東アジア都城

■ 漢唐の都城

▶︎はじめに

 漢代以降の都城は、皇帝が居住する宮城(きゅうじょう・天皇のすむところ)、中央省庁や国の重要な施設が集まる内城(皇城)、宮城と内城の外側を囲む外郭城からなる。このうち外郭城はやや遅れて北貌時代に出現する。多くの都城遺跡は国立の研究機関である中国社会科学院考古研究所が発掘調査と研究を継続している。本稿では各都城の概況や近年の発掘成果について概述する。

▶︎(1)都城の変遷 

 都城の出現は遅くとも紀元前1600年頃にさかのぼる河南省偃師(えんし)市にある二里頭(にりとう)遺跡は夏王朝の都とされる遺跡である。その後、殷(商)、周時代にも多くの都城が造営され、中国を統一した前漢の長安城はその版図にふさわしい規模と構造を備えていた。

 つづく後漢時代の都は洛陽にあった。洛陽城魂晋時代北魂時代の都が重複しており、後漢時代の様相については文献史料を中心に研究が進められている。それによると、この都城には新しい特徴が出現している。前漢長安城では、宮城の正殿が南面するにも関わらず、宮城の正門は東にあった東が正門となれば、正殿と正門をむすぶ線は直線にならない。後漢洛陽城になると正門が南に定められ、正殿も正門も南向きに統一されたのである。その正門の南に天を祀る祭壇である円丘を設置した。

 三国魏の曹操(そうそう)が造営した鄴北城(ぎょうほくじょう)は宮城正殿から宮城正門、内城正門が南北一直線に並び、この軸線が都城全体の中心に位置していた。北魏洛陽城では宮城正殿と正門、内城正門、円丘が南北軸線上に配置され、この軸線が洛陽外郭城の中心に位置するという新しい特徴が出現する。また、門基壇の規模による正門の差別化も明確になってくる。北斉鄴南城(ほくせいぎょうなんじょう)では、宮城内城の中枢部が並ぶ軸線を都城全体の中心に位置づけた。闕(けつ・中国で、宮門の両脇に設けた物見やぐらの台)をもつ城門は正門に限定した可能性があり、軸線上の建物の差別化は一層の進展をみせる。

 隋唐長安城は、都城の完成形に至る。宮城、皇城、外郭城の正門をつなぐ軸線は、都城全体の中心に位置し、外郭城正門の南に円丘が位置する。すべての要素が南北方向に配置され、都城全体が軸線を中心に左右対称に設計された。軸線上の正殿、城門、御道は、その規模や構造において明確に差別化をはかっている。隋唐時代の都城は軸線の重要性を強調し、それを視覚的に表現する方法を徹底したのである。

 軸線の重要性を決定づけたのは、儒教における郊祀(こうし)制度の導入である。皇帝の現世的な権力を示す宮城正殿と皇帝の正当性を象徴する円丘を結びつける軸線が、都城においてもっとも重要な部分となったのである(今井2011)。

▶︎(2)漢長安城

 前漢時代の都で陳西省西安市の北郊外に位置する。

 不整形な内城の規模は東城壁6000m、南城壁7600m、西城壁4900m、北城壁7200m、城壁の基礎の幅は16mあり、城外には幅40m前後の凌が巡っていた。内城には計12の城門があり、城門をつなぐ形で道路が通る。内城内には末央宮をはじめとする5つの宮城があり、内城内のほとんどを宮城が占めている。宮城以外の地には貴族、庶民の居宅、市場などが分布していた。

 末央宮は皇帝が常宿した宮城である。規模は東西2150m、南北2250mで、四面に門が開き、中央に宮の正殿である前殿があった。前殿の基壇は南北400m、東西200m、高さ15mである。基壇上には3区画が南北にならび、それぞれ殿と中庭をもつ院を構成していた。基壇付近からは木簡も出土している(劉・李2003)。少府遺跡は前殿の北西430mに位置する。

