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京都文化財史
国宝三十三間堂
三十三間堂(蓮華王院)の彫刻
二十八部衆
重要文化財目録
快慶
2.飛躍の舞台ヘ・東大寺再興
3.東国への進出
四.勧進のかたち(結線合力による造像)
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笑意軒
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鳥獣人物戯画(高山寺)
鳥獣人物戯画(国宝)
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奈良文化財史
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遣唐使の時代
法隆寺焼損
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3.日本の都城
阿修羅
常陸国府(石岡市)
市民大学講座①「古代の石岡」
文化財研究
鈴木空如
仏画家としての空如
平成21年度の取り組み
法隆寺金堂壁画
浄土寺(兵庫)
鈴木空如
鈴木空如について – 鈴木空如資料調査研究事業(NHK日曜美術館)
鈴木空如について
鈴木空如は、明治6年(1873)、鈴木虎之助・フミの三男として生まれ、本名を久治といいます。秋田県仙北郡小神成村13番地(現・大仙市太田町小神成)に生まれ、
世界文化遺産・法隆寺の金堂壁画を模写したことで世に知られています
。空如は、仏画によって生計を立てるというよりも仏画研究に頭していたため、生活は決して楽ではありませんでしたが、佐藤維一郎(内小友出身、号維 山)・田口松圃(大曲出身、大曲町長、県議会議員を歴任)などと親交が深く、とくに
維一郎は空如のよき理解者
であったことは知られています。
維一郎は手記『仏絵師の聖 鈴木空如翁』に、空如との出会いについて「その瞬間、私は『
清貧即清浄』
と言うべき尊敬の念を禁じ得なかった。その 節、私は僭越にも仙北出身の此の一仏画家に対し、晩年まで、年々歳々揮毫をお願いいたし、
秋田県にその作品を遺したいと決心をした
。」とあります。維一郎 は空如よりも17歳年下でしたが、空如の生き方・仏画制作に対する姿勢に
感銘を受け空如を物心両面から支え続けた
のです。空如の仏画には落款などの署名はありません。
これは、美術絵画として制作したものではなく、
仏画はあくまで信仰の対象であるという空如の一念の現れ
であると考えられます。なぜ、空如は仏画の模写に人生を掛けたのでしょうか。それは、空如自身が明治・大正という時代を生き、7・8世紀に中国から伝来した法隆寺金堂壁 画の〈仏〉たちや、9世紀に空海が中国から持ち帰った密教の図像に描かれた〈仏〉たちが失われてゆく現実と向き合い、そのことへの
危機感と後世に伝えよう とする使命
感
があったからではないでしょうか。空如はそれらの忘れ去られてゆく〈仏〉たちを一心にありのままに模写し
後世に伝えようとした
のです。
第1号壁画 釈迦浄土図
第2号壁画 半跏形菩薩像
法隆寺金堂内陣壁画位置図番号は壁画番号を示しています。
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