられ、天皇を中心に用いられたと考えられており、ごく限られた人々のみが接することができた。

 遣唐使の将来品は、正倉院宝物と法隆寺献納宝物(東京国立博物館)中に集中的に追っているとみられるが、前者の中では金銀平文琴が唐・開元二十三年(七三五)にあたる年紀をもち、唐の基準作として注目される。後者からは香料である丁子を入れた壷4、白檀香3、栴檀香2などが出展されている。特に二点の香木は唐の広範な交易を背景とする品で、ソグド文字の焼印とパフラヴィ一文字(ペルシアの文字)の刻銘がある。また遣唐使将来の高級品が天皇陵や神社に奉納される場合もあり、正倉院宝物に匹敵する唐鏡の逸品である香取神宮の海獣葡萄鏡脱や、大山舐神社の禽獣葡萄鏡182は、その可能性が高い。

 遣唐使がもたらした品々の中で、わが国の文化に最も直接的な影響を及ぼしたのは、種々の典籍である。真備将来の漢籍や玄妨将来の仏典は先に紹介したが、遣唐使が将来したが故に中国で侠書となった典籍がこの世に残った事例が少なからずあり、本展出陳品では山上憶良将来説がある張文成の伝奇小説「遊仙窟」は嘩「文館詞林」9、「翰苑」泌などを挙げることができる。このうち顕慶三年(六五八)に完成した高宗勅撰の詩文集『文館詞林』は全一千巻の巨冊だが、垂扶二年(六人六)二月に新羅王金政明が使者を遣わして唐の文集を求めた際、同書の「規戒」に関するものだけ抄出して五十巻となし、同国に与えたとの記録がある(『旧暦書』東夷伝新羅国条)。また先の真備の献上品にみえる『唐礼』は顕慶三年(六五八)撰上の『顕慶礼』とみなされているが、開元二十年(七三二)には最新の『開元礼』が頒行されていたにもかかわらず、真備がその二年後の帰国に際して持ち帰ったのは旧札であった。これらについては、唐が典籍の国外持ち出しに一定の制限を加えていたことに起因するとの見解がある。なお「伝教大師将来目録」蓬、第十八次遣唐使の大使藤原葛野麻呂らの署名と「遣唐使印」の朱印わらのかどのまろを備えた現存唯一の遣唐使の公文書としてはかり知れない価値をもつが、本品は最澄が典籍の持ち出しを申請し、これを明州(寧波)の政府が許可した文書の実物であり、唐からの典籍輸入に際しての手続きの実態を伝える点でも重要な意義をもつ。

 ところで盛唐の詩人・王昌齢らが詩文の競作を行う様子を措く「琉璃堂人物図」脹二メトロポリタン美術館)は米国所在の中国人物画を代表する名品の一つだが、空海の著書「文鏡秘府論」加における引用から、昌齢の文学論『詩格』(中国では偽書とされてきた)の価値が再評価されたことも、唐代文化の失われた部分の復原に日本伝世の文化財が貢献した事例として、非常に意義深い。なお唐・聖暦元年(六九人)生まれの昌齢は、阿倍仲麻呂と同世代であり、この画巻は、李自主維ら鐸々たる詩人と交わつた仲麻呂が参加したであろう、当時の文化人サロンの様子を彷彿させる点でも注目すべき存在である。

 本項の最後に、日本絵画の源流を考える1で特に重苦意義をもつ、唐代絵画の優品を、出陳品の中から紹介しておきたい。まず男装の麗人を含む三人の官女を措いた「仕女図」労(節政美子墓)と、小鳥を手に乗せる官女を措く「仕女調鳥囲」聖書邑墓)の二面の壁画(ともに陳西省考古研究院)は、唐の華やかな風俗と宮廷生活の様子を遺憾なく伝える作品だが、 とりげりつじょのびょうぷ特に後者は奈良朝絵画の白眉である正倉院宝物「鳥毛立女屏風」(挿図1)に連なる唐の美人画の様式を示す点で注目すべきであろう。また玄宗の愛馬を墨色のみで描いた韓幹筆「照夜自図」瑞二メトロポリタン美術館)は、中国動物画史上随→の名画として、特別な扱いを受けてきた。筆者に帰せられる韓幹は唐を代表する宮廷画家の一人で、天台僧円仁の旅行記「入唐求法巡礼行記」だも動物画の第大老と記され、第↑九次遣唐便に加わつて入唐した日本人画家・栗田家継がその作品に基づく画作を行ったという記載がある。