 少府とは皇家の財政を管理する省庁である。中央に礎石建物があり、北側には中庭、両脇に付属建物を配置する。礎石建物は2棟あり、南棟は7×2間、北棟は5×2間の規模で、いずれも床張りであった。礎石建物の東側に位置する磚敷(せんじき)通路の西には小部屋があり、内壁に石板を貼りつけ表面に漆喰を塗っていた。この小部屋せんじきから「湯官飲監章(とうかんいんかんしょう)」などの封泥が100点ほど出土した。「湯官」とは少府の属官で、皇室の食事を担当する部署である。この内容から少府に関わる施設であるとされている(劉・李2003)。

 中央官署(街)遺跡は前殿の剛80mに位置する。周囲を塀に囲まれた空間には東西2つの院がある。両院にはそれぞれ5〜6の部屋と中庭があった。瓦磚(がせん)類や土器、金属製の戟(げき)や鏃(やじり)が出土したほか、部屋の中からは6万点におよぶ骨製品(骨簽・こっせん)が出土した。その表面には器物の種類、規格、性能、製造者、製造年、修理の目付などが記されていることから、骨製品は各地の官営工房から皇室に納品された製品を管理するための記録(荷札)であり、この遺跡も貢納品を管理する部署と考えられている(劉・李2003)。ただし、この骨製品は弓の両端の弭(ゆはず)であり、この遺跡は皇帝が使用する弓矢を管理する武器庫とする見解もある(佐原2002)。

 桂宮は未央宮の北に位置する后妃の居住区である。奈良文化財研究所は1997〜2000年に中国社会科学院考古研究所と共同でこの宮城を発掘調査した。その規模は南北1840m、東西900m、宵の南端と北端で大規模な宮殿跡を調査した。南端の2号建築遺跡は南北2つの院からなり、両院とも中央に建物を配置し、その周囲に庭を設け、地下室や地下道を備えていた。出土した軒丸瓦(のきまるがわら)の瓦当は巻雲文が主体だが、「千秋萬歳」や「長生未央」、「長生無極」などの文字瓦当も出土した。これらは、漢代の皇后、后妃の宮殿に特有のものである。宮城北端の3号建築は大型倉庫であり、4号建築は建物と中庭からなる院を構成し、ここから王弄が計画した封禅儀式(ほうぜん・帝王が天と地に王の即位を知らせ、天下が泰平であることを感謝する儀式)ための玉牒(ぎょくちょう・ 皇帝の系譜・仏教の経典)が出土した。共同調査では、多量の出土瓦を調査し、その編年と製作技法の研究も大いに進展した。(奈文研2011)。

 長安城の南には儒教の儀礼をおこなう建物群がある。なかでも宗廟と考えられる建物は1400m四方の区画内に11基の小院が配置されている。中心の小院は約100m四方の規模だが、そのほかの院は小規模で構造はほぼ同様である。ここから四神を飾る軒丸瓦が出土した。これらは長安城内からは出土しないことから宗廟(そうちょう)専用の瓦当とする考えも出されている(劉・李2003)。

▶︎(3)北魏洛陽城 

 河南省洛陽市、恨師市にまたがる。この遺跡は西周時代に城壁を造営して以来、春秋戦国、秦、後漢、魏、西晋の各時代に増改築を繰り返しながら北魏時代まで使用された。発掘調査では北魂時代の遺構調査を優先し、それ以前の状況については部分的な調査にとどめている。

 洛陽城は宮城、内城、外郭城からなる。内城の規模は東城壁が3895m以上、西城壁4390m以上、北城壁約3700mあり、南城壁は洛河によって破壊されている。内城には計13の城門があり、一部は発掘調査されている(段2009)。

