慶派の仏像

■慶派の仏像

▶︎六波羅蜜寺の平安仏

 六波羅蜜寺の前身は、空也(くうや、こうや)が10世紀ながばにこの地に開いた西光寺である。空也の死後まもなく作られた伝記である『空也誄(るい)』によると、903年に生まれ、21歳頃自ら得度して空也を名乗った。諸国遊歴後京に戻り、人々に念仏を勧め、「市の聖」と呼ばれた。その後比叡山で正式に大乗戒を授かり、光勝という名を受けるが、結局この名を用いず、空也で通すことになる。

 40歳代後半に観音、梵天・帝釈天、四天王像を造り、東山に西光寺を開き、また大般若経の書写を志した972年に西光寺で没したという。

 彼の信仰の中心は阿弥陀と観音である。このことと、比叡山で受けた「光勝」という名を用いなかったということの間には関係があるかもしれない。「光勝」は、七仏薬師が住する七仏国土中の「東方光勝世界」に由来すると考えられる。天台においては薬師仏は大変重要な仏で、延暦寺の根本中堂の本尊も薬師である。しかし空也の信仰は阿弥陀、観音を中心としたものであったために、彼にとっては違和感ある名前だったのであろうか。

 このように考えると、空也の活動および空也草創期の西光寺は天台と一線を画していたと思われる。空也の死後数年をして、西光寺に中信という比叡山の僧が入り、寺名を六波羅蜜寺と変更した。それ以後はこの寺は天台の別院として発展していく。

 ところで、六波羅蜜とは仏教の6つの実践徳目であるが、同時に六波羅は地名でもあるらしい。地名に仏教の言葉をかけてつけられた寺名ということであろう。

 ではその「ろく原」という地名はどこから来ているかというと、東山山麓の「麓原」からとも、「髑髏(どくろ)の原」から転じたものともいう。なぜ髑髏の原かといえば、この地が平安京の東の外側にあって、墓地であったからである。

 平安京の西半分はもともと湿地帯で、人口は次第に東半分に集中し、やがて町は都の枠を超えて東へと広がっていった。六波羅蜜寺があるあたりは、西から広がってきた町と市外との境であり、人々の生活の場と葬送の地の境、つまりこの世とあの世の境界として、宗教上重要な位置を占めることになったのであろう。このような場所ゆえに、やがて六波羅蜜寺では地蔵信仰が盛んになっていくことになる。

 このように六波羅蜜寺には、前身寺院・西光寺を開いた空也の観音信仰、寺を受け継ぎ発展させた中信の天台=薬師信仰、そしてその後の地蔵信仰が積み重なっている。

 なお、現在は六波羅蜜寺は真言宗寺院である。また、近世以後は観音札所として観音信仰が再び盛んとなり今日に至っている


   

▶︎康勝

 康勝(こうしょう、生没年不詳)は、日本の鎌倉時代の仏師。運慶の四男。湛慶は兄。慶派。

 建久8 – 9年(1197 – 1198年)、東寺南大門の金剛力士(仁王)像(明治時代初頭に焼失し現存せず)の造立に運慶らとともに携わったのが、史料上の初見である。運慶が一門の仏師を率いて建暦2年(1212年)に完成させた興福寺北円堂復興造仏にあたっては、四天王のうちの多聞天像を担当しているが、この四天王像は現在、所在不明である(現在、興福寺北円堂に安置する四天王像は全く時代の違う平安時代初期のもの)。

 現存する康勝の作品としては、日本の肖像彫刻として屈指の著名作である空也上人像(六波羅蜜寺蔵)、後世の弘法大師像の規範となった東寺御影堂の弘法大師(空海)像(『東宝記』に「仏師康勝法眼作」の記述あり)などがある。

 東大寺念仏堂の地蔵菩薩坐像(康清作)の銘記から、この像は運慶と康勝の尊霊のために造られ、嘉禎3年(1237年)より以前に康勝が没していることが知られる。子に、康誉、康清