▶︎仏教美術の受容

 先にも触れた大仏建立や国分寺・国分尼寺造営事業が端的に示すとおり、遣唐便の時代は、わが国における国家仏教の最盛期でもあった。仏教美術の名品の数々は本展のハイライトともなつているが、特筆すべきは唐・神龍二年(七〇六)銘の観音菩薩立像旛(ペンシルバニア大学博物館)と、これに近い時期に道立された聖観音菩薩立像竺薬師寺)の二尊が並び立つという空前の展示が、所蔵者の格別の厚意によって実現したことである。かつてないほどに国際的な文化状況が生まれた唐代には、インド・中央アジアの要素を取り込んで、「理想的写実」という言葉に集約される、健康的な肉体美を備えた古典的な彫刻様式が開花し、日本の仏像にも強い影響を及ぼした。仏像彫刻の研究史において常に比較されてきたこの二体の観音像は、日唐両国間で継承された仏教文化の不朽の価値を、象徴的に示すに相応しい。当時の人々も目を見張ったであろう両像のみごとな造形と圧倒的な存在感は、大きな感動を呼ぶであろう。

 遣唐使の時代における仏教美術の伝播のあり方を象徴する存在に、天平勝宝五年(七五三)に制作された薬師寺の仏足石ろくやおん(挿図2)がある。その銘には、「唐の使者王玄策がインドの鹿野園(サールナート)にあった仏足跡から取って唐にもたらのほんじつした拓本を、わが国の黄文本実が唐の普光寺で写し取って日本にもたらした。この図は禅院にあり、それからさらに写し取った図に基づいて本品を制作した」旨記される。唐の皇帝はインドに王玄策を三度(貞観十五年=六四一、同二十一年=六四七、顕慶三年=六五人)使節として整退(遣天竺便)したが、ここにいう黄文本実は第七次遣唐使で入唐したとみられ、禅院は第二次遣唐使で入唐して玄突の弟子となった道昭が建立した寺の後身である。

【挿図1】鳥毛立女屏風第三扇 正倉院宝物【挿図2】国宝 仏足亡 暑三三享

 七世紀後半1八世紀初の東アジア仏教美術においては「印度仏像」銘の搏仏・・・・・王蔵(114解説参照、説法印阿弥陀像117~119など、特定の由緒をもつ仏像の形式の反復が頃繁に認められる二これらの制作に際しては薬師寺仏足石の場合と同様に、インド以来の仏教の「正系」が常に意識されていた。奈良時代に入るとこの傾向は弱まるが、当時の仏教美術の伝播の原動力にこうした側面が含まれていたことを、忘れてはなるまい。唐における仏教と中華思想の関係は都管七箇国会∨諏などに顕著に認められるが、インド起源の仏教的世界観・宇宙観と中国を中心とする世界観・宇宙観は常に対立する運命にあり、その相剋と融和が東アジア仏教美術にいかなる影響を及ぼしたかについては、今後も多角的な観点から検討がなされねばなるまい。

▶︎遣唐使をめぐる人間模様

 命がけの旅を敢行した遣唐使の歴史には、多くの成功者の影に遭難者、唐で客死した人等々、悲喜こもごもの物語が無数にある。そのいくつかを紹介しておこう。

 二〇〇四年、西安市東郊における日本人留学生・井真成の墓誌5の出土は大きな話題を呼んだ。真成は唐・開元二十二年(七三四)正月、三十六歳で長安に没し、二月四日に葬られた。真備・玄妨らが唐を離れたのは、同年十月のことである。もし生き長らえていれば彼らととともに帰国したはずで、栄達の道が開けていたかも知れない。千二百年以上、その名すら知られることのなかった真成の悲劇は、遣唐使の影の部分を象徴するかのようである。

 帰国を果たせなかった人物としては、天平勝宝五年(七五三)年に同じ道唐第一船で沖縄まで到達したにも関わらず、大陸に戻された阿倍仲麻呂と藤原清河が代表格だが、二人をとりまく日唐混血児たちの存在も忘れがたい。仲麻呂は真備・玄 山仙/\nノのよー)まろ肪と同期の長期留学生だが、唐で仕官していたため、自身に代えて従者の羽栗吉麻呂を天平六年(七三四)に帰国させた。つばさかける石山寺の「道教経」淵奥書にみえる人名を吉麻呂に比定する説があるが、吉麻呂は唐女と結婚して翼と翔の二男をもうけており、真備・玄妨と同じ船で息子二人とともに帰国した。その後羽栗翔は天平宝字三年(七五九)に第十三次遣唐使の録事として入唐して清河のもとに留まり、終生日本に戻らなかった。兄の羽栗翼は日本到着後、いったん出家するが、のちに還俗して宝亀八年(七七七)に第十六次遣唐使の退居録事として唐に向かい、翌年第二船で日本に戻った。