 宮城は内城の北やや西寄りに位置し、南北1398m、東西660mの規模である。東西の門をつなぐ道路によって南北に2分され、南半部に主要施設が集中する。奈良文化財研究所は2008〜2011年に、中国社会科学院考古研究所と共同で宮城中枢部発掘調査した。宮城の正殿である太極殿は宮城南半部の西寄りに位置する。その真南には宮城正門の閶闔門(しょうがいもん・宮の正門・1号門)が位置し、その間には2号門、3号建物を確認した。(中国社会科学院考古研究所ほか2009・2010)。閶闔門は中央に門があり、両翼に閑をもつ特殊な構造であった。この形は魏晋時代に造営され北魏まで踏襲されていたことが発掘調査で判明した(中国社会科学院考古研究所洛陽漠魂考古故城隊2003)。また、宮城西南隅の調査では、魏晋から北周までの宮城壁の変遷をあきらかにした(中国社会科院考古研究所ほか2012)。中枢部については今後とも共同で研究を進めていくことになろう。

 永寧寺(えいねいじ)は銅駝(どうだ)街の西側に位置する。熙平元年(516)霊太后が造営した洛陽城随一の寺院である。南北301m、東西212mを塀で囲み院を構成し、東・西・南に門が開く。南大門の基壇は東西45・5m、南北19.1mで、ここに7×2間の建物が建つ。西門からは、多数のガラス小玉が出土した。径は1〜3mmで中央に穴をあける。玉の刺繍(ししゅう)で仏像を飾る材料であった可能性がある。

 院中央に塔があり、その北に仏殿(金堂)を配する。文献によると、塔は高さ130mほどの九重塔であった。東西101.2m、南北97・8mの堀込地業(ほりこみじぎょう)上に1辺38・2m、高さ2・2mの基壇を構築する。基壇の外装は石灰岩の切石であった。基壇上には5重にめぐる柱列があり、内側の4量目までは日干煉瓦(ひぼしれんが)を積み上げた塔心で、5重目の柱はその周りをめぐる回廊の柱である。塔が心の外面には壁龕(へきがん・小さな凹面)が設けられ、塑像が置かれていた。共同研究では、出土した塑像と石窟寺院との比較から、塔心の仏龕(ぶつがん)復元を試みた。また、文様のことなる数種の軒丸瓦は、屋根の方位あるいは層ごとに葺き分けられていた可能性を指摘した(奈良国立文化財研究所1998)。この寺院は以後の東アジア諸国における勅願寺院の模範ともなっている(東北学院大学2006)。

 外郭城は西、北、東面の一部を確認したにすぎないが、東西の距離は約10kmにも達する。城壁の地業は幅7〜13mあり、城門もいくつか検出した。文献によれば、この城内には323(あるいは320)の坊(方形の区画)があり、3つの市場が設置されていた。これらは宣武帝の景明2年(501)に造営されたという。市場のひとつである大市は西の外郭城付近にあり、数棟の建物、貯蔵穴や井戸を検出した。この遺跡からはガラス小玉やガラス片、鋳造関連遺物のほか、施釉陶器(せゆうとうき・着色の釉薬をほどこした陶器)や白磁が出土した。その数は100点近くにのぼる。これらは北魂後期のものと考えられている(中国社会科学院考古研究所洛陽漠親政城隊1991)。近年、内城内からも施釉陶器や白磁がまとまって出土したが、時期は北朝後期に下るという(中国社会科学院考古研究所洛陽漠親政城隊2005)。これらは唐三彩に至るまでの施釉陶器の変遷を物語るとともに、白磁の出現時期を考える上で重要な資料となっている。ただ、これらの資料の年代や白磁の認定を疑問とする見解もある(森2011)。

▶︎(4)北斉都城

 河北省臨樟県に位置する。東西にながれる漳河を境に鄴北城(ぎょうほくじょう)と鄴南城(ぎょうなんじょう)に分かれる。鄴北城は魏の曹操の時代に造営された都城で五胡十六国時代にも都とされた。南部が漳河で破壊されており部分的な調査にとどまるが、その規模は東西2400m、南北1700mで、北半は宮城、その他の中枢部、南半は居住区に分けられていた(徐1993)。

