市民大学講座①「古代の石岡」

■市民大学講座「古代の石岡」

日 時 平成29年12月12日(火)午後2時〜午後4時

場 所:牛久市中央図書館

講 師:石岡市教育委員会文化振興課 係長 小杉山大輔

■録音-1(21分)

▶︎はじめに

 石岡市には現在,8件の国指定文化財、38件の県指定文化財,82件の市指定文化財,19件の国登録文化財が存在します(合計1年7件)。さらに8件の国指定文化財の内6件が「史跡」に分類されます。この6件の史跡は茨城県最大,関東でも2番目の大きさを誇る「舟塚山古墳」,県内には3件しかない特別史跡である「常陸国分寺跡」「常陸国分尼寺跡,常陸国を統括した役所である常陸国府跡」,平成29年10月13日に新たに指定された「瓦塚窯跡幕末の志士が居住していた佐久長東雄旧宅」です。

 

 特に瓦塚窯跡は先々月に指定されたばかりであり,石岡市内でも今後の活用に期待がかかるところです。これらの史跡の中で特徴的なのは奈良・平安時代(古代)の遺跡が多いということです。

 

▶︎今回の講座の対象となる資料

 考古学において参考にする資料は大きく分けで3種類に分別されますこまず1つは当たり前ですが考古資料です。これは遺跡の発振を通して得られる遺構や遺物をもとにして歴史を復元していくものです。今回の講座はこの考古資料を主に取り扱いたいと思います。2つ目文献資料です。今回の講座で参考にするものは「続日本記(しょくにほんぎ)」や「正倉院文書(しょうそういんもんじょ)」など日本の正史として編纂された資料や奈良の都で現在に伝わっている文書です。

  

 石岡市で所有している古文書は江戸時代から昭和時代にかけてのものがほとんどですが,個人所有のもので鎌倉時代まで遡るものが存在。この文書は「税所文書(さいしょもんじょ)」と呼ばれ県文化財に指定。この文書に関しては次回の講座で取り扱いたい。最後は少し特殊で遺跡の発据を通して文献資料が確落される場合があります。土れは木簡などがその例に当たりますが,石岡市の場合,漆紙文書(うるしがみもんじょ)という古代の文献が鹿の子C遺跡から確認されており,多くのことが分かっています。この資料に関しても次回の講座で紹介いたします。

 その他には仏像などの有形文化財で平安時代まで遡るものがありますが,・指定文化財でも中世までがやっとで全体的に奈良・平安時代のものは圧倒的に考古資料が多いというのが現状です

▶︎常盤国分寺跡・尼寺跡(聖武天皇・光明皇后の尽力により天平13年に詔(みことのり)が出される)

①当時の時代背景

・聖武天皇の生い立ちと家族

 聖武天皇は生まれてから36年間,母親(藤原不比等(ふじわら の ふひと)の娘宮子)と会えませんでした。また,光明皇后との間に生まれた某王(基王・もといおう)は1歳で亡くなります。

     

天然痘の流行

 天平7年(735)・天平9年(737)に天然痘が大流行します。諸説ありますが人口の7人に1人 が死亡したといいます。当時,地震などの自然災害に関しては天皇の責任とされていました。また,この天然痘の流行により藤原4兄弟(武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂(まろ))に加え,中射貫・多拾比県守(たじひのあがたもり),天武天皇の3男で日本書紀の編纂に当たった舎人親王や天武天皇の7・男・新田部親王なども死亡したとされています。

・不安定な政局 

 長屋王(ながやのおおきみ)は天武天皇の長男として壬申の乱(じんしんのらん)で活躍した武市皇子(タケチノミコ)の長男です。武市皇子は宗形君という地方豪族出身の母親を持つため皇位継承はできませんでしたが,その息子は有力な皇位継承者だつたようです。藤原4兄弟の陰謀により自殺しますが後に無罪であったことが判明し,長屋王の息子たちも名誉を回復します。長屋王邸のあとには光明皇后が居住していましたが,居心地が悪かったのか,出家後は父不比等邸のあった場所(平城宮の東隣)に法華寺を建て移り産みました。さらに,藤原宇合(ふじわら の うまかい後の持統天皇)の長男・藤原広嗣(ふじわら の ひろつぐ)も反乱を起こし聖武天皇に衝撃を与えました。

・護国

 このような状況のも、とで聖武天皇は自ら出家し天璽国押開豊桜彦天皇・勝宝感神聖武皇帝・沙弥勝満(しやみしょうまん・大宝元年(701年) – 天平勝宝8年5月2日(756年6月4日と名乗り,仏教の力で国を治めようとします。これを政策化したのが東大寺及び国分寺の建立です。

 聖武天皇は、天平9年(737年)には国ごとに釈迦仏像1躯と挟侍菩薩像2躯の造像と『大般若経』を写す詔、天平12年(740年)には『法華経』10部を写し七重塔を建てるようにとの詔を出している。

② 国分寺の実態

■録音-2(22分)

・「金光明四天王護国之寺」

 国分寺は正式な名‘称を「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」といいます。四天王とは有名な増長天や多聞天といった仏のことで,金光明という経を唱えるこどで四天王が救済に訪れ,国を護るという意味です僧寺には僧が20人配置され,封戸50戸と水田20町が支給されました。

  ・「法華滅罪之寺」

 正式名称を「法華滅罪之寺」といいます。これは法華経を唱えることで前世の罪が滅するという意味です。尼寺(あまでら・にじ)には尼僧10人が配置され,水田10町が支給されています。光明皇后が積極的に携わったようです。