 帰国時に同船した吉麻呂一家と真備・玄肪は、深い杵で結ばれていたようである。翼の出家に関して、玄妨をその師とみなし、天平八年(七三六)に玄坊に与えられた「扶翼童子八人」の一人だった可能性を認める意見もある。また翼は七七八年の帰国時、唐の宝応元年(七六二)から二十三年使用された五紀暦(『宝応五紀暦経』)を持ち帰った。この暦は天安二年(八五人)に大街暦と併用される形で導入されるまで日本では用いられなかったが、この方面で真備の後継者としての業績を残していることも注目すべきであろう。

 帰国に失敗した清河も、唐女と結婚して娘・喜娘をもうけた。喜娘は第十六次遣唐使の第一船で宝亀九年(七七人)に日本を目指したが、船が真っ二つに折れ、舶にしがみついて天草に漂着した。その後の消息はわからないが、唐招提寺の北にあった浦河の旧邸を済恩院という寺にし、その一部を唐招提寺に寄進したとの説がある。この第一船で遭難し、海中に没した遣唐副使小野石板は、「青丹よし 奈良の都は咲く花の 匂うがごとく いま盛りなり」(『万葉集』) の作者・小野老の子である。遣唐大便は東大寺造営の最大の功労者の一人で、生涯に道東大寺長官を三度務めた佐伯今毛人(七一九〜七九〇)であったが渡航を拒否、一行の最高責任者として渡唐した末の死であった。遣隋便となった小野妹子以来、遣新羅使の小野毛野、遣新羅大使の小野馬養、遣渤海大使の小野田守、・・・・小野滋野ら、小野一族は数多くの外交使節を輩出してきが、「天下無双」と文才を謳われ、第↑九次遣唐副使に任命された小野篁(八〇二~八五三)は渡航を拒否、隠岐に流された。

▶︎日本の外交と新羅・潮海

 日唐二国間の交流という文脈のみで語られがちを遣唐使だが、アジア全体を視野に入れれば、この見方が正しくないことは自明である。『新唐書』所載の唐への朝貢国は日本も含めて実に五↑国にのぼり、「遣唐便」は日本に固有の存在ではなかった。唐の高宗と武則天を合葬した乾陵には諸蕃の像が道立され、また神龍二年(七〇六)の章懐太子墓にも外国からの使者との面会を示す図像がみられるが、皇帝が諸書からの使者を集めて面会する儀礼は、唐の国威と唐を中心とした世界の秩序を内外に示す営為だった。本展では日本の遣唐便を相対化し、その意義を問い直す試みの一環として、当時の国際情勢に関ゎる品々を集めた「外交の舞台」というコーナーを設けた。

 少なくとも律令国家としての体制が整った人世紀以降の状況に照らせば、日本は唐に対し、二十年に一度の朝貢を約していたことが、『唐決』翳記載から判明する。「日本が超大国・唐を相手に一歩も引かず、対等外交を展開した」という理解は、やはり幻想といわざるを得まい。先の新羅との席次争いも、問題となったのは国際社会における日羅問の序列であって、日唐間の関係ではない。余談だが九世紀末には新羅と潮海の間にも同様の問題が元日朝賀に際して発生し、このときは新羅の主張が通った。第十九次遣唐便の場合、唐の開成三年(八三八)↑二月三日に長安に到着し、翌年一月十三日、大明宮麟徳殿で五カ国の「諸蕃」の一国として、二十五名が文宗に拝謁している。このとき日本の席次は、南詔国(三十七名)についで空位であった。ほかに室章国(契丹族の国)の使者一行↑五名もいたという。円仁の記録によると、他国の使節団長は王子で、富肘を授けられたという。なお同じ頃吐蕃国の使者も来朝したという記録があるが、その序列は明らかでない。