 

 鄴南城鄴北城の南に位置し、東魏(とうぎ)・北斉(ほくせい)の都であった。内城は南北3460m、東西2800mで、南面と西面に城門を確認している。城壁の地業は幅7~10mあり、城壁外面には馬面(ばめん)が付設され、城壁の外側には幅20mもの濠(水のある堀)がめぐる。遺跡からは北朝時代の瓦のほか、五胡十六国時代の「富貴萬歳」瓦当、人面文瓦が出土している(中国社会科学院考古研究所ほか1997)。

 

 宮城は内城の正門である未明門は閑をもつ構造で、その東西規模は84mであることが発掘であきらかになった(中国社会科学院考古研究所ほか1996)。

 宮城は内城の中央北寄りに位置し、南北970m、東西約620mの規模である。南面中央には閑をもつ城門の遺構(101)があり、その北には2つの基壇(111・112)、やや離れてさらに北に巨大な基壇(103)が確認されている(中国社会科学院考古研究所ほか1997)。これらは南から宮城正門、門あるいは建物、太極殿の基壇と考えられ、北魏洛陽城の宮城の構造と一致する

 外郭城は未確認だが、内城の外側には仏像が出土する遺跡のほか、内城の南に寺院跡がある。趙彭城仏寺遺跡は東西434m、南北452mを幅5~6mの溝で区画し、区画の中央南寄りに塔が建つ。塔の掘込地業は45m四方あり、その上に30m四方の基壇を築く。基壇上には少なくとも5×5間の柱が配置され中心には心柱があり、その直下にガラスの舎利容器を埋納した樽組みの箱があった。このほか、塑像片、石製蠣首(石製の基壇飾り)、瓦などが出土した。

  区画の東南隅と西南隅には小規模な院がある。2つの院は同規模で110m四方の塀が巡り、その中央北寄りに建物の基壇がある(中国社会科学院考古研究所ほか2010)。近年、中国における寺院遺跡の発掘調査が増加し、韓国、日本を含めた寺院の比較研究が活発になってきている(東北学院大学2006)。このように内城外には寺院や仏像出土地などがあり、外郭城が存在していた可能性は高い。

▶︎(5)唐長安城

 現在の陝西省(せんせいしょう)西安市に位置する。隋の開皇3年(583)に造営された。宮城は長安城の中央北端に位置する

 宮城の中央には太極宮があり、その東には東宮、西には 掖庭宮(えきていきゅう)が設けられた。皇帝、皇后、皇太子、宮女の居住域である。宮城は東西2820m、南北1492m、城壁の高さは三丈五尺(約10m)であったという。宮城域は現市街地下に位置するため、ほとんど調査されていない。従来、中央省庁、政府の諸施設は、庶民の居住区と混在して内城内に所在していたが、隋唐長安城ではそれらの専用区画として皇城を宮城の南に新設した。皇城の東西は宮城と同じで、南北は1844mである。

 外郭城は東西9721m、南北8652mの長方形である。記録によると、城壁の高さは一丈八尺(約5m)あり、外郭城外側には幅9〜12mほどのがめぐっていた。外郭城内には広大な町がひろがり、南北方向に11条、東西方向に14条の道路が設けられた。中心を南北に通る朱雀門街は幅150m、長さは5000mもあった。この道路に囲まれた方形の区画を坊とよび、その数は計110を数えた。大型のは南北500m、東西1000mほどもあり、坊内には庶民の住居のほか、商店、旅館、歓楽街、寺院や通観、高級官僚の邸宅もあった。城内には東西2つの市が設置されていた。