③ 常陸国分寺跡・常陸国分尼寺の調査成果

 ・常陸国分寺跡は昭和50年代から継続して調査が行われており、中門・金堂・講堂などの主要伽藍が確認されています。回廊が中門から金堂に取り付きます。近年の調査では回廊が複廊であることが判明しました。ただし,七重の塔がまだ確認されておらず,遺跡の範囲はまだ拡大しそうです。

 また,伽藍の西側を区画する溝からは大量の瓦が検出されたことから,築地塀が存在したものと思われます。発掘調査を通して当時の様子が復元できつつあります。

・常陸国分尼寺は中門から回廊が伸び講堂に取り付くことが判明しています。回廊で囲まれた内部から金堂が確認されています。また,講堂の北側からは食堂と呼ばれる掘立柱建物が確認されています。従来の調査では「尼寺」や「法華」と記された墨書土器も出土しています。近年の調査では尼寺東側から掘立柱建物鉄鏃(てつぞく‥鉄製の矢じり),硯などが検出されており,尼寺を管理する行政機関の存在が想定されます。

▶︎ 常陸国府跡(常陸国を統括する役所。藤原手合などの有名人もやってきた。現在で例えると県庁)

■録音-3(22分)—————————

 

 645年に大化の改新が起こると,早速東国に使者が派遣され茨城国や新治国といった国がまとめられ常陸国とされました。この国に対して中央からの命令を伝える役割を果たしたのが「国司(こくし・くにのみこともち)」です。石岡市では発振調査の結果7世紀末から10世紀にかけて機能した国庁の跡が確認されました。国庁は東西に長い北側の建物です。その南側に南北に長い脇殿が配置され、「コ」の字型の建物配置をとります。また,正殿の前には儀式空間である前殿が配置されました。

常陸国風土記の編纂地

 和同6年(713)元明天皇により,郡の名前を縁起のよい名前にすること,各地の名産,土地の状態,地名の起源,古老の言い伝えを書き記すことなどが命じられました。これを受け各国で作成されたものが風土記です。現存するものは常陸国をはじめ出雲国,播磨国,肥前国,豊後国と5か国しかありません。常陸国では郡ごとに作成され,それが国庁で取りまとめられたものと思われます。

② 有名な国司

 常陸国は全国で2番目に稲が収穫できる国でした(1位は陸奥国なので実質1位)。国はその規模ごとに大上中下というランクがあり,常陸国は大国でした。東北との国 境という交通の要衝でもあり,国司には歴史に名を残すような著名人も指名されています。

③ 出土遺物

 特筆すべきものに円面硯(えんめんけん)があります。常陸国衙で出土した硯は径が大きいことが特徴です。当時,公務員は「刀筆の吏」と呼ばれており,公文書の作成を行っていました。そのような中で硯は丁種の権威の象徴となります。

■録音-4(31分)—————————

④ 巨大な柱を持つ正殿

 報告書には正殿の柱の径が80㎝もあったと書かれています。他の建物の柱の径が30〜40cmであることと比べるとはるかに大きいことが分かります。また,正殿だけは基壇が存在したことも報告されており,国庁の中でも特に正殿が重要視されていたことが分かります。

▶︎ 瓦塚窯跡(34基の瓦窯と1基の須恵窯.1基の製鉄炉が確認された。国府を支えた瓦生産の場)

■録音-5(20分)

 以上みてきましたように,現在の市街地では多くの史跡が存在しました。これらは皆奈良平安時代の重要な施設であり,これらを維持していくためには大量の瓦などの消耗品も必要でした。ここでは国府を支えた工場のような遺跡を解介します。

① 瓦の役割

 そもそも瓦の役割は大きく3つあります。1つは雨露をしのぐこと,2つ目は建物の重しとなって 建物を安定させること,最後が建物を立派にみせることです。

② 瓦の作り方

 土の内部に空気が残っていると焼成時に温度があがって破裂してしまいます。そこで,空気を抜くために板の上にのせ,上から叩きました。板と粘土の間には布を施し外れやすいようにします。同様の理由で叩く道具には縄を巻きます。そうすると瓦には布目と縄目が残ります。

③ 窯跡の規模 

         

 瓦塚窯跡では35基の窯跡が確認されています。1基は須恵器という器を焼く窯跡です。7世紀前半の窯跡で,茨城県内では須恵器を作り始めたのがこの頃なので,古手の窯跡ということになります。残りの34基は瓦窯です。注目される点は8世紀前半の国分寺の創建年代よりも古い窯跡が存在したことです。窯跡1基と住居跡が1基確認され,小規模な操業でした。

■録音-6(7分)

 

 その後,8世紀中ごろになると平城京の文様が取り入れられます。この文様は9世紀まで継続して使用され続けられる重要な文様でした。9世紀になると4基1セットになって操業されるようになります。この時期以降は窯場が瓦塚に一元化され安定して操業されるようになります。国分寺の創建も一段落し,修復がメインとなっていったものと思われます。続いて10世紀に入ると瓦の生産が終了します。この時期以降は国分寺でも瓦がみられなくなり,国分寺が維持管理されなくなる時期と瓦塚窯跡の終焉の時期が合致することとなります。

④ 国の史跡に

 ③の成果に加え,瓦塚窯跡では国府で確認されているほぼ全ての瓦の文様が発見されることなど,調査成果が評価され,平成29年10月13日に国め史跡に指定されました。

▶︎まとめ

 これまでみてきたように,石岡市の史跡は多くのものが奈良・平安時代の国策を反映したものでした。それは逆に言うと正史などで記されている事項がどのように地方で実施されたか,命令が機能していたかどうかが分かる重要なフィールドであるということも意味しています。そして,それらの情報は小さい現場でも積み重ねていくことで、日々更新されていくのです。石岡市では今後も継続的に調査を進め,街づくりに活用をしていきたいと思います。