 ところで同時代の日本でも、唐に範をとった元日朝賀の儀式が行われていた。先に触れた大仏開眼供養会における芸能の上演順序にこめられた意味も、その延長1に位置づけると理解しやすい〔)人世紀の日本が対外・対内的に蕃国とみなしていたのは新羅と潮海である。両国は一貫して、唐の冊封体制↑にあった。大宝元年(七〇一)元日、藤原宮大極殿で行われた朝賀に うは、蕃夷の使者として新羅使金所毛らが参列した。半島統一をなしとげた新羅がわが国に朝貢した背景には唐に隣接する新羅の国防上の事情があり、新羅経由で唐の文化を受容したい日本の思惑もあって、両国間の関係は良好であった。しかし七二〇年代以降、対等外交を志向する新羅との関係は悪化に向かい、天平勝宝四年(七五二)の新羅王子金泰廉一行吉人の来日は 一時的に状況を好転させたようだが、翌年の長安での席次争いで緊張感が高まった。同年八月に新羅に派遣された小野田守は景徳王(位七四二~七六五)に謁見できず、遂に藤原仲麻呂は新羅征討計画を立てるに至った。この計画は実行には移されな 一つかったものの、当時大宰府にあった真備が恰土城の築城にあたったことも、新羅との関係悪化が背景にある。

 一方、七世紀末に旧高句麗の地域に建国された潮海は、神亀四年(七二七)九月に初めて日本に使節を送り、翌年正月の朝賀(雨天のため三日に順延)に参列、聖武天皇に拝謁した。当時潮海は同国の北に位置した黒水株鞠部の処遇をめぐって唐と対立、七三二年には唐の領土に攻め込み、七三三年には新羅が唐の要請を受けて瀞海を攻撃した。こうした背景のもとで日潮関係はスタートし、延喜↑九年(九一九)まで継続する。この間、第↑次遣唐便の平群広成が天平十一年(七三九)、阿倍仲麻呂の斡旋で潮海経由で帰国している。また天平宝字三年(七五九)派遣の第十三次遣唐使は潮海経由で入唐した唯一の例で、九十九人で渤海に入り、そこから十一名だけが分かれて唐に入った。

 日南間の関係にまつわる逸話は多いが、ここでは三つの話を紹介しておく。第一は唐の大暦十二年(七七七)正月に、潮海の遣唐使が唐皇帝に日本国の舞女十一人を献上したことである。この舞姫については、天平宝字三年(七五九)一月三日に淳仁天皇が潮海便に授けた「宮中の女楽」が、十数年を経て潮海から唐に引き渡されたとする見解がある。第二は延暦二十三年(八〇四)に長安に入った第十八次遣唐使一行のもとに、人質(宿衛)として長安滞在中だった潮海国王子(後の第八代言義王か)が来訪して会談したことで、空海は王子に宛てた大便葛野麻呂の手紙を代筆した(『性霊集』巻五)。この時王子の随員だった王孝廉は延暦五年(八一四)に潮海使として来日、高雄山にあった空海との再会は叶わなかったが、二人は書簡を交わした。孝廉は帰国の途次病を獲て越前国で没し、空海は追悼の漢詩を制作した。第三は貞観元年(八五九)に唐で行われていた『長慶宣明暦経』を潮海使が伝え、同四年に宣明暦への改暦が行われたことである。真備将来の大桁暦の時代はここに終焉し、宣明暦は貞享元年(一六八四)まで使用された。

▶︎安史の乱以降の東アジア情勢 

 唐・天宝十四年(七五五)から広徳元年(七六三)にかけて安禄山とその部下史思明が引き起こした安史の乱は激烈をきわめ、玄宗は萄(四川省成都) への逃亡を余儀なくされた。この未曾有の国難に際し、唐は回絃(ウイグル)の援軍を得て長安・洛陽を奪還した。天平宝字二年(七五人)十二月に遣潮海使の小野田守が潮海の使節楊承慶を伴って帰国し、彼地で得たこの大乱に関する情報をつぶさに報告した。安禄山が「大燕聖武皇帝」という、聖武天皇と同じ名を称したことも含め、この報告はわが国に衝撃を与えた。大事府にあった真備のもとにも、安禄山の侵攻に備えて上策を講ずるよう、勅が届いている。いにっとうたいLし翌年派遣された第十三次遣唐使(迎入唐大使使) の高元度は同四年(七六〇)、粛宗から兵器の材料として半角の提供を依頼された。早速七千八百本が調達され、遣唐使の派遣準備が行われたが、実現には至らなかった(第十四・十五次)。これ以降唐の国力と権威が下降線の一途をたどったことは、束アジア諸国間の関係にも甚大な影響を及ぼした。