 大明宮は長安城の東北隅に位置し、高宗の龍朔3年(りゅうさく・663)に完成した。南北2256m、東西16円mの台形を呈し、南半部は朝政の場、北半部は皇帝の居住区である。大明宮の正門であ たんほうもんる丹鳳門(たんほうもん)は東西円.5m、南北33mの基台に5本の通路が南北に通る(中国社会科学院考古研究所西安唐城隊2006)。正門の北には広大な殿庭(でんてい)があり、その奥に大明宮の正殿である含元殿(がんげんでん)が建つ。この殿庭には東西方向の磚組(せんぐみ)の水路があり、3つの橋がかかっていた(中国社会科学院考古研究所西安唐城隊2007)。含元殿は中央に正殿、左右に楼があり、楼の南には闕(けつ・観)を有する。全体の東西規模は180mにもおよぶ巨大な建物である。

 

 北半部の中心にある太液池(たいえきち)東西2つの池が連結している。奈良文化財研究所は2001〜2005年に中国社会科学院考古研究所と共同で西池の発掘調査を実施した(中国社会科学院考古研究所ほか2003、2004、2005)。西他の規模は東西484m、南北310m、自然の窪地に版築(はんちく・土をつき固めて建物の土壇や土壁を造る方法)で池岸を築いて形を整えている。他の西北には幅10mをこえる導水路があり、導水路の東には廊状の水上建物が建っていた。池の南岸にも岸から池内に張り出す釣殿状の建物があった。他の中央に浮かぶ蓬莱島(ほうらいとう)の南岸には州浜(すはま)や景石(けいせき)などが配されていた。池の中からは瓦や土器、陶磁器など多様な遺物が出土した。官窯製を示す「官」の文字を刻字した白磁は、三彩の枕などとともに宮廷で使用されていたものであろう。

▶︎(6)唐洛陽城

 河南省洛陽市に位置する隋の大業元年(605)に造営された。 宮城は西北隅に位置し、その規模は1040m四方である。宮城の北には3重の城壁、宮城の両側にも2重の城壁がある。宮城の南には皇城が位置する。皇城の東西規模は2100m、南北は725mである。さらに、宮城、皇城の東側には東城と含嘉倉(がんがそう)城とがある。これらは中心の宮城を何重にも取り巻いて防御している。

 宮城内の中軸線上には多数の基壇を確認しているが、隋から北宋にかけて幾度かの改修があり状況は複雑である。則夫武后の時代に建てた明堂は平面八角形の基壇で、その直径は85m、基壇中央には柱穴がある。柱大の直径は9.8m、探さは4m、底には巨大な礎石がある(中国社会科学院考古研究所洛陽唐城隊1988)。記録によると、明堂は3重の円形建物で高さは90m近くあり、中央に心柱があった。近年、遺跡公園整備のため、応天門明堂や天堂などの宮城中枢部を再発掘しているが成果は公表されていない。

 宮城内は断続的に調査されており、瓦磚類(がせんるい)や三彩の器が出土している。なかでも龍を飾った軒丸瓦は珍しい龍文の瓦は宋代以降に盛行することから、この資料は唐代でもかなり遅れて出現するものと考えられる。

 皇城の西南隅では、住宅、宿舎の建設に、工事中に多量の赤焼きの土器が出土し唐代の中期から後期の土器で種類も多い。この場所は唐代の瀉口碾坊(しゃこうてんぼう)にあたこれらの土器はここで苦役に従事して囚人たちが使用していたものではないと推測している(中国社会科学院考古研洛陽唐城隊2005)。

 上陽宮は皇城の南西に位置し、高宗の上元2年(675)に造営された。発掘調査では、幅5mほどの他の一部が検出された。池岸は切石や河原石を積み上状底にも河原石を敷き詰めている。他の北岸と南岸には建物や園路が発見され、池を跨(また)ぐ水上建物もあった。陶磁器のほか、建物に使用された石製蠣首、樽や瓦などが出土した。とくに、施釉の軒瓦や飾り瓦は、建物の格調の高さを示している。この遺跡は宮城の一部にすぎないが、宮内苑他の状況がわかる貴重な遺跡である(中国社会科学院考古研究所洛陽唐城隊1998)。