 七七〇年代に展開された日本の外交を一瞥しておこう。宝亀二年(七七一)六月、出羽国に到着した潮海使の一行は いちノまんふ/ト三百二十五人に及び、四十名が入京を許された。翌年元日の朝賀で潮海使壱万福は蕃客として列席したが、潮海王大欽茂(位七三七~七九三)の上表文で王が「天孫」を称したことが、日本側の不興を買った。光仁天皇は謝罪を命じ、文を書き改めさせ、非礼を答める内容の勅書を王に送った。

 宝亀九年(七七人)十月、第十六次遣唐使の第三船が唐使・孫興進を随伴して帰国し、その処遇をどうすべきかという問題が発生した。公式の唐使来朝は第一回遣唐使以来、約百五十年ぶりのことで、主に石上宅嗣が応接にあたった。興進とともに帰国した小野滋野は「蕃例に同じ」処遇を行うべきと主張したが、かといって日本の官爵を唐使に授ける訳にもいかなかったであろう。両国の体面を保つべく、穏便にことが済まされた可能性が高いが、この時の日本側の対応については研究者間の議論があり、真相は謎に包まれている。

 宝亀十年(七七九) 二月、日本は第十六次遣唐使の第四船で耽羅島(済州島)に漂着し、島人に略取された遣唐判官うなかみのみかり海上三狩を迎えるべく新羅へ使者を派遣、七月に三狩を帰国させることができた。このとき新羅使が来朝したが、国書を持参せず口頭で新羅王の言葉を伝えたことを光仁天皇は叱責、国書を携えない新羅使の人境を拒否するという通達を出した。

日羅間の公式の使節往来は、結果的にこれが最後となった。

 ところで日本からの遣潮海使の派遣が十三回(うち八回は潮海使を送る送使を兼務)であるのに対し、潮海使の来朝は実に三十数回に及ぶ。潮海産の毛皮は日本で大いに好まれたが、潮海使は人世紀後半には完全に交易を目的としたもと化しており、日本は延暦十七年(七九人) に「六年一員」を提案したが潮海は納得せず、翌年には来日間隔の制限が廃止された。天長元年(八二四)、藤原緒嗣は潮海使を「商旅」と評し、「こんな使いを隣客として過するのは、国益に反する」と断言している (『類衆国史』)。

 九世紀に入るとまず新羅船・新羅商人、ついで唐船・唐商人の来日が目立つようになっていくが、右の潮海使のあり方などは、唐を中心とする国際秩序が大きくゆらぎ始めた人世紀後半の段階で、国家的な公式使節団の時代から、経済活動が主導する交流の時代へという、遣唐使の終焉に連なる動きが、すでに胚胎していたことを物語っていよう。

 以上、甚だ不十分ではあるが、先学の成果によりながら、奈良時代を中心に遣唐使の足跡を振り返った。命を賭して海を渡り、国際社会の舞台に立ち、様々な情報をわが国にもたらした彼らの偉業は、今なお全く色あせることがない。本展に出陳される数々の文化財は、遣唐便たちが駆け抜けた時代の熱気を、蘇らせてくれるであろう。一方で、遣唐便の歴史を通して浮かび上がる当時のわが国の姿は、重い問いを投げかける。一つはその外交姿勢である。わが国は唐に朝貢の礼をとる一方、基本的に国内では「蕃国」とみなすという矛盾した考えを適用して、内外の秩序を保った。こうした史実をどう評価するかという問いへの回答は、各人の日本観・対外施策観を映し出す鏡となろう。

 もう一つは、遣唐使を介してもたらされた文化一般の、わが国における受容のあり方である。唐の文化が圧倒的な質の高さを誇り、狭義の中国文化の枠に留まらない普遍的な性格を備えていたことは、認めるべきだろう。問題は当時の日本人がそこにどのような価値を見出し、どんな態度で吸収したのかという点にある。これを正しく見極めることは、外国からの情報が氾濫する現代において、日本文化のあるべき将来像を模索する際にも、重要な指針になりうると思われてならない。 遣唐使たちの居た場所は、今日の私たちが立っている場所にも、連なつている。

(奈良国立博物館学芸部企画室長)