 外郭城の規模は、北面が6138m、東面は7312m、南面が7290m、西面は複雑に曲折して別途中で切れている。皇城正門を出るとその南を洛水が横切っていた。河の上には3つの橋が架けられており、橋を渡ると、外郭城の正門まで定鼎門街とよばれる道路が5km近くもつづいていた。発掘調査によれば、道路の幅は116mあり、中央と左右の道路に分かれていた(中国社会科学院考古研究所洛陽唐城隊ほか2004)。中央は皇帝専用の道路、左右両道は一般道である。城内には、東西、南北の道路が交差し、103のが設置された。坊の規模は一辺が500m前後で正方形に近いものが多い。城内には計3カ所の市場が設けられた。

  

 外郭城の東南にある履道坊で白居易(白楽天)の邸宅を調査した。ここでは複数の土坑と水路、道路や居宅が検出された。居宅跡は幾つもの建物や門が組みあわさって院を構成していた。土坑や水路には多量の遺物があり、瓦のほかに陶磁器などの生活用品が出土した。なかでも当時の喫茶の様子をうかがわせる施釉陶器や白磁の茶器、茶道具が目を引く。これらの遺構は白居易の『池上篇』並序、『履道坊第宅記』にある邸宅周辺の状況と一致することから、白居易の邸宅跡と判断された(中国社会科学院考古研究所洛陽唐城隊1994)。

 洛陽城内では瓦磚を焼成した窯跡群が多数みつかっている。宮城内やその付近に位置する窯跡は宮城の造営に関わる官窯であり、宮城から距離のある窯跡は坊内の建物に瓦磚を供給した民窯であったと考える。開元19年(731)に城内おける無道営を禁止する詔(みことのり)がだされており、これらの窯跡の年代の下限はこの年以前と考えられる(洛陽博物館1974・1978)。獣面文磚は、陶製の板に浮彫の獣面を表したものである。全体は新羅や太宰府から出土する鬼瓦に似るが、裏面は平坦で釘穴も見あたらないことが特徴である。

 杏園(きょうえん)墓地は河南省催師市にあり、唐洛陽城の東約30kmに位置する。この墓地では計69基の墓が見つかり、1基をのぞいて地下式の墓室と墓道をもつ形態である。このうち46基の墓から墓誌が出土しており、それによると被葬者は中下級の官僚が多い。副葬品の残りもよく、陶磁器、陶桶、金銀器、銅器、玉や石製の装飾品、漆器、貨幣などが多く出土している

 M2603の被葬者は李景由といい、開元26年(738)に埋葬された。墓室にはもともと壁画があったがほとんど残存していない。ここからは墓誌のほか、鉄製の十二支桶、銀器、瑞獣鏡、雲龍鏡などが出土した(中国社会科学院考古研究所2001)。瑞獣鏡は小さいが精巧な作りである。雲龍鏡は八花形の鏡背に龍1頭を浮彫に表現する。東京国立博物館の法隆寺宝物館、泉屋博物館などに類例がある。

 このほか、Ml137(墓誌722年)出土の双雁鏡、M1366(墓誌694年)出土の海獣葡萄鏡など優品が多く、同類鏡の年代の定点ともなる重要な資料である。この墓地は墓誌により被葬者の身分や埋葬年代のあきらかな墓が多く、未盗掘で副葬品もほぼ完全な形で残存しているため、洛陽における唐代墓の編年の基準資料となっている。

■おわりに

 都城とは首都であり一つの大都市である。したがってそれが内包する情報は膨大である。一方で、個々の都城遺跡は残存状況や調査の進展状況の違いが著しく、発掘調査を実施したのはごく一部分でしかない。こうした現状が都城の全貌の復元や都城遺跡相互の比較研究を難しくしていることは否めない。今後の調査による新資料の蓄積を待つとともに、新たな研究の進展にも期待したい。

(今井晃樹 都城発掘調査部)